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好きなことを、ずっと好きでいる。それだけで、人生は、愛おしい。

(はじめに)

映画「さかなのこ」を観た感想から、そこで感じたこと等をひたすら書きます。ネタバレも含むので、映画のネタバレを読みたくない方は読まないことをおススメします。


「さかなのこ」を観てきた。公開前から気になっていて、ずっと観たいと思っていた映画。想像をはるかに超えた良作だった。




さかなクンがさかなクンになるまでを描いたお話しということで、コメディ映画なんだろうと思っていたら全然違った。序盤から泣けて仕方なかった。まさか、さかなクンで泣くとは思わなかった。


映画の冒頭でも同じ言葉が出てきます


お魚が大好きでお魚に夢中なミー坊(後のさかなクン)が主人公。父親や兄弟、学校の先生やクラスメイトから「普通じゃない」と言われたり、バカにされたり、心配されても、ミー坊のお母さんだけはいつもミー坊を肯定的に受け止めて、ミー坊が瞳をキラキラさせて夢中になる「すきなこと」を尊重してくれた。そうしてミー坊が自分の好きにまっすぐに突き進んでいく内に、うまくいかないことはたくさんあっても、ずっと好きなことを好きでいるミー坊を認めて、協力してくれる仲間や応援してくれる人が増えていき、今のさかなクンになっていく。そんな映画。

パンフレット可愛い

私はさかなクンは頭も良くて育ちもよくて、良い大学で海洋学を学んだエリートなんだろうって思ってた。だけど、この映画を観て違うことを知った。勉強ができなくて大学に落ちたけど、魚が好きで、魚に夢中になり続けてきたおかげで夢だった「おさかな博士」になったんだ。知らなかった。

映画を観ながら私が流した涙には、実はこんな気持ちが含まれていた。

「私もあんな風にお母さんに尊重してもらいたかった」

映画を観て、そんな想いを抱いた人は私だけじゃないと思う。どんなにおかしいと思われそうなことも、甘やかすんじゃなく信じて尊重する。一般的にはおかしいと思われることも、お母さんが信じて尊重してくれるって、子どもにとって、どんなに大きな力になるんだろう。だからこそ、ミー坊は自分の好きや夢中にまっすぐにいられたんだろうなぁ。

私は子どもの頃、絵を描くのが大好きで新聞広告の裏側が白いものすべてに絵を描いたり、歌をうたうのも大好きで、家の前の道や学校の帰り道で大きな声で歌っては「あの子はどこの子だ」と言われるような子どもだった。私が描く女の子の服は(どうやったらそんなに色んなデザインが思い浮かぶのだろう)と母は思っていたそうだ。そんな私は他の科目はよくなくても、図工も美術も音楽はいつも成績がよかった。

小学生の頃にすでに「美大に行ってみたい」と淡い憧れをいただいていた。その思いは母は察していたようで「うちはお金がないんだから、美大になんて行かせられないからね! 絵なんてお金にならないようなものに、お金を出して学校に行かせるなんてお金を捨てるようなもんなんだから。うちはそんなに裕福じゃないんだからね!」と言った。私が憧れを口にする前に、そう母は何度も言った。私は自分の憧れを口に出すことはできなかった。

「自分の願いは叶えられないなら、どうしたらいいんだろう?」と、「好きなことに近いことをしよう!」としてもうまくいかない。お金の為に働こうとしてもうまくいかない。20代中頃に「文章を書くのが好き! ライターになりたい!」と思い立ち、「とにかくやってみよう!」と飛び込んでみても、うまくいかなかった。自分が興味がないことはまったく書けないので編集プロダクションでは使い物にならず、社長のパワハラで何度も急性胃腸炎になった末に辞め、しばらく心療内科に通った。父はそんな私に「お前は本当に金にならない奴だな」と言った。

映画「さかなのこ」の中で、実はさかなクン自らが出演しているシーンがある。映画を観る前はちょい役なのかなと思っていたのだけど、実はこれが結構重要な役で。さかなクンが「もし社会不適合者のまま大人になったら…」みたいな変質者のおじさん役だった。それを本人が演じてる。さかなクン、よく許可したな。でも、本人だからこその説得力がすごかった。恐らくさかなクン自身が(そうなっていたかも知れない)という自覚を持ちながら、今の自身の活躍に感謝しているからオファーを受けたのかなと思う。

映画の中で、ミー坊はずっと魚が好きで魚に夢中なんだけど、うまくいかないことはたくさんあった。それでもミー坊の瞳は曇ることがなかった。好きなものをずっと好きでいる。ミー坊自身が好きなものをずっと心から大切にしていたからこそ、子どもの頃はバカにしていた同級生たちが「あいつは変わらないな」と協力してくれるようになっていったんだろうな。

この映画を観る前からもずっと感じてきたことだけど、ミー坊みたいにお母さんに尊重してもらえたり、愛されてきた人は強い。それは紛れもない事実。いつも思ってた。でも、そうじゃなかった人はどうしたらいいんだろう?

