チェルノブイリを生き抜くおばあちゃんたちが、コロナ禍を生きる私たちに教えてくれること①
数年前に読んだ、未だに忘れられない記事があります。
それは、2015年に映画化された
「チェルノブイリのおばあちゃん」のお話。
コロナウイルスやワクチンが
メディアで話題の中心となっている昨今
こんな時代をどう生きたらいいんだろう、
という問いが常にあり
先日、ふとまた、このチェルノブイリのおばあちゃんの話を思い出し
ここに答えの一つがあるな、と思ったと同時に
こんな時代の大きな希望にもつながったので
記事にして伝えたいと思いました。
オリジナルの記事を再検索したところ、
もう日本語の記事はなくなってしまったようです。
でも英語の記事はまだあったので、
内容を意訳して書いてみました。
2016年4月26日に投稿されたものです。
◇◇◇◇◇
チェルノブイリのバブーシュカ (おばあちゃん)
元記事
30 years after Chernobyl, these Ukrainian babushkas
are still living on toxic land
チェルノブイリの原発事件から30年経った今でも
ウクライナのバブーシュカたちは汚染区域に住んでいます
NHK BSでも取り上げられてたんですね。
チェルノブイリのおばあちゃん
NHK BSの紹介ページより抜粋;
衝撃のチェルノブイリ原発事故からこの日で30年。
居住禁止区域に指定されている土地に、
自らの意思によって住むことを選んだ
おばあちゃんたちを描くドキュメンタリー。
原発事故の後、居住禁止区域に指定された地域の住民たちは、
全員が直ちに移住させられた。
しかし新しい土地に馴染めず、危険を承知で
故郷に戻ったおばあちゃんたちは100人近く。
自分で畑を耕し、キノコを採り、魚を釣って
ほぼ自給自足の生活を送っている。
地元自治体はそれを黙認しつつ、
住民の健康状態の調査を続けている。
我々の知らない禁止区域の現在の姿と、
生まれた土地と深く結びついた彼女たちの
自然体の生活を見つめる。
1986年にチェルノブイリ原子力発電所が崩壊した直後に、
ある何人かの女性は、チェルノブイリ原子力発電所の近くの
自宅に戻ることを選びました。
もしあなたが当時まだ生まれていなかったとしても、
30年前の今ー1986年4月26日に、チェルノブイリで何が起こったのか
ほぼ間違いなく知っているでしょう。
その日、ウクライナ北部のチェルノブイリ原子力発電所での爆発は
部分的なメルトダウンを引き起こしました。
原子炉の周囲には防御壁がなかったので
発電所からは放射性物質の煙が空気中に噴出し、
当時のソビエト連邦西部と中央ヨーロッパに広がりました。
情報管理が厳重な国のため、ニュースの発信は遅れました。
が、そこで展開されていたのは
史上最悪の民間原子力事故であることが
やがて明らかになりました。
事故が起こった時、そして事故直後に、
発電所内の30人の作業員と清掃員が死亡しました。
工場周辺から、約35万人の住民が避難を余儀なくされました。
国連は、この災害の放射線被害による死者数は
最終的におそらく9,000人に上ると見積もりました。
他では、それよりもはるかに高くなるだろうと推測されました。
そして今日、チェルノブイリ周辺の千平方マイル以上の土地は
公式に居住不可能なままであり、
今後何千年もの間、放射性物質の危険区域とされています。
しかし、そこには現在約100人の住民がいます。
被災後数週間から数か月の間に
1000人以上の、主に年配の女性が、
その立入り禁止区域に戻りました。
彼らは、その中で生き残っている人たちです。
注)他の記事を参照したら人数の表記が違っていたので、
正確な数字は不明です。
彼らの物語は、
「チェルノブイリのバブーシュカ (おばあちゃん)」
と呼ばれる、新しいドキュメンタリーです。
映画監督のホリー・モリスは、以下のように述べています。
老婆たちは、「祖国と故郷との非常に深いつながり」
に引き戻されました。
それは、彼女らの両親が生まれ死んだ場所であり、
彼女らの子供たちが生まれた場所であり、
彼女らの庭や動物たちがいた場所なのです。
故郷は、田舎のおばあちゃんにとっての全宇宙なのです。
