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辛くて、自信のない母は、おしゃべりに助けられている

子育てって経験してできるようになるものかもしれない

最初の子を産んで、初めて病室にふたりきりになった時、産まれたばかりの子が泣き出した。わたしは、どうしたらいいのか分からなくて、ナースコールで看護師さんを呼んだ。「泣いているけど、どうしたらいいですか?」看護師さんは、「まず抱っこよ。」と。赤ちゃんが泣いていたら抱っこする、その回路が頭の中にも、経験の中にもなかったのだ。母親なのに、そんなことが分からない自分を恥ずかしく思ったこともあったが、今だって、子どもたちのことはやっぱり未知だ。子育てって、本能として備わっているのではなく、経験してできるようになるものかもしれない。

子育てって、学ぶ機会がない。学校で教えてくれないし、マタニティクラスで少し、赤ちゃんのお世話を習うことはあっても、その後、子どもがどう育っていって、親はどう育てたらいいのか、知る機会がない。親はなくても子は育つと言うように、本当は特別なことはしなくてもいいのかもしれないけど、特別なことをしないといけない気になっている時点で、やっぱりわたしは子育てのことを分かってないと思う。ひと世代かふた世代前だと、家の中には、おじいさんやおばあさんがいて、周りには同じように子育てをしてきた人たちがたくさんいて、その結びつきも今より強かっただろうから、その方たちに、いろいろなやり方を学ぶのだろうけど。身近に子どもがいる生活をしていると、体験として理解できるのだろうけど。わたしは、核家族で育ったので、自分が育てられたこと以外に学ぶ機会ってなかった。だから、親の育ててきたやり方がそのまま「子育てのやり方」。親にされて嫌だったこともあったけど、他にどんな方法があるのか知らないから、嫌だったこともそのまま子どもにしてしまう。自分が思っていた方向とは違う方に進んでいることに、危機感はあって、健診のときに保健師さんに相談してみたけど、発達に大きな偏りがあるわけではないからと、一時的にアドバイスいただいただけで、継続して相談する機会もなかった。

一方、母親としての感情は、最初から備わっているのを感じる。子どもが泣いている時、ざわざわして早く行ってあげないとという気持ちになる。これは、自分で自分を守ることができない子どもが、誰かに守ってもらいながら生き延びるために、子どもと母親に備わった機能だろう。これは誰に教わらなくても、自然とそういう気持ちが湧いてくる。母親であるわたしの気持ちはとても子供の近くにある。自分の子のこととなると、自分に起こったことのように感じる。子どもが怪我をしたとき、身がキュッとなる。他の人が怪我してても何も感じないけど。子どもに対する感情が、子どもを守るために働いているうちには良いのだけど、そうでないこともある。

子どもが「きちんと」していないと、わたしが困るような気がすることがある。他の子どもが「きちんと」していないのは、微笑ましくも思うのに。そういうわけで、「きちんと」していない自分の子どもを何とか「きちんと」させようとする。時には、子どもの言い分を無視して、ねじ伏せたりして。

こういったやり方はわたしが良いと思う子育てのやり方と真逆だった。母親としての、「子供を守らねばならない」という本能と、子どもが「きちんと」していないと、わたしが困るという歪んだ考えが相まって、どんどん、わたしが思い描く子育て像から離れていく。離れていくから、「ちゃんと」子育てできない自分に落ち込んでいく。

こうありたいという子育て像、だけどそうはうまくいかない

わたしは、大人が幸せに生きていくためには、お金よりも、社会的成功よりも、心身ともに健康で、今あることに満足していて、今の自分の存在を肯定できることの方が大切だと思っている。社会的地位を築いて、経済的に裕福になっても、心身の健康を損なって不幸だと言っている人をたくさん知っているから。心身の健康があって、自由にお金が使えたり、社会的に貢献できていたりすると、さらに満足度が上がるイメージ。健康な体のためには、小さい頃からの生活習慣がとても大切で、心の健全な育ちのためには、安定した母子関係が大切だと思っている。心と体が健康であれば、今あることに満足したり、自分を肯定できる。だから、私が子育てで大切にしたいことは、その子にとって十分な睡眠、ある程度バランスの良い栄養、安定した母子関係を築くこと。

睡眠や栄養は、目に見えることだし分かりやすい。睡眠は、あまり遅くならないうちに寝て、お日様が登ったら起きる。昼間眠くて集中できないってことがない状態。栄養は、炭水化物、食物繊維、たんぱく質、脂質が揃っていて、好きな野菜やくだものでビタミンを摂る。朝は、トーストとたまごにフルーツ、牛乳。昼は給食のお世話になり、夜は、玄米ごはんと具たくさんのおみそ汁、それから、お肉かお魚をつけたら、大体揃う。

