夏が来ると思い出す…
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幼稚園児の時の記憶。畑には大きなトマトやキュウリがなっていた。
畑が誰かのものだなんて知らなかった私は、キュウリをとって、麦わら帽子に入れて、「これでおままごとできるね!」と嬉しそうにしていた。
そこにあるものは、誰かが所有しているもの、という感覚がなかった。いつも遊んでいた空地も、おそらく誰かが所有していた土地だったのだろう。
そんなことを教わっていない子供たちは、その空地に秘密基地をつくって遊んでいた。落ちている空き缶や棒を拾ってきて、武器をつくったり。男の子女の子関係なく、誰かが遊んでいると家を飛び出して遊びに加わっていた。
階段の何段目から飛び降りることが出来るか、誰が一番速く階段を上れるか、誰かが始めると競争する。上の子に追いつきたくて、必死についていく。
自分が親になって知ったのは、そんな子供と我が子を遊ばせたくないと思っている大人が存在していたことだった。
私の両親はケンカに忙しい夫婦だった。ケンカなしでは夫婦としてやってらんない~と考えていたのかもしれない。それほど夫婦ゲンカが定期的に行われていた。
子供としては、はなはだ迷惑で…そのおかげで夕飯がなくなり、泣いて布団に隠れ、朝を迎えるという流れになる。父親はもちろん家にはおらず、母親は何ごともなかったかのようにしている。子供の心親知らずの典型的な親の姿に、子供たちは空地の秘密基地へ行っては遊びに夢中になることで、親のことを忘れるしかなかった。
幼稚園児のうちは、それでもまだいい。小学生、中学生、高校生となっても、夫婦ゲンカという我が家の行事は相変わらず続いていた。子供には理解できない男女の仲。仲がいい時と悪い時の両方を見せつけられ、子供はどちらが本当の親の姿なのかわからなくなっていく。
親が整えてくれていた環境を信じていたら、突然、穏やかだった空間が一瞬で変わるのだ。それが前触れもなく…たとえば…友達を電話で話していても…容赦がない。子供が今何を必要としているのか、そんなことはお構いなしなのである。
夏になると思い出す…親の夫婦ゲンカ。
その場に居合わせないように、家にいる時間をなるべく減らすために塾へ行かせてもらうと…夕飯も出なくなった。朝ごはんの習慣がないのは、徹夜で母が仕事をしていたから。当時の学校給食の牛乳ではお腹をこわしてしまうために、栄養がある食事にあり付けない。それが当たり前の生活だった。今のように他人の生活を知ることもなかったのが幸いだった。
知らなくて良かったと、今でも思う。知っていたら、惨めな思いを抱えて生きなければならなかっただろう。
ただ、我が家恒例行事ともなっていた親の夫婦ゲンカによる影響を、私は大人になっても「その空気」に敏感になってしまっていることで、気づかされる。
戦いが始まることを察知すると逃げなくっちゃ…という危険を知らせる信号が点滅し始める。信号無視は、生命の危険に結びついている。
そのため「場を静めるためにどんな方法があるだろうか…」と、考え出すクセが出来上がった。
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夏が来ると思い出す…
畑のキュウリをとったことを知られて、怒られ、謝ったのだろうか…ということを。
私の両親は…子供に謝ったことがなかったので…年をとってから子供たちに怒られた。それでも謝らないのは…ケンカなしでは夫婦だったからなのだろう。