見出し画像

ミネアポリスとトウモロコシ畑の孤独

アイオワシティから北へ300マイル、キロにして480km。シカゴの次に近い大都市が、ミネソタ州にあるミネアポリスだ。商業都市ミネアポリスと政治都市セントポールがミシシッピ川を挟んで向かい合うため、”ツインシティ”とも呼ばれている。ここの空港 (MSP)はデルタ航空のハブなので、春にアトランタから、夏に仁川からCIDに帰る際、乗り換えで利用した。人口370万人ほどなので、900万人を超えるシカゴと比べると小さいが、アメリカにおける都市圏としてはかなり大きい方である。

去年のクリスマスは妙に暖かい霧のシカゴだったので、今年はミネアポリスで過ごすことにした。

480kmを北上する往路は、メインフリーウェイ (Interstate 35) を使った。アメリカのフリーウェイはNexcoに運営されている日本の高速とは異なり、公営 (基本州のDOTが管理、連邦政府の財源も入っている) で、基本的には入場料をとらない (イリノイ州のようにとる所もある)。そういう訳でファンシーなサービスエリアなんてものは無い (作るインセンティブが無い - 最低限のトイレ休憩所は定期的にある)。代わりに、Love’sという民間会社がサービスエリア事業を展開しているらしい。

ハートマークがLove’s SAの位置。Iowa CityからMinneapolisの間には、Waterlooから西へ行きI-35を使うルートとそのままState Highwayを北上するルートと2ルートあるが、どちらにしても3ポイントある。

Love’s以外にも、Chicagoへ向かう道の途中にはIowa 80という、恐らく独立系のトラックストップ (彼ら曰く”トラックドライバーのディスニーランド”)があったりもするので、広大な車道ネットワークを持つこの国においてはSA事業は一個の市場を成していそうだ。

ちなみに、ミネソタ州境に程近いMason Cityという街には、フランク・ロイド・ライトが設計した現存する唯一のホテル「Historic Park Inn Hotel」がある。建築オタクにとっては垂涎もののデスティネイションらしい。私は全く建築デザインに詳しくは無いが綺麗な建物を見るのは好きなので、以前一応寄ってはみた。

まぁ確かに水平方向に伸びる直線が特徴的な感じはするけれども、ジャパニーズ的には、「…旅館?」という感想になってしまった。

この廊下とか、ほぼ箱根の旅館

北上するにつれて段々と窓の外が白くなっていく。後でニューヨークタイムズのこんなポストを見つけた。やっぱり”snow line”を走りながら超えていたらしい。

そうしてついたミネアポリスだが、街角で人の姿を見かけることはほとんど無い。デモインもそうなのだが、この街にはスカイウェイというビルとビルをつなぐ空中通路が発達している。人々はその中にいるので、外の通りを歩く姿を見かけることは (特に冬季は) ほとんど無いのだ。

ミネアポリス スカイウェイシステム
こちらはセントポールのスカイウェイ
これは3月頃の様子 - クリスマスには皆さん当然働きません!

個人的には丸の内の地下道システムを思い出すなどした。あれも雨に濡れずにランチを買いに行けたり、道さえ覚えていれば日比谷の方まで行けたりして地下の都市空間という感じで、とても便利だった。よく似ていると思う。

ダウンタウンは斜辺が北東を向いた45度の二等辺三角形のような形をしていて、freewayの二等辺と、北から東に流れるミシシッピ川の斜辺に囲まれている感じだ。90度のあたりに屋外アートが点在するSculpture Gardenがあり、斜辺の川沿いエリアは”お洒落エリア”だ (と思う)。
川沿いエリアは元は製粉工場が並んでいたようで (ミネアポリスにはMill Cityという愛称もある)、広大な工場空間をリノベーションした小洒落たカフェやレストラン、アパートが並んでいる。工場空間の利活用の例としてはロンドンのテートモダンもそうだった。広大な屋内空間のポテンシャルは結構色々あるのかもしれない。

State Capitolなど行政施設が集中するセントポール側に行くと (ミネアポリスからは車で15分ほど)、もう少し静かな雰囲気になる。State Capitolは正直アイオワのそれとそこまで変わらない感じだった。 (私はまだ見ていないが) 恐らくはDCの議事堂をモデルにしたであろうローマ・ギリシャ風の建築デザインである。まぁ面白かったのは、アイオワの場合トウモロコシの絵が飾ってあったので、ミネソタにも何か面白いのがあるんじゃ無いかと思い探したところ、やっぱりトウモロコシは、あった。

雪に覆われるState Capitol
まぁ豪華…だけどIowaと一緒ジャン?感
天井を彩るトウモロコシ - 恵みの象徴なんだろう

議事堂から10分ほど北東に車を走らせると、モン・ビレッジ (Hmong Village) という、巨大な倉庫空間の中に広がる”ビレッジ”がある。モン族というのは中国南部・ベトナム・ラオス・タイの山岳地域に住む民族らしい。ベトナム戦争時にアメリカに利用された結果終戦後に迫害に合い、亡命してきた、らしい。知らないことが世界にはいっぱいあるなと不勉強を痛感した。
倉庫の中は、所狭しと服や薬の店、床屋、換金所、八百屋、屋台などが立ち並ぶ、一つの”街”だった。その店舗が密集した雰囲気は私が知っている範囲の例だと、ソウルの南大門市場や、バンコクのマーケットのようだった。それは観光地というより、故郷から遠く離れた地で、移民たちが、少し美化された形で心の故郷を立ち現した空間のように感じられた。きっと倉庫の中に再現した薄暗い路地のような店と店の間の空間を歩くだけで、故郷の食べ物やスパイスの香りにあふれた空間の中にいるだけで、ほっとする、セーフスペースなのだろうと思う。私にはわからない言葉で立ち話をする子供連れのお母さんたち、屋台のような空間でカウンターに座りフォーのような食べ物を啜る男の人たち - そうした光景は、これは彼らの日常空間なのだ、と教えてくれた。だからカメラを取り出してパシャパシャ写真を撮ることは、なんだか彼らのセーフスペースに土足で上がり込む感じがして、できなかった。

