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部屋づくりと思考と

私にとって部屋は頭の中の投影だ。だから余計なものを置きたくないし、最適システムの設計の場と、ふわっと発想を飛ばせるinspirationを得られる場、両方のエッセンスが空間にあって欲しい。だから基本ミニマルでモダンな感じが好きなのだが、ノルディックな、静謐なトーンを重ねてニュアンスを出す感じも思考の"さざなみ"感が具象化されている感じがして好きだし、かといってポップなアクセントカラーを使うミッドセンチュリーモダン、みたいな感じも好きだ。
まぁただ私はここらのふわっとした話に、ああだこうだの枠組はあまり持ち込みたくはない (と言いつつデザインのカテゴリ・規定する要素、背景となっている文化や時代は気になるので結局読む、のだが読んだらそれはガタガタ語るより感覚に戻したい派…)、ので「なんかここらへんのこんな感じが好き」くらいの感じで全部喋っている。

ロンドンに住んでいた頃、テートモダンはとても好きでふらっと入ったりしていた。私は絵を描くことも好きだが (客観が主観レンズを通して解釈を付される過程の具象化として面白いなぁと思うから / だから印象派を見るのも好き)、モダンアートを見て (実際よくわからないことも多々あるが) へぇ、となるのが好きだ。テートモダンでモンドリアンを見た時は、全然美術史の知識は無いのだが、吸い寄せられるようにピタッと足が止まってしまって、しばらく前から動けなかったのを覚えている。直線と原色だけの (私が見たのは赤だけだった) シンプルな絵なのだが、どこか頭の中を写し出したかのように見えて、奇妙な既視感を覚えて、衝撃だった。

なぜそんなデザインなり部屋づくりなりの話をしているか (できているか)というと、学期後半に入り色々とテストが済んだり出していたいくつかのペーパーがフィードバックと共に返ってきたり、という「さて一息」的なタイミングだからかもしれない。

フィードバック(や普段の授業)から感じるのは、アメリカは基本的に褒めて伸ばすのだなということ。例えば授業中学生の答えが間違っていたとしても、「間違っている」とは言わないー「Good! You're close!」という返しを見て、この国は本当に元気が出るポジティブな返し方に溢れているな、と思った。

また色々と、自由だ。統計の授業の宿題を出そうと思い提出3日前にポータルに行ったのだが提出フォームが開いておらずメールを出した。「明日開けるね!」ときたのだが、前日の昼を過ぎても開かないので追いメールをしてやっと開けてもらった。が、クラスメートに「開いてないよね?」と聞いた時の返事が「いやー締め切りまでに出すの無理だなって思ったから締め切り伸ばしてくださいって個人的にメールしたわ」で、日本の教育で(大体?)育った私的には目から鱗だった。授業も、私は質問で全体の時間を止めるのが申し訳ないと思ってしまうのだが、全く遠慮なく皆凄まじい勢いで聞きまくる。最近、あまりにも皆が割と同じ基本的なところを繰り返し聞きまくるため、もはや先生が (全く怒ってはいないしイラついてもいないのだが) え…みんなどこがわからないの…?と若干困惑していた。ただ同時に「絶対全員できるようにさせる」という強い意思と姿勢を感じ、ありがたいなと思う。

私は「あなたは女の子だから数学が苦手なのよ」というマントラを刷り込まれて育った。大学に入りディベートというものに触れ、初めてロジックのチェーンを面白いと思った。結果定性的に概念の論理を扱うことに惹かれ、自分はそれに向いているのかもしれない、と思うようになった話は別の記事で書いた通りなのだが、その後ベンチャー企業でインターンをしExcelを叩き込まれ (大変感謝している) たその時、言語以外のロジックパズルも結構好きらしいと気づき、数字への苦手意識がなくなっていったように思う (挙句ファイナンス業界で働いたというのは中々笑えるジャンプなのだが)。

