#007第六章 特急ロマンスカー
#カルト #統一協会 #入信 #脱会 #体験手記 #やま
#山下ユキヒサ
僕の20代の数年間はカルトの記憶でした。
「カルトの記憶」は、
統一協会入信から脱会までの体験手記です。
*
僕はここで生きる意味をつかみ、
仲間たちと共に毎日夜更けまで活動に明け暮れました。
そこには、説明の不要な青春のきらめきも確かにありました。
そして、もう一つ確かなこと。
それは落ちても落ちたことに気づかない、
マインド・コントロールという〈落とし穴〉に、
僕らはしっかりとはまり込んでいたことです。
二人は箱根へ向かっている。
僕の同行者は中高校時代の同級生、Fだ。Fの名前は「誠実」。
そう書いて「せいみ」と読ませる。
「人間は誠実に生きることが大切」きっとそんなご両親の願いが込められた名前なのだろう。
だが往々にしてそんな親の期待にはなかなか追いつけないものだが、せいみはその名の通りじつに誠実な男だ。
彼との付き合いはその中高時代の寮生活にさかのぼる。寮生活で同じ釜の飯を食い、部活動でも共に汗を流した。
高校卒業後の彼は駒○大学に進み、ホームに近いアパートで学生生活を謳歌していた。
突然の友人の訪問がきっかけで、こんなに近くで生活していたことがわかったときには驚いた。それはほんの二ヶ月前のことだった。
そのFと小田急の新宿駅から、特急ロマンスカーのほどよく冷えた車内に乗り込んだ。今日こうして二人で箱根に向かうことになったのは、十日前の一本の電話が切掛けだった。
「山下さん、お母さんから電話があったわよ。折り返し電話が欲しいって…」
夕食後、総務の女性からこう告げられた。
母の方からホームへ電話をしてくることは珍しいことだった。ごくたまに掛けてくることはあっても、直接僕が電話に出ることはないので、それは伝言ということになる。公衆電話から自宅に電話を入れた。
「もしもし、僕だけど、電話くれたって?」
「あっ、ゆきひさくん。ちょっと大事な話があるので都合つけて、二、三日中に帰ってきてくれない…えっ、何かって、それは…うーん、大事なことなので電話でもなんだから、帰ってきてからゆっくり話すから…」
翌日の七月十一日の日曜日。
僕は支部長にわけを話し許可をもらうと、礼拝が終わってから自宅へと向かった。その日の夕方、電話では話せないという内容が母の口からぽつりぽつりと語られた。
あの…お母さんの胸のしこりのことなんだけど…知ってるでしょ?…このあいだ病院で診てもらったら、今度大きな病院で精密検査して下さいとお医者さんから言われたの。
結果次第では手術をすることになるかもしれない。まあ、大丈夫だとは思うけど…でも人間、明日のことは誰にも分からないからね、最悪のことも考えたらいろいろ話しておきたいこともあるし…だから今度、岡崎のおじいさんおばあさんにも来てもらって、家族会議というか…ゆっくりと話し合いをしたいと思うんだけど…どうだろうね。
場所は知人のおばさんの知り合いの人が箱根で旅館をやっているというので、そこでやろうと考えているけど、そのほうが落ち着くでしょ。
旅館だったら食事の心配もないし、お母さんも助かるし…。
今度都合をつけてゆっくりと時間を取って来てほしいんだけど。日時はまだ決まってないから、おじいさんとも相談して決まったら、後で知らせるから…。
いよいよなのか、と思った。
母の胸のシコリのことは僕が統一協会に入信する前から聞かされていたことだ。ときどき母は思い出したように、胸に手をやっていた。それが手術になるかもしれないと聞かされると、頭の隅に追いやっていた不安がじわじわと蘇ってきた。
もちろん家族会議の件は承諾した。伝えるべきことを伝えてしまった母は、何だかホッとしたように和らいだ表情を見せて言った。
さあ、これで話はおしまい、食事にしましょう。
そんな母の言葉で夕食となった。
久し振りに母と向かい合っての夕食。一緒に暮らしていた一年前までは当たり前の風景だった。食卓に並んだメニューは刺身にステーキ、それに鰻まで用意されていた。他にもテーブルに載り切れないほどの皿が並んだ。
確かに豪華にはちがいないがまとまりを欠いた献立だった。
しかしそれらは、普段たいしたものを口にしてはいないだろうという親心が用意させたものにちがいなかった。
