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花冷えの空と、

22時の銀座駅、C4出口を駆け上がった先。銀座の街を見守る交番があり、さらに不釣り合いな桜の木が佇んでいる。調和を取ろうと過剰に配慮した結果、どこかアンバランスさを醸し出す、現実離れした空間。そこに彼はいた。

「この桜を見せたかった」と子どもっぽく笑う彼に、表情筋もつられてミラーリング効果を発揮する。銀座のアンバランスな桜に交番、そして彼の笑顔とが見事なバランスで存在した瞬間は、この春に桜が隠していた宝石みたいで。この先どこかで、誰とどんな美しい桜を見たとしても、思い出すのは幼く見える彼の笑顔なんだと不覚にも思わされた。

春色の彼の隣をついていくと、夜の街を誰かと歩くなんて、久しぶりなことに気づく。そもそも、夜の街が寝静まろうとしている刻を踏みしめ、味わうことをしていなかったのかもしれない。彼と同じスピードで歩くと、日常のテンポから必然的に外れて、この街に誰かといることを感じさせられた。ひとりでは少し心細くなる冷えた夜の、こんな夜の街でひとりじゃないと思わせてくれる誰かが、彼でよかった。毎日に振り回されて、どこか冷え切っていた心がゆっくりと解凍されて、らしさを取り戻そうとしていた。

彼に引き連れられて美味しいご飯を食べた後、初めて彼のお布団に潜り込んだ。冷え切っていた身体に彼の体温が伝わってきて、ふたりの体温はちょうど同じくらいになった。人は眠る時に少し体温が上がるんだっけと思ったのも束の間、次に見たのは少し朝日に染まった彼の寝顔。花冷えの時はもう過ぎていた。

花冷えなんて、美しすぎて憎くなる。花が咲く頃に寒さを取り戻すよう、いつかこの関係も、好きが溢れた頃に冷えてしまうかもしれない。いや、いつかきっと離れてしまうことなんてわかっている。でもそれは今じゃないことだけを信じて、ただ冷えないように抱きしめていたい。温かさを欲しがった夜は、いつだって来たる日の冷たさに怯えてしまうけれども、その温かさだけを純粋に信じられるよう強くあろうとするべきなんだ。たとえ微温くなり冷めてしまっても、何度だって温め直せる底なしの強さを。

花冷えの空と、君とを抱きしめた夜を、今だけは手離したくないと思った。


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