【連載小説】「春夏秋冬 こまどり通信」第九話(全十話)
この洋館は、外からは二階建てに見えるけれど、屋根裏にあたる場所にもう一つ部屋が隠されている。屋根の形のまま急な勾配を描く天井には天窓があって、家具もベッドも置ける十分な広さがあった。
ちーちゃんは、この部屋をアトリエにして作品を制作したり、「いろどり教室」で使う折り畳み椅子や丸テーブル、写生練習のための石膏像や花瓶などを置いたりしていた。
この部屋に来るのは久しぶりで、扉を開けた途端に塵が舞う。天窓から注ぐ光に照らされて、細かい粒子がちらちらと光っていた。
「これは全部、色鉛筆で描かれたものなのですか」
宇久井さんは、部屋に入るなり壁に飾られた絵に感心する。
飛騨高山の合掌造りの古民家、スペイン・アンダルシアの向日葵畑、赤、青、黄色の三色シロップがかかったかき氷。
どれも「こまどり教室」の生徒さんと一緒に展覧会を開こうと、先代が用意していたものだった。それは叶わないまま、作品だけがこの部屋に取り残されている。
私は色鉛筆画には目を向けず、部屋の奥にある桐箪笥へと向かった。
祖母が若い時に購入したという桐箪笥は、今も変わらず漆塗りされた表面が赤茶色につやめいていた。ここには、祖母とちーちゃんの着物がたとう紙に包まれて、べっ甲でできた簪などと一緒に静かに眠っている。
けれど、六段ある引出しの内、五段目の引出しだけ、私は一度も中を見たことがなかった。鍵が掛かっていて、どうしても開けることができなかったのだ。
「もしかして、その引出しの鍵なのですか?」
引出しについている丸い鍵穴を見つめていると、後ろから宇久井さんが覗き込む。
「確証はないのですが、ここしか思い浮かばなくて。とりあえず、試してみます」
私は、宇久井さんから預かっていた鍵を引出しの鍵穴に差し込む。奥まで届いたことを確認して、鍵を左に回すと──。
がちゃり。
中から鈍い金属音がした。
「……先生。やりましたね」
「……やりました!」
宇久井さんと顔を見合わせてガッツポーズをすると、急に心臓がどきどきと騒ぎ始める。
十五センチほどの高さの引出しの中に、一体何が隠されているのだろう。
引出しを、ゆっくりと手前に引いていく。
中から現れたのは、紫色の風呂敷に包まれた長方形の物体と、白い封筒だった。風呂敷に包まれた方は、引出しの奥行にぴったりと収まるほどの大きさだった。
封筒の表面には、「ちどりへ」と、ちーちゃんの字で書かれている。
私は端から丁寧に封を開け、宇久井さんと一緒に手紙を読むことにした。
「ちどりへ
もし、この引出しの鍵を持って私を訪ねてきた人がいたら、この風呂敷で包まれたものを渡してください。
これはね、ある人にとって、とても大切なものなの。できれば、私の手から返したかったけれど、それは難しそうだから、ちどりにその役目を託したい。
だけど、いきなりこんなことを頼まれても、『何がなんやら』って話よね。
あなたも納得できるよう、少しだけ昔話をしておきたいと思います。
もう十年も前の話になるけれど、おばあちゃんが亡くなった、あの年。ずっと勉強していた色鉛筆画の教室をこの家で始めようと決心して、私がそれまで続けていたタクシー運転手の仕事を辞めたことを覚えてる?
実はね、タクシー運転手として迎えた最後の日、私は不思議なお客様に出会っていたの。
その人は、深夜に大きな風呂敷包みの荷物を抱えて、駅からタクシーに乗車した。
最初、言われた通りに住宅街を目指していると、急に海の方向に向かってくれと言い出して、その後、海を目指して走っていると、今度はまた駅に戻ってくれと目的地を変えて。
何度も同じところをぐるぐる回って、いつまで経ってもどこに行きたいのかを伝えてくれない、変なお客様だった。
私は早く仕事を終えて帰りたいのに、料金メーターの数字が増えていくばかり。とうとう三周目に突入したところで、私は痺れを切らせて車を停めたの。どういうことなんだ、って文句を言おうと思ってね。
だけど、振り返ると、そのお客様は風呂敷包みを抱えて泣いていた。
身なりからそれなりに立場のある方だと分かったから、最初はすごく驚いたけど、理由を聞くとこう答えたのよ。
これを捨てなければならないが、どうしてもそれができない。
ってね。
つまり、何かの捨て場所を探すために、私はどこまでもタクシーを走らされてたってわけ。頭にくるでしょ?