そんなことを母は口にはしなかったけれど、贅沢な一品一品には息子を思う母の愛が込められているようだった。おいしいおいしいと言って食べた。少しお腹は苦しかったけれど、おいしいおいしいと笑顔を作った。
翌朝、朝食を食べ終わったら帰ると、昨夜の内に告げていた。
ご飯に味噌汁。母の味噌汁はとても懐かしい味がした。しかし、それを言葉にはしなかった。いや、懐かしいなどと言えるはずはなかった。
書き置き一つで家出した自分。連れ戻されないために居場所も教えず、一時は行方不明という状況にさえなっていた自分。
それもこれも全ては組織からの指示だった。初めて連絡したのは一ヶ月が過ぎた頃だっただろうか。
それからは辛うじて月に一度ぐらいの頻度で家に帰った。二人きりの暮らしで母を捨てるように家を出た自分。
そんな自分がたまに帰ってきて、みそ汁の味が懐かしいなんて、どんな顔をして言えただろう。
*
七月二十日、火曜日の朝。
突然の訪問だった。Fがホームにやって来た。奴は僕の顔を見るなり、早口の土佐弁で用件をまくし立てた。
「おお、山下。今度母ちゃんと箱根で話し合いするがやろ? それが今日になったき。今から一緒にいこーや。俺は山下さん(母のこと)からお前に伝えてくれゆーて頼まれたがぁ。
俺も今日から夏休みで高知に帰るけんど、帰るついでに箱根に寄ってから帰省するわ。山下さんにも誘われちゅーき。俺も久し振りにお前のかーちゃんにも会いたいき。そやき、一緒に行こうや。はよー、用意しーやぁー」
Fの一方的な話には合点がいかなかった。
母が誘った? 誘ったって…?
どうにも腑に落ちなかった。
母は僕の高校で職員として数年働いていた時期があった。だから僕の同級生のことは言うに及ばず、女子寮の寮母をしていた関係で、生徒のことやその家庭の事情は僕より知っていることの方が多かった。
特にFとは息子と同じ空手道クラブに所属していたこともあり、母もクラブに対しは何くれとなく世話をしていたから尚更だった。
当然、息子の同級生であるFのこともよく知っている。だから息子の友人として遊びに誘うのであれば何も不思議なことではなかった。
しかし、今回は深刻な話し合いをしようとする親族会議なのだ。そんな内輪だけの集まりに、親しいとはいえ母はなぜFに伝言を託したりしたのだろう?
それが腑に落ちない理由だった。
腑に落ちない思いはどう考えても腑に落ちないまま、どんどん事柄だけが進んでいった。
母の一件は事前に支部長には許可を得ていた。それが突然今日になったと伝え、Fに急かされるまま準備をし、ホームを後にした。
三軒茶屋から渋谷へ。そこから山手線で新宿へ向かった。新宿からは小田急電鉄のロマンスカーに乗り込んだ。
ロマンスカーは新宿から箱根湯本を九十分(当時)で結ぶ。箱根湯本駅は箱根の玄関口だ。
上京したての頃はこの沿線に住み、三年間は毎日のように小田急を利用していた。だが、この沿線から離れて暮らすようになってもう一年。最近ではほとんど利用する機会がなくなっていた。
久しぶりの小田急はとても懐かしかった。上京と同時に利用を始めたこの電車と沿線には特別な愛着がある。東京での暮らしが始まると、とにかく身近な電車は小田急だった。
小田急電鉄の上りの終点は新宿駅。都内のどこかに動こうというとき、この新宿を起点とした移動が常だった。
バイト先の新宿。大学のある渋谷。あるときはふらりと池袋や大塚の名画座へ。まずはこの電車に乗り込むことから始まったのだ。
久し振りの景色がちぎれて飛んでゆく。
住宅が密集した都内を抜け多摩川を渡ると、だんだんと景色は遠くまで見渡せるようになり、緑が色濃くなっていく。
「走る喫茶室」とうたっていたロマンスカー。せわしない日常から離れゆったりとした気分に浸っていた。車内ではユニフォーム姿の素敵なお姉さんが飲み物や軽食の注文を取りに来てくれる。
僕らは調子に乗ってアイスコーヒーを注文した。向かっている先が観光地であるということがちょっとした旅の気分を誘い、知らず知らずのうちに華やいだ気分になっていたのだろう。
終点である箱根湯本までの一時間半は、ただ寛いで座っていればいいのだ。
Fとは思い出話に興じた。中学や高校時代のこと、また卒業してからのこと、同級の○○は結局一浪してどこそこの大学に入ったとか、また○○はクラブ推薦で大学に入ったものの練習の厳しさに嫌気がさし退部したのだとか、そんな情報の一つ一つがとても新鮮だった。
