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That's a wrap.

ようやくテストも、ペーパーたちも終わった。
不思議なことに、学部生やロンドン院生時代テスト期間後に感じた強烈な開放感は今回特に無く、Final期間自体もFinalが云々というより自分の中で整理整頓ができる楽しい時間という感じだったので、出すものは出したけれども別にそれが「終わり」というわけでも無いので淡々と整理整頓を続けている、という感じだ。
一足先にFinalが終わっていたルームメート (私より一つ下)は終わった瞬間速攻でクラブ並の爆音とライトで (23時に帰宅して玄関ドアを開けた瞬間私は若干ひいた) セルフパーティーしていたので、別に私が歳食ったからという訳でも無いのだと思うけど、なんだろうこの違いは、と少し考えた。
多分、今は研究それ自体がやりたくてしょうがないことだから、暇になったらこれ幸い、と趣味のようにやっている、ということなのだろうと思う。学期終わりの学部ランチでたまたま横に座った先生に、5年働いてから来たんです、と話したら、じっとこちらを見つめながら、働いてから来た人はそのために来ているからね、腹のくくり方が違うよね、と言われたことを思い出した。

テスト期間中、学部の入るNorth Hall (のコンピュータールーム) に足繁く通っていたのだが、ほぼ誰にも会わなかった。それに少し、拍子抜けした。ロンドンの院生時代はといえば、常時図書館はほぼ満席で席を探すのも難しく、印刷はテスト前ともなれば数百人待ち、地階には寝袋が転がっていて干し草のような頭をした人たちがグーグー寝ていた。会社員時代も、そんな感じだった。私はそんなに残業をしない人だったと思うけれども、する人は深夜 (というか翌朝?) までしていたと思うし、会社が入るビルにはナップルームも設置されていた。

LSEと比べてここはどう?と聞かれたことがあった。聞いた意図はまぁわかっていたが、少し、考えた。30手前で、色んなものからやっと逃れられて、ようやく好きな研究ができる喜びを感じていて、でもまだ色んなものが足りていない赤ん坊のような今の私にとっては、自分が健やかに研究に集中できる環境かどうかが一番大事で、そういう視点に立つと、アイオワの環境に感謝している、と答えた気がする。
(もっと)若い頃には、ハードワーカーハビトゥスを形成するという意味においては競争的な環境の方がいいのかもしれないけれど (でもそれも沢山ある価値観の一つだと思うしそれが人を幸せにしてくれるかどうかはよくわからない、と今の私は思う)、そういうハビトゥスはもう私の中にあるから、(一定の質が担保されていればという前提は勿論あるけど) 周りは別にいいかな、という感じになっているのかもしれない。(日本の受験戦争を経験しコンサル業界に5年いた私の中にメリトクラシー的価値観が逃れようもなく染み付いていることは認めざるを得ない。)(ちなみに先生方は死ぬほどハードワーカーだ。)
それと、人によるのかもしれないが、思考がまだぼんやりとしている段階の時、それが熟成するには「温室」が必要とも思う。叩かれまくっていたら、指摘を受けまくっていたら、育つものも育たない。ある程度思考がクリアになっていれば、それをブラッシュアップしていく上で活発な議論の応酬がある環境は勿論プラスに働くと思う。まぁだから、今の自分がどういう状況か、によるんだろう。(ということをいつも考えているのだけれど、会話の中で説明するには長すぎるから、メリトクラシーの権化のような人々に「なんであなたアイオワなの?」を"そういう"ニュアンスで聞かれる度に (結構ある) 非常に消耗する。声を大にして言いたいが、どんな価値観を持つかは個人の自由だが、他人にそれを押し付けるのは違うと思う。(一回J.S.ミルを読んでほしい))

今私は、空洞のようなアイオワの地で思考できることが、とても嬉しい。

Final期間ではあったが、(日本の)大学で学部生を相手に(Zoom)ゲストレクチャーをする素敵な機会に恵まれた (機会をくださった先生には感謝しかない) のだが、そこで私が「日本社会には私の経験を説明する言葉がなかった」と表現した箇所を、どういう意味かと聞いてくれた質問があった。確かに、「差別」という言葉も「レイシズム」という言葉も、それ自体は"ある"。ただこの"ある"がどういう意味か、というのがポイントだろうと思う。言葉が市民権を得ているかどうか、アゴラに入場する資格を得ているかどうか、という視点を持ち出した時、言葉は"ある"けど"ない"。人々が日常秩序を認識する中に、その言葉が存在しているかどうか ー そういう話を単純に一言「ない」で香らせようとした私の説明に無理があったから、聞いてくれてありがたかった。と同時に、自分の"standpoint"的に、そういう知や認識の権力性に敏感にならざるを得ない部分があるから呼吸をするようにそういう話を私は持ち出しがちなのだけど、それは多分、そんなにメジャーなものの見方じゃない、ということに改めて気付かされた。

「空洞」は思考を自由に膨らませる上でこの上なく心地良いけれど、社会における自分を相対的に認識する感覚を鈍らせていく。(その方が正直頗る心地良いから、困ったことなのだけれど。)

Finalはどれも楽しかったけれど、特にHistory of Sociological Theoryという古典理論をやるクラスのfinal paperはとても楽しかった。自分のやりたい研究テーマに、学んだ理論たちがどう影響してくるかを論じる、というbroadなお題だったが、書くことで思考がどんどんまとまっていき、書き終わった時には思考が晴れやかになった。以前ブログで書いた、理論はどこまで文脈を離れて一般法則として語られうるか、という話からスルスルっと浮かんだ話がargumentになったような感じだ。(内容に興味のある友人諸氏の方がいらっしゃいましたら、今度会った時に是非聞いてください!) まぁ、社会学の役割を、(特にマージナライズされた)人々の生活や経験についてのconceptual currencyを作ること、と言ったドロシースミスは最強にカッコイイ、と思うなどした。

数日まだ整理整頓は続きそうだが、冬休みこそ自分のテーマを考える発酵期間としたい。とりあえず、1学期目おつかれさま!

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