1枚だけとった写真 - 大きなバン・パオ将軍の肖像画が飾られていた

移民という視点でいうと、ミネアポリスにはアフリカ系移民も多い。(移民人口に占めるアフリカ出身者の割合が、全米都市圏の中でもミネアポリスはトップらしい。) これはソマリア系移民のコミュニティがあることに起因するらしい。これまた映画「モガディシュ 脱出までの14日間」の記憶が色濃いので、そうかあれで流れてきた人々がここに来たのか…となんとも言えない気持ちになったりした。ソマリア人コミュニティも同様にモールのような空間を持っているらしいのだが、私は恥ずかしながらヒジャブを被ったことがなくどう振る舞えばいいかもわからないので仲介人も無しにずけずけ彼らのコミュニティに踏み入ることが躊躇われて、訪れることはできなかった。

更にミネソタ州は、韓国系孤児を最も多く受け入れた州らしい。ミネソタ大学の美術展示にはその言及があったし、訪れた韓国レストランでは様々な事情で手放さざるを得なかった子供を探したい親向けの呼びかけ、韓国政府肝入りの文化教育に関する告知などが貼ってあった。

ミネアポリス都市圏の移民人口の割合は4%程度なのでシカゴ (9%)やニューヨーク (13%)と比べるとそれほど高い訳ではないが、中々面白い文脈を持つ街のように、移民研究者的には思えた。(まぁ4%はもちろん日本の大半の都市よりは高い。)

ミネアポリスからアイオワシティに帰る復路はI-35ではないState Highwayを使ってWaterlooに向かうルートを通ってみたのだが、雨と霧という悪天候と相まって中々凄い経験になった。

延々と続くトウモロコシ畑と点在する農家の建物という金太郎飴が4時間くらい続く。地の果てまで続くトウモロコシ畑と真ん中に一本、地平の果てまで伸びる直線道路という景色を見たことが、感じたことがあるだろうか - 多分このブログの読者の99%は無いと思う。白い靄のような霧に包まれ視界の聞かない状況になってくると、もはや異世界だ。

延々とドライブしながら考えたのは、これが日常世界の人たちが見る「アメリカ」と、東海岸 / 西海岸 / 都市圏の人々が見る「アメリカ」の、あまりに大きな乖離だった。トウモロコシ畑の真ん中に住むmid-westの多くの人たちにとっては、(彼らの先祖が移民だった事実はどこかに行ってしまったのだと思うが) テレビ・ニュースで目にする「移民」「多様性」はきっと別世界の出来事すぎて、どこまでも「the others」なのだろうと感じざるを得なかった。
まぁトウモロコシ畑出身の学部仲間が言うところでは、最近は移民労働者が農場に移住してきたりもして、それが敵意ではなく新鮮な好奇心にドライブされて交流・共生につながっているケースもあるようだが、それはまだ多数のケースでは無いのでは、と思ったりする。

シカゴに、ミネアポリスに、何をしに行くの?とよく聞かれる。そこに何があるの?と。
何があるというより、都市圏出身者からすると、”正気を保つために都市の空気を吸う”ことが言うなれば目的だと思う。

以前、中国の内モンゴル自治区の何もない雪原で、2週間ただ馬に乗るという旅に参加したことがあった。(ICUの人類学研究室のドアに貼ってあった広告がきっかけだったので、”そういう旅”である。) 当時開発学を学んでいた私はアマルティア・センの”Development as Freedom” を抱えて行ったのだが、友人たちには「馬に乗りに行くのにそんな本抱えてどうするんだ、燃やして暖でもとるつもりか」と笑われたし、私も別に雪原で読書をするつもりで持っていった訳ではなく、お守り的に持っていったのだが、結果はペンを握りしめて必死でページをめくる羽目になった。どういうことかというと、まずマイナス10何度の雪原ではスマホは使い物にならない (結果時間もよくわからなくなってくる)。朝起きて食事をして、馬に乗って進んで食事をして、また馬に乗って野営地につき寝支度をする。日々はこの繰り返しで、目にするのは地の果てまでの雪原と馬、ゲルだけなのである。繰り返しの円循環のような時間感覚の中で思考が溶けていくような恐怖感に襲われて、必死で本を読んで思考を文字にしてメモしていたのだ。手元の本だけがアクセスできた「文明」だったから。

白い霧に包まれた無限のトウモロコシ畑は、その雪原と円循環の時間の記憶 ー そして思考が溶けていくような恐怖感 ー を私に思い出させたと思う。
これは、日本にいるときにほぼ東京と、限られた大都市しか見ていなかった自分自身への反省も込めての言なのだが、”リベラルな何か”を語る都市エリートは、自分たちが見ている世界のデフォルトが何かを理解して、その相対化を”試みる努力”をする必要があると思う。完全に相対化することはきっとできない (だから私も結局都市の空気を吸いにいく)。でも限界を認識しながら努力をすることはきっとできる。

そんな気づきを与えてくれたクリスマス旅だった。

いいなと思ったら応援しよう!