見出し画像

8月の終わり、2年目の始まり

ブログからすっかりご無沙汰してしまったけれど、私は元気です。
***

1年目の夏休み、もとい「夏学期」は、必要な"断絶, 中断 (interruption)"の期間だったように思う。社会学が何たるかの基礎を持たずにやってきた一年目の私は、次から次へと降ってくるクラスリーディングの消化、そして再構築に追われていた。目の前に提示された世界に、まずは馴染むことで精一杯だった。そしてそれは、必要なステップだったと思う。

コンサルとアカデミアの違いは色々あると思うけど、先行議論・思考の枠組みをどれだけ踏まえるかの深さは、一つ大きなものとして挙げられると思う。コンサルでももちろん他の「事例」は色々見る。でも「事例」と「理論」は結構ちがう。理論を持っているというのは、ある事象を見たときに紐づけられる議論・切り口の「森」に、どれだけ勘が働くかということじゃないかと最近思うようになった。難しい勉強をしなくても、生きている中で気づくことから思いつく切り口はあると思う。でもその切り口を開拓してきた果てしない議論がその入り口の奥にあること、「森」があることを感じ取る感覚を養うことが、学者になっていくために必要な修行の一つだろうなと思うのだ。

自分の抱いていた思考のカケラが、どの「森」の一本だったのかを発見する営みは、こう書くとシンプルなことのように見えるかもしれないけれど結構大変で、だからこそ「これだ」と思える分野を見つけられた時、それはとても嬉しくて、ワクワクする。

その営みは深海をのっそりたゆたうような、巨大樹の森の中をひっそり歩いていくような感じで、はっとするような孤独さと、一歩一歩進んでゆくことの小さな楽しみとが代わる代わる訪れるような日々だなと思う。

でも、そんな孤独に地道に進んでゆく生の実感を感じられる今の在り方は、贅沢なことだということを、今の私は知っている、と思う。
大きな全体の一歯車として忙しなく日々を消化してゆく毎日の中で感じた自分自身の生き方の手綱さえ掴めない主体性の喪失感こそ、一番怖かった。

自分でもどこに向かうのか旅路が見通せている訳ではないけれど、誠実に問い続けることを止めなければ、行き着くべき所に行き着くだろうと思う。
無計画な楽観主義には陥りたくないけれど、肩に力は入れすぎず、また一年進んで行きたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?