高校時代の仲間とは、統一協会の入信を機にまったく疎遠になっていたからだ。たとえそれらが数年前の情報であっても、自分には耳新しい話ばかりなので聴き入っていた。
Fはひとしきり話すと、大きな欠伸(あくび)を一つする。そして言った。「オレ、今日は朝練(早朝稽古)してきたが。ほいでこちゃんと眠いき。ちょっと寝るわ。着いたら起こしてくれや」そう言って目を閉じたかと思うと、すぐに寝息が訊こえてきた。
話し相手が眠ってしまったので、ぼんやりと車窓の風景を眺めるしかなかった。そうしているうち、いつのまにか自分の思いの中に深く沈んでいった。
そうそう、そういえばこんなことがあった。
大学に入学してから数ヶ月した頃だ。生まれて初めての合コンだった。僕らは同じクラスの男子学生四人。お相手は同じ渋谷にある短大の女子学生四人。
きっかけはその男の一人が、高校時代の同級生だった女の子に声を掛け、彼女の友人の短大生に声をかけたという、まあ、よくある話。
土曜の夜。予約していた青山の洒落た店で、男女八人は食事をした。初対面の気恥ずかしさが徐々に解けてくると、みんなはよく食べ、呑み、他愛のない話題に笑い合った。
二時間という予定の時間が終わるころ、僕らの関係はかなり温まっていた。そうだ、今からみんなでディスコに行かないか。
仲間の一人が突然言い出した。このまま散会するのは名残惜しいと誰もが思っていたから、その言葉にみんなは飛びついた。
四対四の僕らは一人も欠けることなく、二次会の新宿へと繰り出した。移動の電車の中でもそれぞれの会話は盛り上がり、あっという間に新宿に着いた。
七八年に大ブームとなったディスコは、この八〇年に入ってもまだまだ人気があった。
まさにその日は土曜日で、「サタデー・ナイト・フィーバー」ということになった。仲間の中で僕はディスコ初体験。新宿に着くと有名なディスコ店に入る。
料金を支払うと黒服のスタッフに案内された。たぶん地下だった。映画館のような分厚い扉を開けた途端、耳をつんざく大音響に圧倒された。耳元の大声でなければ会話もままならない。
ズンズンと腹の底まで響いてくるディスコ・ミュージック。やがて店内の闇に目が慣れてくると、視覚に同調するように耳も大音量を許容してきた。
店内は若い男女で溢れている。今日が土曜の夜だということを見せつけるような賑わいだった。
初めてだから見よう見まねの自己流で踊った。ディスコ慣れした仲間からは、なかなか上手いんじゃないの、なんて、からかうように褒められた。
踊り疲れるとダンスフロアから離れてしばしの休息。壁際のシートに座りこむと、フロアで踊る客たちを眺めた。それは自分で踊るより以上に刺激的だった。
そのうちにわかってきたのだ。この場を楽しむためにはお約束事がある。それは曲によって決まった振付があるということだ。それを押さえているということが、ディスコ馴れした、つまり都会的な証しのようだった。
ある曲がかかるとみんなは一斉に同じ振りで踊りだす。そんな様子を見ているとたまらなく愉快だった。沢田研二のヒット曲『TOKIO』がかかった。人々の動きがシンクロしフロアが一つになった。曲のサビである「トキオは空をとぶー」というフレーズがスピーカーから流れると、なんと人が飛んだ。何人も飛んだ。
ホホーそんなふうにするんだ、そう感心しながら可笑しさが込み上げてきた。
あれはなんていうのだろう。まるで丸太のように体を硬直させた人間を抱え上げ、人々は頭上に上げた手から手で次々に人を送る。
知らない人々の無数の手が、まるでベルト・コンベアーのように人を送る。担ぎ上げられたトキオくんたちは、まったく知らない人々の遊び心で無邪気に飛んでいる。彼らはまるで月夜に照らされて海を漂っているように見えた。
ミラーボールから反射される光の玉。激しく回転するストロボライトが闇を撹拌している。光のシャワーはフロアや天井を駆け巡り、空間の上下感覚を人々から奪っていく。フラッシュライトが人々の動きや顔の表情を闇から切り取り、その瞬間を妖しく浮かび上がらせていた。
こんな派手な光たちは、このフロアの闇を強調するためにあるようだ。人々は時間など忘れ、闇の中で激しく動き回る光と戯(たわむ)れる。忘れ去られた時間は誰にも相手にされず、フロアの隅でくすぶっている。
