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蘇我氏四代の復権と再評価 遠山美都男
蘇我稲目、馬子、蝦夷、入鹿。有力豪族として大臣位を世襲、天皇家とも姻戚関係を結び栄えるも、中大兄皇子らによる大化の改新(乙巳の変)により本家は滅亡。王権簒奪を目論んだとして長く「逆臣」のレッテルを貼られてきた蘇我氏。彼らは渡来人か、開明派か、それとも逆臣だったのか。本書では飛鳥の大地に眠る蘇我氏の真実に迫ります。執筆直後の遠山先生にご執筆への思いを語っていただきました。
◆蘇我氏が「悪臣」とされた理由
蘇我氏が稀代の「悪臣」「逆臣」とのレッテルを貼られ、それがこれまで殆ど疑われてこなかったのは一体どうしてだろう。それは、二代目の馬子が崇峻天皇を暗殺し、厩戸皇子(聖徳太子)と敵対したとされることもさりながら、やはり蝦夷・入鹿父子が天皇家を乗っ取ろうとしたと言われることがその主因をなしていると思われる。
六四五年六月十二日、入鹿は飛鳥板蓋宮で殺害されたが、その時に彼が発したとされる言葉が「臣、罪を知らず」だ。これが本当に入鹿の口から発せられたかどうかは極めて疑わしく、机上の作文である可能性が高い。とは言え、この言葉には入鹿暗殺と蘇我氏滅亡の真相が隠されているのではないかと私は考える。蘇我氏の復権と再評価をめざした私がこれを本書の副題に選んだ所以である。
◆入鹿は天皇家を乗っ取ろうとしたのか?
斬り付けられ致命傷を負った入鹿は、皇極天皇(女帝)に真相の究明を嘆願する。皇極天皇の下命を受けて、入鹿を襲った刺客の一人、中大兄皇子(後の天智天皇)が、「鞍作(入鹿のこと)、天宗を尽し滅して、日位を傾けむとす」と答えたという。これによれば、蘇我氏は天皇一族を根絶やしにして、それに取って替わろうとしたというわけだ。
中大兄による入鹿の罪状告発のなかに見える天皇一族を殲滅しようとしたというのは、六四三年十一月に起きた山背大兄王(厩戸皇子の後継者)の殺害事件を指す。しかし、本書でも詳しく述べたように、入鹿は決して王位簒奪という野望達成のために山背大兄を襲ったのではなく、皇極天皇の命令を受けて襲撃を断行したと考えられる。だから、中大兄が入鹿の野望を断つためにその暗殺を決行したというのは、あくまで机上の造作にすぎず、事実としてはありえない話なのである。
入鹿や蘇我氏は王権や国家を揺るがすような大罪を犯したがゆえに、中大兄らによって成敗されたわけではない。「臣、罪を知らず」という言葉が暗示しているように、入鹿暗殺は彼にとってまさに「青天の霹靂」、まったく思いもよらぬことだったのだ。
◆史料批判の見直しを
蘇我氏の復権と再評価のためには史料批判の見直しが不可避である。蘇我氏四代の歴史を考えるに当たり、『日本書紀』が基本史料であることは言うまでもない。
だが、従来は『日本書紀』は国家による編纂物で虚偽や捏造が多いのに対して、『日本書紀』よりも成立年代は新しいが、『日本書紀』よりも古い確かな史料をもとに書かれたとされる『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』(仏法伝来と飛鳥寺創建の由来を説く)や『家伝』上(藤原鎌足の伝記)のほうが相対的に信用できると考えられてきた。むしろ、これら史料をもとにして、『日本書紀』の該当する記述に修正を加えるという解釈が行われてきたと言えよう。
しかし、やはり史料的に最も信頼できるのは『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』『家伝』上などではなく、『日本書紀』であることが確認できる。蘇我氏四代の歴史を改めて『日本書紀』を軸にして紐解いていくならば、この一族を再評価する道がおのずと拓かれてくるに違いない。
(『ミネルヴァ日本評伝選通信』2006年7月号)