で、今統計の授業で思うのは、大事なのは一つ一つの概念・考え方を「自分が」本当にわかるまで理解しきって階段を一歩ずつ登ることなのだろうなということだ。理解のペースは人によって違う。私が嫌だったのはこのペースを比較され、できる / できないとラベリングされることだった。時間さえかければ必ず理解できると確信を持つようになってからは、自分が理解するにはこれくらいの時間がかかるのだからしょうがない、と割り切って必要な時間をかけるようにしている。まぁ数字の理解には多少時間が必要かもしれないが、理論の理解は水を飲むのと同じ感覚で入ってくる訳で、向いてるものがあればあまり向いていないものもあるのが摂理だ。

あとは最近、学期半ばということでお悩み相談セッションの時間があった (こういった時間を設定してくれている時点で、実にありがたい空気を作ってくれる学校だなとしみじみ思う)。その中でイランの彼が、英語じゃなかったらもっとうまく言えるのに、という焦り・もどかしさを感じる、他の人と比べてしまう、とシェアしてくれた。
わかる気はする。ディベートで、私は足りない語彙・表現力を、論理に頼ることでカバーする作法を学んだと思う。だからシンプルに明瞭に伝わっているとは思うが、それは同時に無味乾燥な印象を纏ってしまうのだろうなとは思う。このブログがまさにそれだが、私はもっと、ニュアンスやコンテクストを感じさせる言葉を、表現を、使いたいと思っている。使うように心がけている。でも私は英語を今、そこまでは使いこなせていない。
ただ最近、掃除機がスポンジのような勢いで文章を読み漁る中で、自分の中で面白いトランジション / 変化が起きていることに気づいた。

最初の数週間は、原文でMarxの数百ページを一週間で (他のクラスもあるのに) 読むなんぞ無理、となりkindleで邦訳を買って読んでいた。が、そのうち日本語であたりをつけた部分の対応箇所を英語で探すという二度手間が、面倒になってくる。+おそらくは翻訳の問題で、日本語で感じたニュアンスが英語には出てこない / 違う言い回しになっているのを発見した。同時にその頃から原典と並行していわゆる教科書的解説本 (英語) も読み出したのだが、その解説本があまりにも面白かったのでグイグイ (=掃除機のように朝から晩まで数日ぶっ通しで) 読んでいたところ、勘が戻った(という言い方が正しいかわからないが)ような、ある時スンっと 「あ、(読めるというかもう) 読んでる」となった。ので、最近は英語だけで読むようになっている。

また英語とは別に、話し方のモードについて、思ったこともある。
働き出した時、上司に「ここは大学院じゃない、ビジネスは6割でいい」と言われたことがあった。大学院出たての当時の私の感覚からすると、証明しきっていないのにあれよあれよという間に話が進んでいく実務の様は、言葉を選ばずに言えば”テキトー”に見えた。一つのことを研究として証明するのは本当に大変なことだ。ビジネスでは、コンサルでは、その精度は全く求められていなかった。「リサーチ」と呼ばれていたことは、私の感覚では全くリサーチではなかった。罪悪感すら覚えた。一つの分野を極めることの大変さをわかっているからこそ、「適当」に調べて「仮説」を作ることがひどく表面的なことをしているような感じが拭えなかった。
ただ5年もやっていれば、6割の段階で決断し動くスピード感が無いと、実務はできない、ということはよくわかった。それは必要なことだった。だからどちらが正しいというよりは畑が違うだけで、あとは自分がどちらを好むか/選ぶか、という話だった。

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また徒然と思考をたれ流してしまった。問題は、本業の社会学の方でエキサイトすればするほど、副次的に発生する何に使うのか(使えるのか)わからない色んな思考が刺激されるのかポンポン湧き出てくる。ので、こうしてストレス発散よろしくカタカタ長文をタイプする羽目になっている。
二週間後はもう10月末、と考えると雪でも降っているんじゃ無いかと戦々恐々としているが (Midwestの秋は私の中では冬…)、またそれまでにネタを仕込みたい。

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