このことは、一般的に理解されている核汚染についての知識や
恐れ等に対して、理解するのは難しいでしょう。
しかし、映画を通して彼女らのことを知るにつれて、
より良く理解できるようになります。
女性たちは何世紀にもわたって、
この地域に深く根付いて生活してきました。
ここ何十年で彼女たちは、
スターリン時代の飢饉、ナチスの残虐行為、
そして第二次世界大戦の、すべての困難を乗り越えてきたのです。
それで、チェルノブイリの事故が起こってから数十年経っても、
彼女たちは、見えない敵に直面して逃げることを望まなかった。
”バブーシュカ” たちは、最初は他のみんなと一緒に避難し、
近くのウクライナの首都キエフや
他の場所にある高層マンションに住み始めました。
しかし、彼女たちが大切にしている
すべてのことから切り離されたのです。
そして、事故後数週間から数ヶ月の間に、
彼女たちは戻り始めました。
最初、彼女たちは引き返すように言われ、
一旦は移住した場所に戻りました。
しかし結局、そこの当局者は、
「老人たちが自宅に戻るのを許可します。
どうせ彼らの行く末は短いのだから、
幸せに暮らしてもらいましょう。」
と言ったそうです。
それ以来、30年間で多くの人が亡くなりました。
しかしモリス監督は、
立入り禁止区域にとどまった女性たちの方が、
移住した住民たちよりも概して長生きしていることを
事例証拠が示している、と言います。
「幸せ」または、相対的な幸福度が
その主な理由であると。
”放射能は恐くない。
孫たちが尋ねてくれないのが寂しいだけ”
”病気になったらどうするかって?
そしたら、それは寿命さ”
彼女たちは故郷に戻ることによって、
自分の家のある祖国にいることによって、
様々な地に移住した人々が陥った、
トラウマに苦しむことを避けたのです。
移住した人々は、高い割合でアルコール依存症、失業に苦しみ、
そして特に大きなことは、社会的なつながりの混乱です。
それらすべての要因が、健康に影響を及ぼします。
そういった理由で、彼女たちはゾーンに留まるか、
ゾーンに戻ることで、移住によるトラウマの悪影響を回避しました。
もちろんそれは、現実的な放射線被害の負の側面と比較したり、
同一視できるような簡単な問題ではありません。
住民だけでなく、一時的な訪問者にとっても複雑な問題です。
”立入り禁止区域” に最初に入るとき、あなたはきっと
荒廃した、世界の終末を想起させるような
核の荒れ地のようなものを想像するでしょう。
あなたが国境を越えて中に入るとき、
パスポート管理と放射線管理を通過しなくてはいけません。
しかしそこを超えると、とても美しい風景に出会います。
草原や野原、木々や野生生物の間を運転して通るのです。
そこでは、奇妙な不協和が起こっています。
なぜなら、一方ではガイガーカウンターと線量計が
今にも警報を鳴らす可能性があり、
放射能汚染に対する厳重な警戒態勢が布かれているからです。
その一方で、そこはとても牧歌的な場所なのです。
もちろんそこは、高齢者にとって楽園ではありません。
「チェルノブイリのバブーシュカ」の最初のシーンは、
一人のおばあちゃんが、その日に何を備蓄するかについて
独り言を言っているシーンです。
住民の数が減少しているので、
孤独な存在になっている可能性があります。
モリス氏によると、事故直後に20人から30人が住んでいた村には、
今では2人~3人しか住んでいない可能性があるそうです。
「それは自己決定と、生き抜くことと、悲劇とユーモアの物語であり、
それらのすべてがこの村の中で同時に、一緒に紡がれています。」
最終的にモリス氏は、
これは ”場所の力” についてのストーリーだと言います。
「区域に入ってみて、チェルノブイリについて、
放射線についての映画を作っても大丈夫だと感じたのと同時に、
これは見通しの暗いものになるだろう思いました。」
「しかし実際、映画は ”故郷” についてのものになりました。」
「最終的に、”故郷” は放射線に打ち勝ったのです。」
次回は、このストーリーを通じて
個人的に感じたことをまとめて書きたいと思います。
最後までお読みくださり、ありがとうございます。
あなたの毎日が、あたたかな光に包まれて
良い氣に満ちて過ごせますように。