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the 徒然草 @学期折り返し地点 vol2

学期の折り返し地点までもうきてしまった。昨年と比べると時間が一瞬で過ぎていく感じがする。と書いたところで昨年の学期折り返し地点投稿を見たが全く同じように「びっくりするくらいあっという間だった」と書いていた。結局毎年こんな感じなのかもしれない。

最近はどんな感じかというと、昨年は3単位の授業を3個とっていたのだが、今学期は3/9を自分の研究用(reading hour)にあてていて、授業は2個 (統計とsocial psychology) とっている。自分の研究の推進力がグイグイ強まってきていて、授業たちも結局自分のリサーチに紐づき消化するように(できるように) なってきた。

博士課程に入るまで、というか一年目も含めて、「先生とワークする」とよく耳にはしたが実感としてよくわからなかったフレーズの実際のところの意味が少しずつわかるようになってきている、という感じだ。

あとは今年からTAを始めた。院生の統計クラスのTAなので仕事の大半は課題の採点で、たまにオフィスアワーに来る学生の質問対応もする。TAのクラスも、自分がとっているクラス(の一つ)も、MA thesisで使うのも統計なので、もはや最近はStataをいじったりモデルや解釈の議論をしたりしている夢を見るようになった。そんな夢を見てウンウンしているうちにパチっと目が4時頃覚めるので、むくりと起き上がりパソコンの前に座りまたカタカタ始める訳である。そんな滑車を疾走するハムスターのような生活を続けるうちに、気付いたら学期が半分過ぎてしまった。まぁ過去一で毎日が楽しいので (これも日々更新してる気はするが)、多分健康維持にだけ注意すれば、これで問題ない気がする。

昨年のポストを見返してみると、世界を認識する言葉や概念が増えていくことが楽しい、と書いていた。社会学の古典理論のクラスをとっていたことの反映だろうと思う。同じことを今は別の畑・或いは”language”から獲得・開拓しているな、と思ったりした。
統計というのはstatistical “language” なのだなというのが最近の感想である。理論が現実世界の複雑性の一側面を切り出して抽象化しフレームワーク化しているように、統計もその世界観に基づいて現実世界のある側面を切り出して抽象化して取り扱えるようにしてくれる道具なんだな、ということだ。数学アレルギーで文系/理系の分断がマリアナ海溝より深い地で「数学が苦手な女の子」として育ってきた自分的には、初めはかなり、数字で人間社会の多様な色やグラデーション、重なりあいや線引き、ダイナミクスをどう捉えられるのか、それは結局暴力的なreductionismではないか、と思ったりしたのだが、”使い方を間違えなければ”古くから社会学の理論としてレンズとして語られてきたことを捉えることやその新たなapplicationを発見することへの一つの助けとなってくれる、中々”イイヤツ”なようだ。(実は結構好きになってきた。)

ただカッコで強調した通りその”使い方を誤らないように”という注意書きが、えてして忘れ去られやすいのは確かなようで、意外とpublishされているペーパーの中にも、「ウン…?P値がちっちゃければ全ていいのか….?」と頭を捻りたくなるような論理展開や結論づけをしているものが、意外と結構あったりする。豊かに世界の物語を捉えることと、その限界を肝に銘じながら意図的に前提設定と線引きをすることで何らかの方向性を出していく推進的な営み、その両者を行き来できるような柔軟なマインド(と研究スタイル) を持ちたいものだと思っている。まぁ私のアカデミアの入り口はCritical Theoryだったので、どこまで行っても多分 ー dichotomousな言い方をするなら ー ”数字側ではない”タイプの人間が、”頑張って数字を使っている”感じにはなると思う。でも、物事はゼロイチじゃないのだ。ゼロイチじゃないグラデーションの中で立ち位置を見つけて価値を生み出すということを、私はコンサル人生から学んだと思う。(アドバイザリーはオーケストラの指揮者、というフレーズを新卒の時に叩き込まれたけど、その立ち位置を掴む感覚は極めて汎用性が高いなと今になっても思う。) でも「指揮者」を目指す姿として設定する術は、特定の専門家になることについてより、語られることが少ないと思う。

“数字側ではないタイプの人間が頑張って数字を使っている”立ち位置に至った、至れた(?) ことを振り返ってみるに、socializationの重要性をひしひしと感じたりもする。ここでは”社会科学に統計を使うことが当たり前”なのである。特に、社会学はまだ質的一本でやっていくスタイルもあるのだが、ポリサイになると”許されない”らしい。全員統計マスト、らしい。そういう環境にいると、ハードルが極めて低くなるというか、「全員に課すぐらいだからやればできない訳がない」マインドになるというか。そして統計の先生の説明も終始「私は統計学者ではなくて統計を”使っている”社会学者ですが」のスタンスである。だから、数学を”流暢に喋れない人が喋れるようになるための思考方式”を教えてくれている感じがする。そしてそのスタイルは私にとって、非常にありがたい。統計を、数式の羅列として考えるのではなく、言葉で物語/世界観/思考形式/理論として再構築すると、とても面白いものになる、というミニ悟りを開いた今日この頃、という感じだ。

なんかそんな話をした時に「だってあなた元々Critical Theoryやってたでしょ、数学大好き系哲学者いっぱいいるじゃん」と(すごい雑に)言われ、いや”数学”が好きかって言われたらそういうことではない気がするんだけど、あれでも私が”数学”ってラベルで想起するものって本質的に”数学”なんだろうか、どちらかというとf**king institutional educationのプロセスと産物が嫌だっただけか…? とか考えたりして、若干のidentity crisisになったりもしている。

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まぁ私の二年目の秋学期中間振り返りは、そんな感じだ。最近はYoutubeで東京の風景を眺めたりすると、そちらの方が画面の中の非現実という感覚になり、あぁ私の立っている場所はもう「こっち」なんだなと思ったりする。
博士課程がこんなに楽しいなんて、いやそうなるといいなとは思っていたけど、毎日あ〜幸せだな〜とかみしめながら日々思う。だから知を生み出せるように、地道に頑張っていきたい。

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