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わたしのメモリー
冬至の12月22日、曇っていたけど朝日を見に出かけた。
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雨上がりの早朝の神戸は分厚い雲に覆われていて、どう考えても朝日は望めそうにない。だけど元旦よりも冬至の朝日が好きな私は空を見ていた。分厚い雲の上が少し明るく青空が見えてきて、朝日が登ったことを知った。
家に戻って少し休んでから、観たかった展覧会を観に京都に向かった。
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記憶はいつか消えてなくなるのでしょうか。私たちの中にある記憶は他者から見ることはできませんが、表現によって何らかの形が与えられる時、それは他者にも共有することが可能になります。そのように個別の経験が、ある技術や意志によって外部化され、鑑賞体験を通じて他者の記憶の一部となることで、記憶は多くの人に伝播していきます。それはまるで記憶自体が意思を持ち、私たちを媒介としながら生き続けていくことを望んでいるかのようにも思えます。
本展では、障害のある作家の表現とその背景にある体験や周囲の環境にも着目し、作品が持つ記憶とその保存について迫ります。個々の記憶が表現を通じて集団の記憶に変わっていくこと、それは他者の生きる時間が自らのリアリティとともに新しい時間を歩んでいくことであり、時間や場所を超えて、私たちが他者と共に生きる方法でもあるのではないでしょうか。
この文章を読んで、理屈なく観に行きたいと思った。
障害を持つ方の作品をアート作品として打ち出している事業はよく見かける。だけど、その作家の表現だけでなく、その背景や体験、周囲の環境について深く触れるものはあまりない気がした。あまりそこを打ち出し過ぎると感動ポルノみたいになる可能性もあるし、難しいところなのかも知れない。だけど、「障害があるのにすごいでしょ!」みたいなものを排除し、ただ興味を持って「この作品について知りたい」というフラットなものであれば、作品だけでなく障害についても、より深い理解につながる気がする。
「共生の芸術祭」というタイトル通りに、共に生きることを自然な眼差しで形にしてる気がした。
アートや芸術という言葉にすると敷居が高いけど、この展覧会の作家さんたちの作品は本人たちが日常的に自然に描いたり作ったりしているものばかり。「俺はアートで生きていく!」とか、そんな意識はまったくなく、ただ自然な行為として作り続けているものばかり。
個人的には似里力さんが糸巻き作業してる間に、糸を切って結ぶという行為に興味を持って密かに作り、職員に注意されても尚作り続けていく中で、自ら糸を切って結んだ糸玉を制作するようになり14年間作り続けているというエピソードが愉快で好きだった。周りにはわからなくても、似里さんには楽しくてたまらない夢中になれることなんだろうな。作品をまず先に観て、エピソード等を知ってからまた作品を観ると視点も変わり、興味を持つ部分も変わる。そんな風に見せ方や伝え方って大事なんだな。
自分は芸術品を作る! アートで生きていく! そんなところから1番かけ離れたような、やりたくて仕方ない、描きたくて仕方ないという、そんな作為のない行為が、もしかしたら1番純粋で、1番アーティスティックなことなのかも知れない。
西澤彰さんの絵には飛行機を見上げる角度の機体の美しいフォルム、秦野良夫さんは過去の記憶から描かれた脈略がないようで本人の中ではつながっている景色、全身赤い服を着て赤い色鉛筆で結婚式の絵を描く小幡正雄さんが気に入っている職員の女性に送った手紙、言葉や行動でそのまま表すことはできなくても、誰にも言わなくても、本人の中に確かにある記憶に溢れていた。
その人の中にある記憶は、誰かの記憶にもなる。完全に同じ記憶や感じ方や受け止め方はなくても、それぞれの中に確かにあって、忘れたり思い出したり、味わったり、追いやろうとしたり、でも浮かび上がってきたり、何だかわからなくても愛しくて仕方ないものだなぁ。
様々な作品を観ながら、私は私の中にある様々な記憶を見つめていた。何度も思い出してしまう記憶、見ないようにしていた記憶、何度も味わいたくなる記憶、忘れたつもりが浮かび上がる記憶、いろんな記憶がある。作品を観ながら、私は私の記憶も鑑賞していた。
会場を出ると分厚かった冬空から光が溢れていて、やっと冬至の太陽を浴びた。陰極まって陽となる冬至は、私にとって元旦以上に何かが明けていく気持ちになる。
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会場が桜の時期に訪れた能楽堂近くだったのと、この冬至の光を浴びたくて桜に誘われるように歩いた同じ道を歩いてみた。
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4月に訪れた京都で、桜を眺めながら歩いている内に、私の記憶がふいに思い出されて歌が生まれた。
美しく誇らしげに咲いていた桜たちは、すっかり葉も落ちて、でもしっかりと蕾をつけていた。桜はこんなに早い時期から蕾をつけるんだな。この寒い冬を何ヶ月も持ち堪えるからこそ、あんなに桜は美しいのかも知れない。
冬至が明けて、今日は新月。
いらなくなったものは手放して、大切なものをあたためて、植物たちを見習いながら、ただ私の中にある自然と共に素直に生きていこう。
日が暮れるまで歩いた後に立ち寄ったお花に溢れた素敵なカフェで温かいトゥルシーティーと甘酸っぱいレモンケーキをゆっくり味わいながら、「いろんなことはあったけど私の記憶はあたたかくて美しかった」と20代の頃の私に○をつけた。不器用で捻くれて何ひとつうまくいかなくて、もがいてばかりだった若かった頃の私は、それでも美しかった。何かめちゃくちゃでもよくやったと、やっと認めてあげられた気がする。そしてこれからも美しい記憶や楽しい記憶を、不器用ながらも刻んでいこう。
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私の大切なメモリーを抱きしめながら。
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