今という時間があることが
終末期を迎えていた利用者さんがお亡くなりになったと職場のグループラインに連絡があった。
精神的な病もあり、生前は指や腕を何度も強く掴まれたり噛みつかれもしたし、傷痕や青痣もできた。そういう日は帰ってからもダメージ強くてグッタリして何もしたくなくなった。
左手の中指だけを強く掴まれた時なんかは、指が折れてギター弾けなくなるかも…という不安に襲われて、音楽をやりたいなら仕事辞めた方がいいんじゃないか? と真剣に考えたりもした。
だけど、元気がなくなって、最期が近くなってきた際は、強く掴む力もないことが寂しかったり、思い出すのは楽しかったり面白かったりしたことばかり。あの時、こんなこと話してくれたなとか、こんなことを突然言って面白かったなとか。
どんなことがあっても、どんな人でも、きっと最後はそんな風に思える気がする。
ちょうどこの前、「何であんなこと言ったんだろうな…」と思い出すことがあって、何でなのかなぁとずっと思ってたら、ふと「ヤキモチ妬いてただけやんか!」と気づいてニヤニヤした。バカだなぁ私は。ただのヤキモチを、バカにされたくないとか、自分の気持ちを知られたくないとか、自分でも分からなくなるくらいに隠して、本当の気持ちと正反対のことを言ったりしたりしてた。それはやっぱり若かったからなのかな。自分の命がこれからもずっと続くと思ってたからなのかも知れないな。今ではその頃の愚かな自分が眩しいよ。
人のことを気にしすぎて、本当は嫌なのに相手が安心するなら、相手が喜ぶなら…と受け入れ過ぎてしまうことも、もうやめよう。私の心をもっと尊重して、もっと大切にしよう。自分を大切に生きることで相手も尊重できたら。
明日はまた普通の日々で、お亡くなりになった人が居ても、生きてる私たちの生活は続く。死が近い場所に居ると、いろんなことを感じるけど、生きていく内に、食べたいものを食べたり、会いたい人に会ったり、やりたいことはやって、素直に思い残さずに生きることが大事だなぁと感じることが増える。
意地や見栄を張ったりせずに素直に生きること、それができる時間があることが、きっと大切なんだと思う。今という時間があることが。