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「私は恐竜」ダイナソーとラッダイトと

ダイナソーの恐竜以外の意味とは

「私はダイナソーだから、周りもダイナソーが多い」
「何さ、それ。ダイナソーって恐竜でしょ?」

日本に帰っていた時にそういう会話を友人とした。こういうことはわりとよくある。イギリスで頻繁に使われる表現だから、なんとなく通じるだろうと思って、日本の友人相手にも、まんま使いをしてしまうのだ。

dinosaur:恐竜。この言葉は、英語圏ではテクノロジーや変化に対応できずに取り残され、考え方なども古く、時代遅れになってしまっている人を指したりもする。

He is a dinosaur.  あいつは時代遅れだぜ

日本では、生きた化石とでも言った方がいいのだろう。基本的には似たようなイメージか。恐竜たちは、進化を待たずに絶滅してしまったが、生きている化石、シーラカンスなどは、昔の姿のまま細々とサバイバルしている。

それではラッダイトとは何ぞや

ダイナソーとは別にラッダイト(Luddite)という言葉がある。

He's a Luddite. 奴はテクノロジー反対主義者だ。

と人が言う時、それはテクノロジーや新技術に対して懐疑的な態度を示し、反対の立場を取る人のこと。科学的進歩自体に反対する、といったような、わりとネガティブなシーンで使われている気がする。

ラッダイトの語源は、19世紀初頭、産業革命中のイギリスで、機械化により職を失うと恐れた者たちが、工場や機械の打ちこわし運動などで抗議したラッダイト運動から。この時の打ちこわし運動がラッダイト運動と呼ばれたのは、実在したかは定かでない、当運動の伝説のリーダー、ネッド・ラッド(Ned Ludd)による。

AIの台頭により多くの仕事が消滅するのではという危機が取りざたされる昨今、あまりの急激な変化に批判的、忠言的なことを言う人物は、「ラッダイト」のレッテルを張られてしまう事もあるようだ。

ダイナソーとの違いは、ラッダイトは積極的にテクノロジー批判を行うのに対し、ダイナソーは「気が付くと、わたくし、取り残されていました・・・」風に、心ならずも時代遅れになってしまったという、可笑しくも悲しい雰囲気がある。

私、ダイナソー?

私は本当にダイナソーか?

近くに出かける時は、ほとんどスマホを持ち歩かないのは、自分の意思だ。究極のユーザーエンゲージメントのみを最終目的としたアルゴリズムを使用するプラットホームに、振り回されたくもない。便利になったなあとは思いつつ、スマホが無かった時代に多少のノスタルジアを感じるのはダイナソー的か?

昨今のテクノロジーの突っ走りに若干の疑いを持っているのは、ラッダイト的要素とも言えるのか?便利な世界の恩恵をありがたく頂戴しながらも、同時にダイナソーとラッダイトの両者を少しずつ持ち合わせている気がする。

お札やコインなど、最近触ることもあまりなくなったが、現金というものが消滅してしまうのが嫌だからという理由で、できる限り現金を使い続けている友人がいるが、これも意図的ダイナソーと言えるかもしれない。

進歩はいい。

でも、あるテクノロジーが急激に発達したせいで起こる問題の解決策を見出さないままの爆走はやめて欲しい。また、それによって死んでいく習慣の中にも取っておくべき物事はあるはず。

ブレーキを持たずアクセルしかない車、しかも多少のUターンも許されない車に乗っていたくないということかもしれない。

図書館にて

2月になってから、金星、木星、火星の惑星が南の空に並んで見えていたので、何か惑星に関する本はないかと実にひさしぶりに図書館に足を向けた。ウェッブサイトやアプリでも確認できるのだが、テーブルの上にでんと大きな本を広げて天体の写真などをページをめくりながら眺めてみたい衝動にかられたから。

図書館に入り、びっくりした。本の数が極端に減っており、椅子やテーブルなども減らされていたのだ。あまり人もいない。

数少ない天体関係の本の中から、Stargazing for Beginnersなどという本をようやく見つけ出し、借りて来た。時々、気の向いた部分を繰って読んでいる。私の前に借りた人のスタンプを見ると、それは約一年前のものだった。悲しいかな、この本は、一年間、誰にも借りられずに棚に座っていたのだ・・・。

最近は、金欠で破産する地方自治体などもある。そうした背景と、一般の本離れも手伝い、図書館もそのうち消え失せるのかもしれない。そう思いながら、ダイナソー的感慨に浸った。子供の頃、近くの子ども図書館「どんぐり文庫」に行くのは楽しみだったなあ、と。

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