安定した母子関係。これがとても難しい。だって、子育てって感情を動かされることが多い。それに加えて、どうして良いかわからない焦り。よくない感情があると、焦りによってその感情がどんどん大きくなるような感じがして。そこに誰か大人がいると、その人にその感情を少し一緒に背負ってもらったりできるのだけど、日中はひとり。感情に任せて怒鳴ることがあった。感情が動かなくて済むように、ぼーっとする時間が多くなって、「おかあさん」の声が耳に入らなくなることもあった。

わたしは働いていたので、とても忙しかった。時間で動いていかないと、何かに間に合わないといつも感じていた。仕事の始業時間。子どもが小学生になってからは、学校が始まる時間。だけど、その焦りはいつも実態のない感じだった。いつも重い、重い足かせをしたまま全力疾走しているようなそんなもどかしさを感じながら仕事をしていた。時々、本当に保育園の玄関で、息子は足枷のようにわたしの足を掴んで離さないことがあった。

そして、そんなわたしは、よくやっていると思っていた。仕事をしながら子育てしているわたしはよく頑張っていてかっこいいと。子育てだけしていたら、「わたし、よくやっている」って気持ちになれないように感じていた。わたしがあの頃仕事をしていたのは、自分を肯定するためかもしれないと思う。子育てでは、自分を肯定できないけど、仕事でならできたから。

だけど、一方で、相変わらず子育てはうまくいってなかった。うまくいかないけど、どうしたらいいのかわからないまま、7年も経ってしまった。

子育てのことをおしゃべりできるようになって

そんな時に出会ったのが、よしこさん。育児書は読むのに、子育てについておしゃべりできる存在って、考えたことなかった。誰かに助けてもらいたいと思っていたけど、定期的に、子育てのことを正しく知っている方とおしゃべりする機会ってなかった。わたしはそのとても少ない機会に巡り合って、とても救われている。子育てって、ノウハウではない。そして、人が育っていく環境や親の考え方やつまづきどころは、家庭により、そして、親により、子どもにより違う。だから、細やかなことを伝え合えるおしゃべりはとても貴重だ。私の母や祖母の時代だったら、きっとこんなおしゃべりを庭先や井戸端でやってたんだろう。

よしこさんははじめ、厳しかった。大人になって、それなりの立場も得ていたわたしは、誰かに自分の間違っている部分を指摘されるという経験を久しぶりにした。親ですら、大人になったわたしには、直接は言わない。だから、そういうことを久しぶりに経験して、素直に受け取れなかったこともあった。その時はそのままにしておいて、しばらく経つと、こういうことかと分かることがある。よしこさんはそんなこともわかっていらっしゃるようで、わたしが受け取れなかったことをそのままにしておくことに、何もおっしゃらない。よしこさんは、音声でメッセージをくださる。そしてそれは永遠には残らない。だから、忘れてしまった言葉もたくさんある。過去のわたしには必要だったけど、今のわたしには必要ないってこと。また同じことで困ることが出てくるけど、その時はまた、よしこさんが話してくださる。何回でも。

これって子育てでも同じようなことが起こる。子どもに何回言っても困った行動が改善しないのは、子どもが受け取る準備ができていなかったり、そもそもそれに子ども自身が困ってなかったり。よしこさんとの、やり取りの中で、そんなことも学んだ。

子育てって積み上げだから、日々の小さなことの繰り返しがとても大切・・だからおしゃべりは続く

よしこさんとおしゃべりをして、子育ては劇的に改善したりはしない。7年の親子の積み上げが作り上げたものは、簡単には変わらない。子育てするのは、よしこさんじゃなくて、わたしだ。わたしが、ありたい親の形を作っていって、それから子どもが変わってゆく。わたしが子育てに危機感を感じたのは、こういったことに由来する。子育てって毎日の小さいことの繰り返しだけど、それが習慣になって、人格に影響する。長年積み重ねて作り上げられたものは、簡単には変えられない。それに、小さい子どもの世界は、親とその周りの限られた人たちで作られているから、子どもの世界の身近な人が間違ったことをしていたら、その影響を修正することはむずかしい。それに子どもは一人では生きていけないから、良くないことをする親でも、頼って生きていくようにできている。子どもは自分がされていることの良し悪しの判断ができないし、狭い世界で生きていて、他を知らないから、それが当たり前の仕打ちだと思ってしまう。だから、わたしの子どもたちが大人になって、わたしによって作り上げられた人格のせいで、生きにくくなるのは、いけないと思った。そして、わたしは仕事で毎日、そういう困っている大人たちに会っていて、その困りごとからは簡単に抜け出せないことを知っている。だから、これではいけないと思い続けていた。

そうやって、変化を感じにくい毎日を送っているので、何か劇的に良くなるわけではないけど、変わったと思うことがひとつある。子育てに楽しみと自信を感じること。

以前は辛くて、自信のない母だった。


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