心が弱っているときに難解な本を読んでいた
それは最初に勤務した出版社と、その後の2つ目の出版社に入る間の時期だった。
ちょうど1年間だけ進学情報誌を制作する会社に居たことがあって、おそらく代表者にとってメインの事業じゃなかったせいか何かでろくすっぽ仕事らしい仕事をしていない事務所だった。それでも印刷前には原稿が入ってきて、東京にあった拠点の(といっても4人程度の小さな)ビルの一室で5日間だけ、わたしは大阪から出張して仕事しに行くことになった。駒込かどこかの駅近くのウイークリーマンションに滞在した。それはホテルやなんかとは違って殺伐としてただ散らかってゆくばかりの中途半端な滞在場所だった。たしか8月じゃなかったかな。
その会社では代表者と養親子の関係にある男性が実際の業務を仕切っていたけれど、その二者も他の社員たちもいがみ合っているというか陰でけなしあっているようなぎすぎすした、ひどいと言えばひどい、ありふれたと言えばありふれた職場で、その中に居るのはとても苦痛だった。
連絡の行き違いでわたしは5日目の朝、新幹線で大阪に戻ったのだけれど、黒門市場近くの事務所に午後出向くと、まだ終わってなかったのに勝手に帰るのはなにごとか、と電話が入ったりした(そんなこと知ったことかと心の中で思いつつ、はぁ~そうでしたかぁ~、とすっとぼけておいたのだった)。
どう考えてもけったいな会社だったけれども、このときに収入を得られたので、海外から戻ってきてしょうがなく一時的に身を寄せていた原家族の部屋から再び出て、一人で貸家に移ることが可能になったとも言える。
そのときの、東京に居るのも合わない人たちと居るのも両方苦痛だったとき、一人の時間にはずっと〈所有〉の概念に関する難解な本を読んでいた。読んでいたというより、文字をずっと目で追い続けていた。内容は少しも理解できていなかったけど、とても癖のある独特の文体だったせいか、つっかえずにすらすらと読み進めることができる不思議な本だった。
結構、厚みがあるハードカバーで(さきほど版元のサイトを見たら530ページと書いてあった)八重洲ブックセンターの細かい花柄の包み紙をかけていたから、あれは1日目の夜に購入した本だったのかもしれない。
このことを急に思い出したのは、先週、雪のちらつく日に高円寺で上映されたキュメンタリー映画の『二重のまち/交代地のうたを編む』の中で、被災された読書好きのかたが本をまったく読めない時期があったと話していたから。同じ本好きの友人からわざわざ本をもらったりしたけどちっとも読めなくて…でも何故か哲学の本を読んだりして、と映画の中で話されていた。
ひょっとしたらそれは、夏の暑い朝、居心地の悪い滞在場所で目を覚ましてネクタイをしめて、不本意ながらも山手線の駅に向かわないといけなかった当時のわたしが、内容を理解できない本を読み続けていたのと似た経験なのかもしれなかった――巨大な災害にあったわけでもないから、並べて語ることはできないとしても。
そんなふうに意味が分かっていないのに文を読むとき、または分かっていない文だからこそと言うべきか、そこで読む人の体をすり抜けては消えてゆく言葉は、どこか祈りや呪術の言葉がそうであるように、心を鎮めるような…いや鎮めるじゃないな…、ときとして宙ぶらりんで浮遊して不安定になりがちな心を、細い糸かもしれないけれど繋ぎ止めるはたらきを、そのときはしたんじゃないかなぁと、ふと、思ったんだよね。[終]