「どうしたんだー。今日は飛ぶ人間が少ないぞー」
様子を眺めていたDJが、挑発するように叫んだ。
結局、明け方の閉店までいた。
時間感覚のすっぽり抜け落ちたフロアでは、日付も曜日もとっくに変わっていた。黒服の兄ちゃんたちから追い立てられ、地下の闇からモゾモゾと這い出した。
すると早朝の歌舞伎町に出た。昨日自分たちはこんな場所から店に入ったんだ。朝の光が充血した目にチクチクと突き刺さる。
「おつかれー」。
仲間たちとは互いにそう言い合って別れた。本当に疲れた。ヨレヨレのクタクタで一人新宿駅に向かう。途中、歩道にはあちこちにカラスがいて、ゴミ袋をくちばしで破り路上に朝食を広げていた。
都会のカラスは人を舐めきっている。こんな至近距離でも逃げやしない。こんなに間近でカラスを見たのは、たぶん生まれて初めてだと思った。冗談じゃない。お前なんか怖くないぞ。一歩踏み込んでちょっと脅かしてやった。カラスはちょこんとジャンプしただけで知らん顔していた。
カラスは賢い。
動物の体全体に占める脳の大きさをあらわした「脳化指数」によれば、カラスは犬や猫よりも脳が大きいという。そして危害を加えた人間の顔を何年も覚えているらしいのだ。おーこわ。
濡れたように艶やかで美しい漆黒は、何食わぬ顔でまた朝食に戻っていた。さっきまでいた闇の世界とこの漆黒のカラスとは、どこかでつながっているのだろうか。
小田急線新宿駅。
冷えきった体を始発電車に潜り込ませた。発車のベルを訊くのを待たずに意識が遠のいていった。当時は神奈川に住んでいて目指す場所は座間駅だった。新宿からは準急で五十分ほどだ。
うん…動かない…おかしい…。まだ半分眠りの中にいる自分の頭が状況を掴もうとしている。いったいここは…どこ…なんだ。やっと頭を上げるとぼやけた目で駅名の表示を探した。
うわー。
そこはなんと乗りこんだ電車の終点の小田原駅だったのだ。新宿から急行で九十分の場所だ。小田原まで来てしまった自分が信じられなかった。よろよろしながら先発の上り電車に急いで乗換えた。
俺はいったい何やってんだ。あーバカバカしい、バカバカしい…と思っているうちに瞼は重くなり再び深い眠りの中へ。次に目覚めるとそこは新宿駅だった。あまりの驚きに言葉もなかった。
そのとき『猿の惑星』のラストシーンを観たようなショックを受けていた。うわーここは新宿駅じゃないか。周りに人がいなかったら、映画のテイラー船長と同じように、その場に泣き崩れたことだろう。
これはひょっとすると、あのとぼけたカラスの呪いなのかもしれない。本気でそう思った。早く暖かい布団に潜り込みたいのに、また振り出しに戻ってしまった。
こんな理不尽な旅はいったいどうすれば終わらせることができるのだろう。もう本当にお願いします。早く自宅に帰らせてください。祈る相手もないまま、僕は必死に旅の終わりを念じた。
今度こそはと下り電車に乗り込む。だが、性懲りもなくまたまた眠りこけた。しかし今度は、目的の駅に着くと同時に目が覚めた。0コンマ何秒かの奇跡だった。駅名がアナウンスされ扉が閉まる直前、転がるようにホームに飛び出した
改札を出てバス停に向かう。もう陽は高くなっていた。運悪くバスは出たばかりだった。五分ほど迷ったが、眠くて眠くて待ちきれず、駅から二十分ほどの道のりを歩くことにした。
ちくしょう、ちくしょう。うおーー。
自分のバカさ加減に悪態をつきながら、重い足を引きずるようにして歩いた。もう疲労困憊。疲れ果てていた。やっと自宅に到着するとベッドに倒れこんだ。あの始発電車から、もう五時間以上が経過していた。
ばかだねぇ。
すっかり思い出に浸っているにやけた顔が、車窓に映っている。
あのときと同じ車線を今走っているのだと思うと、さらに懐かしさが募った。
つい二年前のことなのに、なんだか遠い昔のような気もする。それに随分と遠くへ来てしまったような思いもある。なんたってあれからいろんなことがあったからなぁ。
いろいろあった出来事の中で、僕は統一協会員になっていた。もし、統一協会に入信していなかったとしたら、あれから合コンを何度か重ね、今頃は彼女の一人もできていたのかもしれない。
