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発達障害の私の社会人デビュー

そこからの専門学校時代は、男子の多い分野という事や女子が女子らしい集団を作るタイプの人がいなかったこともあり、何事もなく楽しい充実した学生生活を送ることが出来たのだ。

学生生活で一番楽しく、まともに2年間を通い切ったのはこれが初めてだったかもしれない。

当時の人とは縁がある人とは今でも繋がっており交流がある。

中高合わせて合う友達は2人しかいないが初めの専門学校で出来た友人とはクラスが同じだったメンバーとならいまだに気楽に集まれる気がする。コロナの時期もリモートで飲み会も行われたりしてなんだかんだで集まるのが好きな集団なのである。

そして私も、30代に入ってもまだ10代かのようにはしゃぎ、独身のまま自分の好きな事をやっているみんなの事がなんだかんだで嫌いじゃなかったりする。彼らは友人という言葉はしっくりこないがどちらかというと仲間や同士という言葉の方がピッタリ関係なのかもしれない。

2年間の学生生活を終えた私は初めての就職活動にぶつかる。

なんといってもこの年はリーマンショックが起きた年なのだ。

例年求人を出していた企業もこの年は求人を出すのを見送っているところも多くそもそも応募できる企業が限られていたので、ひとまず自分が希望する職種に就くべく片っ端から応募した。

会社の大きさやどういった事を得意としているのかなどを選べる余裕もなく一先ず履歴書を書いては片っ端から送り面接に進んだ企業へは足を運び集団面接を受けた。着なれないリクルートスーツに身を包み髪を一つに束ね自身を面接で精いっぱいアピールする。

しかし、年内には内定が出る事はなくそのまま年末は実家に帰省することに

実家に帰省しているときに奇跡が起きた。応募して最終面接まで行き一度落とされた企業から1名辞退者が出たので繰り上がりで内定をだしますという連絡だった。実家ですぐに両親に内定が出たことを話し喜んだ。

その企業は赤坂の某テレビ局内のフロアの一角に会社がある。

私が就職した会社は技術会社でテレビに関わる業界で音声として働くことになったのだ。入社は4月だがその前から研修という事で数度会社に通っていたころ…関東大震災が起きた。

丁度その日は研修で某テレビ局の中におり階数も高い事から立っていられない程の揺れでありしゃがみ身を低くし近くにある物が倒れてこないように抑えた。様々な機材が落下し破損したものもあっただろう。

本震の揺れが収まった後は会社にけたたましく電話が鳴り響いた。

地震が起きたので取材に街に出るのでクルーを確保したいという制作側からの電話であった。被災していても我々テレビの業界は仕事をしなければならない立場であり、民間人に現状を伝える義務があった。

無事な機材をかき集め、今いる人をかき集めカメラマン、VE、照明の3人1チームをいくつか作り、エレベーターが止まっていたこともあり30数階から機材を手持ちで1階まで運ぶために何度も階段を往復した。

明け方頃には落ち着きを取り戻し電車も一部では動き始める場所もあった。家に帰れず街で交通機関が動くのを待っていた人々も徐々に帰宅することが出来た。私もその波に乗り家に帰宅するとキッチンで食器がクラッシュしていたがそれ以外に大きな被害もなく水も出れば電気も付いた。

ひとまず、荒れているキッチンで割れた食器類を片付けて一息ついた。

この地震のせいで卒業式も残念ながらこの年だけ行われなかった。

そして4月の入社日を迎え同期のメンズ2人と一緒に私は社会人として入社した。入社して3か月後に同期の内1人がストレスで胃に穴が開き退職した…。なんというか…体育会系の業界・会社という事もありかなりスパルタであった、通過儀礼のように厳しいカメラマンの先輩に数週間必ずつけられるのだが胃に穴が開いた彼はそのカメラマンの通過儀礼を通過できなかったのだ。私も涙をのみながら歯を食いしばり耐えてその通過儀礼をなんとか通り越した。そして、なんだかんだ1年間程ロケで外に出ていたが2年目に入りやっと入社当時から希望していたスタジオの音声として異動できた。まぁ、そちらにはお局がおり、それはそれで苦労したのだが…

良い先輩にも恵まれ、他社の方とのつながりも出来、一人で番組につくことも出来るようになった頃…勤続10年目の先輩の給与明細を見せてもらう機会があり私は愕然とした。

この業界は給与水準があまり高くない…一部の局員と呼ばれる人たちを除いてほとんどの人の給与は低いが仕事は不規則な時間であり急な呼び出しや残業があるが残業代が出ない、今で言うパワハラも普通にあったし、アルハラもあった。そんなブラックな業界だった。私は2年で見切りをつけその業界を去ったのであった。その2年間は確かに日々刺激的で楽しい事もなかったわけではないが一生続けられる仕事ではないとも正直思ったのだ。ここで先に言うがその後勤続10年の先輩も数年後に退職しトラックドライバーになっていた。

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