頭まっしろになる事件
T T3も終盤、3分間でヨガでいう準備体操の「太陽礼拝」をクラスみんなの前で指導する、という課題が出ました。
ヨガのクラスに出ればほとんどのクラスの最初に、ウォーミングアップとして行う太陽礼拝。
7〜8のアーサナ(ポーズ)を次々と連続して行う一連のフローです
ヨガのクラスに出れば毎回毎回出てくるので、さすがの運動おんちなわたしも、今では考えなくてもできるくらい身についています。
なので、「太陽礼拝はみんなの前でもなんとかできるでしょ。」
とたかを括っていました。まっしろになるあの時までは。。。
ちょっと前の演習の時、前屈のウッターナーサナのとき、先生から「講師が前屈になると、ガイドの言葉が聞こえにくいので、前屈のポーズのときはポーズから出て(講師はポーズをやめて)、生徒を見ながら口頭だけでガイドするといいよ。」と教わりました。
真面目な私は、その言葉を思い出し、太陽礼拝の途中、前屈とか下向きが連発する場所があるので、「早速ガイドが聞こえやすいようにやってみよう」と思い、自分はポーズから出て言葉だけでガイドしようとしたんです。
太陽礼拝のフローを言語化すると次のとおり。
①立って→②上に伸びをして→③前屈→④ちょっと前向く前屈→⑤再び前屈→⑥手を床に腕立てみたいなポーズ→⑦うつ伏せ→⑧アップドッグ→⑨ダウンドッグ→⑩ちょっと前向く前屈→前屈→11上に伸びをして→12立って(初めに戻る)
このうちの③のところで言葉だけでのガイドに切り替えたわけです。
そしたら、自分がやっていないと、フローって、頭だけでは出てこなくなるもんで、
はて⑤の前屈の次なんだっけ?
ってなっちゃったんですよね。
20人以上の人を前屈のまま待たせること数秒。
会場に流れる「あれ?」という雰囲気の中、長い時間が過ぎて、目の前の生徒役の人が(次はコレだよ!)というヒントをくれてようやく持ち直しました。
例えると、ラジオ体操で「ジャンプの後何するっけ?」くらい、一体全体なんでわかんなくなっちゃったんだ??という超衝撃。
でも、答えは簡単で、身体で覚えてることは、身体を切り離してはできないもんだってことなんですよね。
頭ばっかり使って身体使わない歴が長い私は、そのことも知らず、頭でわかってるから大丈夫。と傲慢に考えていたわけです。
あとで、生徒役の仲間から「あそこでガイドだけに切り替えたの、すごいチャレンジでしたよねえ」と言われて、自分のやったことのリスキーさを初めて理解しました。
頭と身体。両方大事。
「人間は考える葦。」
「我思う故に我あり。」
思考こそ人間たる所以と思われています。
とはいえ、身体あっての思考なのですよね。
ヨガははるか昔からそのことも教えてくれています。
身体が安定して快適であれば心も安定して快適になる。
だから身体を安定して快適に整えるアーサナ(ポーズ)の練習をする。
深い瞑想を極めるヨガの八枝則の基本部分にアーサナが入っていることはなぜなのか。
腑に落ちた日でした。
ちなみに、ティーチングに関する先生からのコメントとしては「ヨガを教えているとクラス中、まっしろになっちゃうこともあります。だから、そんなときにどうするかレスキューのポーズを用意しておくといいよ。ダウンドッグとかね」とのことでした。
今後ヨガの教室で、「やけに長いダウンドッグ」と思うことがあったら、先生がまっしろになってるのかもしれません。