統一協会に入信していない自分。こうして信者になっている今の自分。その二つの生き方を、手のひらでもてあそぶようにくらべていた。
バッグの中からウォークマンを取り出すと、ヘッド・フォンを耳に当てた。
テープには、森田地区長の最後の祈祷が録音されていた。ほんの一週間前のものだ。最後というのは、地区長が人事異動のため三軒茶屋を去ったからだ。
敬愛する地区長の最後の祈り。ひょっとするともう一生会うことはないかもしれない、そんな感傷的な思いから録音したものだ。空いたときに聴こうと、バックに入れて持ってきていた。再生ボタンを押すと、たちまちあのときの臨場感が意識を捕らえていく。
七月一日、午前五時。
毎月一日、恒例の早朝祈祷会だった。
明日か明後日には、地区長は二年半を過ごした三軒茶屋を去り、四国に赴任することになっている。メンバー全員の前に立つのはこれが最後になるだろう。
そんな寂しさが全員の胸にあった。ホールには四十名以上になろうかというメンバーが玄関先にまで溢れている。
祈祷会は地区長の祈りから始まった。
地区長が発する「お父さま」という呼び掛けに呼応し、メンバーもまた「お父さま」と唱和する。「お父さま」とは創造主である神のことでもあるが、大方のメンバーの脳裏には教祖文鮮明のことが強くイメージされている。
祈りが始まった。
「お慕い申し上げまする愛する天のお父さま。今年、一九八二年も上半期の半年を過ぎまして、今日から下半期の後半の六ヶ月間へと入っていく立場でございます。六月の歩みを一区切りとして、わたしたちがほんとうに今年立てた目標に対して、どれだけ勝利しているかということを見つめ、反省しながら、新しい七月に対しての天が願うこの願いに対して、その責任をとっていかなければならない立場におきまして、今出発するべき一人一人であるということを思いましたときに…(中略)…
…新しい月の出発のなかにおきまして、ほんとーに新たなる決意を一人一人が掲げて出発せんことをここに誓って、ほんとーに、ここにいかなる障害にもいかなる困難も乗り越えて行かんことをここに誓いながら、簡単な一言でありますけれども月初めにおきまして、出発にさいし、愛する兄弟姉妹の祈りとともに合わせまして、真のご父母様の御名によって天の父の前にお祈り申しあげます。アーメン」
簡単な一言でありますけれどと地区長は祈りを結んだが、それは十分以上になる長い長い祈りだった。
祈りの言葉は力強かった。ひょっとすると、東京での働きがこれで最後になるかもしれないという万感の思いが、地区長の祈りをいつもより熱くさせていたのかもしれない。
地区長の内奥には燃えさかる炎があった。その炎とは、文鮮明という人生の師に対する見事なまでの忠誠心ということになるだろう。文鮮明を再臨のキリストとして崇め、人類の救い主として信じる強烈な思いが、先の祈りとなっていた。
テープの中に引き込まれていた意識が、ロマンスカーの車中に戻ってくる。
旅行気分でのんびりと車窓を眺めていた自分だったが、地区長の切実な祈りの世界に引き込まれると、気持ちが引き締まった。
*
終点の箱根湯本駅に着いた。
駅に着いたらタクシーで来なさいと母から言われていた。改札を出るとタクシーに乗り込む。旅館名だけでわかるのかなと心配したが、ドライバーはすぐに了解した。
坂道を二十分ほど上ると目的の旅館に着く。玄関を入っても人影はなかった。奥へ声を掛けてみる。五十代前半と思しきおかみさんが顔を出した。
名前を告げると、「お疲れ様でした。お待ちしてましたよ」とニッコリと微笑んだ。帳簿に名前と住所を書き込むと、おかみさんに促され部屋へ案内された。
部屋には母と祖父母がいた。祖父母に最後に会ったのはいつだっただろう。ひょっとするともう三、四年前になるのかもしれない。初対面のFを祖父母に紹介し、お茶を飲みながら高校時代の思い出話を一つ二つ披露した。区切りのいいところで母が声をかけた。
「お風呂にでも入って汗でも流してきたら…せいみ君と一緒に入っておいで…」母の言葉に促されせいみと僕は腰をあげた。
まだ時間が早いのか風呂には誰もいなかった。二人はかけ湯をすると、ゆっくりと湯船に浸かる。
ホームではほとんどシャワーだけという生活だったから、湯船に浸かることなどほんとうに久し振りだった。広い温泉におもいきり手足を伸ばすと、生き返った。
何年ぶりになるのだろう?