そうじゃなかった人のひとりの私の答えは、

「時間がかかっても、自分の本当の好きを、世界中でたったひとりでも自分自身がその好きを大切にできたらそれでいい。人の目や人の評価で、その「好き」を蔑ろにすることこそが、自分を蔑ろにしてしまうこと。誰のせいでもなく、自分の瞳の輝きを自分が曇らせてしまう。自分が自分の好きを守らずに、誰が守ってくれるんだろう。」

と、今は言える。そんな風にはずっと言えなかった。たくさんバカにされてきた。「お前見てるとイライラする」とか「本当に使い物にならへんな」とか言われてきた。「吉田さんは好きなことしかできない人だもんね」と仕事を解雇されたこともある。そういう人間性に加えて、女性である部分、ブスだとかデブだとか、そういうルッキズム的なことも色々言われてきた。もともと性格はよくなかったけど余計に歪んだ。自分が好きになれなくて、自分には価値がないと思い込んでいた。人が好意的に言ってることも、違うようにとらえたり逆キレすることもあった。

そこまでくると本当にどうしようもなくて最終的には虚無的になる。何度も虚無までいった。だけど、何故だか私はそこから戻ってきた。それは何でなんだろう?

私の場合は歌だった。どんとの「おめでとう」という歌を聴いて、よくわからないけど滝のように涙が溢れて、よくわからないけど「生きててよかった」「生まれてきてよかった」と感じて、滝のように涙が溢れた。そして、「あの歌をわたしもうたってみたい」「あの歌を聴いて感じたあの感動をもう一度味わいたい」そう思って、いつしかギターを手に入れた。

歌を仕事にはできていないけれど、それでも私にとっての喜びを手に入れて、歌っていない私も、できないことがたくさんある私も、性格がよくなくても、少し太っていたとしても、私自身を大切に尊重できるようになれた。

好きなことがあるってことは本当に大切で、好きを仕事にしなくても、何者にもなれなかったとしても、好きなことを、ずっと好きでいるってことが尊いんだと思う。

最後に「さかなのこ」の映画のキャッチコピーを書いてみる。

「好きなことを、ずっと好きでいる。
 それだけで、人生は、愛おしい」

「さかなのこ」フライヤーより

「ずっと大好き。それだけで人生はミラクル」

「さかなのこ」フライヤーより

「そのままで、きっと大丈夫。これは迷っても転んでも前に進む、私たちの物語」

「さかなのこ」フライヤーより

「うまく行かないときも、好きなことはずっと好き」

「さかなのこ」フライヤーより

最近、自分の内面的なことばかり書いているけど、もともと私はnoteを自分の好きで埋めつくそうと思って書き始めた。その始まりは「吉田さんは自分が好きなことしかできないもんね」と、コロナ蔓延中に微熱が続いた私に当時の上司が解雇する為に放ったその言葉がきっかけでもある。

もちろん怒りも悲しみもあった。でも、それ以上に「好きで埋め尽くしてやる!」って、あの時思ったんだ。

そして今は、ただただ文章を書くのが好きで続けていたりする。派手に活躍できなくても、「好きなことを、ずっと好きでいる。それだけで、人生は、愛おしい」という境地には自分では達せられたと思ってる。さかなクンみたいになれていなくても、でも好きなことを好きでいるってことはできてる。そうなってくると、だんだん人のことなんて、どうでもよくなってきて、ただ私でいるってだけで嬉しくなってきた。

きっと「さかなのこ」の映画も、そういうことが伝えたかったんじゃないかな。「好きなことで活躍しよう!」ではなくて、「好きなことをずっと好きでいよう」ってことを、きっと伝えたいんだと思う。それを、とても柔らかく、優しく伝えている映画です。ひとりでも多くの人に届いてほしいな。


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