こうしてFと一緒に風呂に入るのは。高校卒業以来だから…もう、四年になる…か。中学高校の寮生活時代は毎日のように一緒に風呂に入っていた。奴とは同じクラブだったからだ。
練習後寮に戻って風呂オケを抱えると、競争するように風呂場へ走った。練習が終わった解放感から、洗い場のあちこちから笑いが沸き起こり、風呂場の高い天井にこだました。後輩たちが背中を流しにくる。流し終わると今度は替わって後輩の背中を流す。わが部の先輩後輩の関係はそんな和気あいあいの関係だった。
「山下、洗っちゃるき、背中むけーや」湯船から上がると奴が声をかけた。
ひょっとするとFはFで、そんな時代のことを懐かしく思い出していたのかもしれない。
ほてった躰に浴衣をまとう。
風呂から上がって部屋でくつろいでいると、夕げの膳が整いましたと仲居さんが知らせに来てくれた。別室に移り膳の前にあぐらをかく。吟味された器に盛りつけられた数々の料理。
目に美しい一皿一皿をゆっくりと味わった。味覚の喜びはじわりじわりと心までも潤していく。
満ち足りた夕げが終わっても、母は例の話を切り出す気配はなかった。話し合わなくていいのかな、こんなにのんびりしていてもいいのかな、と思いながらもとりとめのない話で夜は更けていく。
お腹も満たされ、温泉で躰もリラックスすれば、まぶたは必然的に重くなっていった。まして日頃の慢性睡眠不足。カリッと糊の利いたシーツの心地好さを足先でなぞっているうちに、深い眠りに落ちていった。
翌朝はゆっくりと目覚めた。
せっかく旅館にきているのだからと朝風呂に行く。
風呂から上がると、朝食を済ませゴロゴロする。テレビを観たり、旅館の中を探検したり、旅館の周りを散策する。昼食を済ませ、少し休んでまた温泉に入る。何をするわけでもなく時間が過ぎていった。
普段、とにかく時間に追われる生活が身についている。こんなにのんびりしてていいのかな。仲間の姿がときどきちらつく。こんな時間の過ごし方に少なからず後ろめたさを感じ始めていた。
しかし、こんな時間の流れに身をまかせていたのは、それなりの理由があった。僕は母が手術することにおびえその現実の前にすくんでいると思っていたのだ。そして、それは当然のことだと思った。
母がその胸に抱えてしまったしこり。すくんだ心が開こうとする口を重くさせていると思った。検査の結果によっては緊急手術になるかもしれない。そして、いざ手術となり最悪の事態のことも想定すれば、遺言めいたことも残さなくてはならなくなる。
そのことを年老いた両親や、まだ年若い一人息子の前に語りだすということは、胸がふさがるような思いにちがいない。だから待とうと思った。待つべきだと思った。母が切り出すのを促したり、急かすような真似だけはしないでおこうと思い決めていた。しかし、それにしても、だ。
午後になっても、母が話を切り出すような気配はなかった。話を切り出せないだろう気持ちを気遣い、それにも配慮してきたつもりだ。
しかし、午後も三時を過ぎ四時になっても、母はこの場の状況を動かそうとはしなかった。大事な話し合いのためにこの箱根にそれぞれ集合したはずだ。
自分も大切な話だと思ったからこそ、余裕を持たせて時間を都合してきたというのに…。さすがにいぶかしく思い始めていた。そんな頃、やっと夕方近くになって部屋の空気が動いた。しかし、動いた先はまったく思ってもみない方向だった。僕は母の躰のことを心配して箱根まで来たつもりだったのだが、周りから、ほんとうに心配されていたのは僕自身の方だった。
「ゆきひさ君、大事な話があるから、ちょっとこっちに来て…」 居住まいを正した母が声を掛けた。
やっと切り出す気持ちになったのかと思いながらも、何やら様子がおかしい。
母は畳に正座をし、真っ直ぐ僕を見据えている。
「今から話すことは大事なことだからよーく聞いてくれる…じつは、箱根に来てもらったのは、もちろん手術のこともあるんだけど…あなたを騙(だま)すようなかたちになったことをまず謝ります…本当にごめんなさい。
こんなふうにしないと応じてもらえないと思ったから…騙し討ちのようになって本当に申し訳ないと思ってます。実は…是非あなたに会ってもらいたい人がいます。それはキリスト教の牧師さんで、和賀先生といいます」
「えっ、和賀先生って、ワガシンヤが来てんのッ!…」
突然の母の言葉に驚き、僕は反射的に声を上げていた。
驚きだった。こんなところにまで、こんな自分のところにまで、あの有名なワガシンヤは来るのか。和賀真也という牧師は、統一協会内部で悪名を轟(とどろ)かせていた。
この牧師と会うことによって、多くの統一協会員が脱会していたからだ。その事態を組織も憂慮し、脅威に感じていた。
和賀牧師に対する拒絶反応とは、統一協会の「反対牧師対策」通称「反牧(はんぼく)対策」という名の組織教育の成果だった。組織は統一協会に反対する牧師たちを目の敵にして中傷を繰り返していた。
信徒たちには反対牧師対策として「会うな・話すな」などと教え込んでいた。統一協会では、反牧は厄介なウイルスなのだ。初対面の牧師に対して飛び上がるほど驚いたのは、このような組織の教育があったからだ。そんな牧師の登場を知らされて心底驚いていた。
確かに母が言うように騙し討ちと言えばそうかもしれなかった。しかし、そうでもしなかったらこの箱根まで来させることは出来なかっただろう。
何よりも今回のことは、僕のことを心配するあまりすべて設定されたのだ。そんな母の気持ちを母の立場で考えたら、子供染みた癇癪(かんしゃく)を起こす気にはなれなかった。それよりも、信仰者としていま僕がこの場で取るべき態度や姿勢というものに、思いを巡らせていた。
さて、反牧たちの中でも「和賀真也」の知名度や危険度は別格だった。紳士的な態度で近付き、人格的な対話で信者の信仰心を惑わす。そしてどれだけ多くの兄弟姉妹が統一協会から離れていったか。
和賀真也ウイルスに冒されたら確実に死に至る。組織はウイルス中のウイルスとしてこの牧師を恐れていた。
このような教え込みを受けるうち、信者の脳には恐怖心と憎悪が植え込まれる。反復される恐怖と憎悪は、強烈な拒絶反応として固定されていく。
組織は戦う相手を特定し、その相手に敵愾心を植え付けることで、内部の結束力を高め、構成員を一体化させていく。そんな手法は歴史上何も珍しいものではない。
思わず声を上げた僕に、母は畳に手をつき深々と頭を下げた。その額が畳につくほど深くだ。
「どうか、和賀先生と会ってください…どうか…会って…頼みます」ひたすら懇願する母だったが、しかし、その声の調子は哀願一色というものでもなかった。頭を上げた母のまなざしには、射るような力が込められていた。
哀願と毅然。
母の態度には異質に見えるこのふたつが混在していた。それは長らく女手一つで息子を育ててきた母の、ここぞという場面で母性と父性が一挙に出現したからかもしれない。
母は命をかけている。
そう思わされた。逆にこちらの姿勢が正されるような、母の体当たりの訴えだった。そんな母のまなざしに背を向けることはできなかった。涙の滲んだ訴えに耳を閉ざすことはできなかった。
真摯な視線をうけとめず、実の親の涙を無にすることはできなかった。わが子に頭を下げる母。傍らでは年老いた祖父母が沈黙したまま孫の動向をうかがっている。Fは部屋の隅で息を殺している。重苦しい沈黙が支配するこの空気の中で僕は考えた。この沈黙に決着をつけられるのは、この僕以外にいないじゃないか。
もしもこの部屋から飛び出し、和賀牧師に会わせられるなどと慌てふためき組織に電話を入れたらどうなるのか。責任者は飛び上がるほど驚き、どんなことをしても逃げ帰れと指示するに決まっている。
それが神の御心なのだとか、今は牧師に会うときではないだとか言うのは目に見えている。しかしその指示通り自分が動いたらいったいどうなるというのか。この状況の一切を放棄するような真似をすれば、親子の信頼関係はどうなるのだろう。
家族を置き去りにするようなことはもう出来なかった。それはもう今まで散々してきたことだった。
そして何より、統一協会で真理に出会ったという人間が、この場から尻尾を巻いて逃げ出すのなら、逃げ出すよう指示をする組織であるのなら、とんだお笑い種ではないか。
僕たちは世界を、この全人類を救おうとする団体じゃないのか。ここで逃げ出すなら言うことと行動が一致しなくなる。
会おう。
そう心が動いた。
「もうわかったから…会うから…頭を上げて…それで今、牧師はどこにいるの?」
「そう…あ、ありがとう…」母はサッと顔を明るくし、涙を拭った。
「二階の部屋で待っててもらっているんだけど…」
「えっ、二階にいるの。いつから?」
「昨日から。昨日の夜、来られたから…」
そう聞かされると、少なからず動揺した。
「少し時間をくれる? 二、三十分でいいから…」そう母に告げた。
会うことに腹は決まっていた。そこに迷いはなかった。しかし動揺している心を落ち着かせる時間が欲しかった。奥の小部屋に入り一人になりたいことを告げる。
小部屋に入ると襖を閉めた。部屋に閉じこもった。一人になったのはいいが、緊張のため何をどうしていいのかわからなかった。
そうだっ。
思いついて手元のバッグを引き寄せる。
極限状況を少しでも有利にできる何かを必死になって探した。このときの過酷な心理状況だけを考えれば、それはサバイバルだった。自分の内部にある統一協会信者としての自己が、まさにその生き残りを懸けた戦いを目前にしていた。
サバイバルで重要なことの一つは、身近に手に入るものは何でも最大限に活用することだ。なりふり構わぬ積極性と、手近なものを工夫する冷静な知恵が、極限では生死を分けることになる。
バッグの中から取り出したのはウォークマン。その本体からカセットテープを抜き取った。そのテープとは、ロマンスカーの車中で聴いていた、あのテープだった。そのテープを胸ポケットにそっと忍ばせる。そのときこのテープは紛れもなく「お守り」以上の意味があった。迫りくる緊急事態を前にして、このテープは立ち向かう勇気を与えてくれた。
…いよいよ、だな。相手は牧師だからとても自分なんかには歯が立たないかもしれない。だけど、自分の信仰の全てを懸けて戦おう。しかしまてよ、本当に和賀真也に会ってもいいんだろうか…このことは、自分の信仰生活の汚点になるのではないか?
いやいや、これは自分の氏族のためにも背を向けられないことだ。…どうか先祖の方々、守ってください。力を貸してください。
しかし…統一協会と敵対している大物の本人に直接会えるということは、逆に光栄なことなのかもしれない。これを乗り越えることによって自分の信仰は大きく飛躍するかもしれない。
だとすれば…この試練は神様から与えられた大いなる恵なのかもしれない。いや、きっとそうだ。ああ、神はなんて愛なんだろう。そうだ、原理の批判をしている和賀牧師も救わなくてはならない。いつまでも統一協会に反対していると、神の裁きがあるということを教えてあげなくては…。
ああ、神よ、無力な私に力を与えてください…。
心乱れそうになる自分を、必死になって静めようとするもう一人の自分がいた。不安と緊張の波に揉まれながら、冷静になろうと努めていた。
「和賀牧師も救わなくては…」という伝道者としての使命感を強く意識したとき、不安で揺れた心は深い祈りになっていった。
統一協会員として立派に戦おう。逃げるのでもなく、隠れるのでもなく、相手がどのような人物であるのか見極めよう。もしその牧師が人後に落ちる相手なら、そんなときはすぐに対話を中止すればいいのだ。
「笑った」「なるほどねー」など体験をされましたら お気持ちで、サポートお願いします。 記事の充実資金のほか、世界の子供たち支援に充てさせていただきます。