でもね、暫くお互いの話をしていたら、その人は風呂敷の中身を見せてくれた。それを見て、それがとても大切なものだって、すぐに分かったのよ。
だからね、私、手放してしまえば捨てるのと同じだって言って、それを預かることにしたの。
タクシーを運転する最後の最後にめぐり合ったことにも、不思議な縁を感じてね。
そのお客様のお名前は、菊池忠輝さんと言うの。
いつか取りに来られたら、その時は、どうか私の代わりに『大切なもの』を返してあげてください。
ちどりに変な役目を押し付けてしまって、悪いとは思ってるのよ。
でもね、あなたは嫌とは思わないだろうな、とも思ってる。
ちどり、ここを見つけてくれて、感謝してるわ。
私は、あなたがいてくれるおかげで、未来に希望を残していける。
千鶴」
「父が泣いていた……? 信じられない」
「宇久井さん、とにかく風呂敷の中を確認してみませんか?」
引出しから取り出す時、もしかして、と思っていた。
縦五十センチ、横四十五センチほどの綺麗な長方形。そして、この重さ。色鉛筆画で使うことはあまりないけれど、デッサンの勉強をしている時に何度も触れていた、あの感じ。
「開けますよ」
「お願いします」
ちーちゃんの作業机の上に置いて、私は紫色の風呂敷の結び目を解く。
シルク製のちりめん風呂敷は、するりとはだけて中身を露わにした。
想像していた通り、大切に包まれていたのはキャンバスだった。百合の花を持つ若い女性の横顔が油絵で描かれていて、絵の全体はつつましやかな雰囲気だけれど、まっすぐ誰かを見つめる人物の視線には慈愛が宿っている。
「これは、母です」
宇久井さんが、小さく震える指先で絵に触れた。
「どうして……、どうして父がこの肖像画を? ずっと、なくしたとばかり思っていたのに。本当にあの人が、この絵を捨てられないと……?」
信じられない、と宇久井さんは再び呟く。
「だって、そんなはずはないんです。父はあの時、他に女がいたから母を捨てたんだ。祖母は、跡継ぎの私を何とか菊池家に引き留めようとしていたけれど、それでも父は、母と私を無理やり家から追い出したんです。精神的に弱っていた母は、何も反論できないまま、そのまま実家に帰るしかなくて……」
「それは、お父様が今の奥様と結婚するために……?」
「いいえ、父が今の人を妻にしたのは、その数年後。後妻は、祖母が連れてきた取引先のお嬢さんです。父とは親子ほど歳が離れていて……」
「それならば、どうして菊池さんは泣く泣く大切な絵を手放してまで、別れを選ぶ必要があったのでしょう。そうしなければならない事情があったのでしょうか」
二人で考えあぐねていると、「あの頃……」と宇久井さんが口を開いた。
「あの頃、会社の社長に誰が就任するのか、一族でもめていたんです。みんなピリピリしていて、特に祖母は、父が社長になれなければ妻の責任だと、母にきつく当たり続けていました。母はそのせいで心を病み始めていたのに、『他に女ができた』と父が突然言い出して……。私は父を心底軽蔑し、無慈悲な鬼だと恨み続けてきました。だけど、そうじゃない可能性があるのか? 母に関わる、全てのものを手放さなければならなかった何かが……」
「……手放すのも愛だ、って言ったんです」
「え?」
振り返った宇久井さんは、きっと面食らってしまったはず。
ずっと靄がかかっていた記憶が急速に晴れて、私は涙を止めきれず、ひどい顔をしているに違いなかった。
「叔母は、ちーちゃんは、最期に『手放すのも愛だ』って、私に言ったんです。もし、菊池さんが本当は辛いのに手放さなければならなかったとしたら、それは『愛』が理由だった可能性はありませんか? 宇久井さんや、宇久井さんのお母様のために」
「……先生、あなたは何かを手放して後悔をしているのですか? それで、泣いているのですか?」
宇久井さんは、床に座り込んでしまった私の肩に優しく手を添える。
お客様の前で何をしているんだ、と思う反面、目の前にある憂いのある穏やかな瞳が、まるで神父様のように見えて仕方がない。
涙も、開いてしまった記憶の蓋も、もう自分ではどうすることもできなかった。
「違う、違うんです。私は、手放してあげられなかったんです。私、ちーちゃんが病気の治療でずっと苦しかったって知っているのに、息を引き取る間際まで『私を置いていったら、許さない。私の手を離したら一生恨んでやる』って言ったんです」
うん、と宇久井さんは静かに頷く。
「ちーちゃんは、本当は悲しかったのかもしれない。本当は、引き留めるんじゃなくて、もっと早く私に手を離してほしかったのかもしれない。それなのに私、わがままを言って必要以上に苦しい時間を引き延ばして……。ちーちゃんは、そんなの愛じゃないって言いたかったのかもしれない……!」
私は子どもみたいに泣きじゃくっていた。
人前でこんな風に泣くのは、いつぶりだろう。
けれど、不思議と恥ずかしくはなかった。ずっと前から、こうしたかったような気がした。
暫く見守っていてくれた宇久井さんは、ハンカチを差し出すと、こう言った。
「本当に、そうなのでしょうか。私には今、三歳になる息子がいるのですが、子どもと手を繋いでいると、その手を離したくないと強く思う瞬間があります。どこかに走っていっては危ないと、つい引き留めてしまいたくなるのです。けれど、子どもが成長とともに外へ羽ばたこうとすれば、大人は手を離さなくてはなりません。それが、親の役目の一つでもあるからです。先生、私にはあなたの手を離したくなかったのは、むしろ千鶴さんの方ではないかと思えるのですよ。『手放すのも愛だ』というのは、それはあなたにではなく、自分自身に言い聞かせるために言った言葉だったのではないでしょうか」
宇久井さんは、もう一度、お母様の肖像画を見つめる。
「『手放してしまえば捨てるのと同じだ』と言って父を説得してくれたのは、そうでもしなければ父が引かなかったから。大切なものを手放すことで救えるものがあると、きっと父は千鶴さんから教えられたんです」
「救えるもの……?」
「手放すことと、捨てることは違いますよ」
私の手に、幼い頃つながれていたちーちゃんの手の感触が蘇る。
ちーちゃんは、私のために手を離して、羽ばたいてほしいと願っていたの?
冬を越えるために海へ飛び立つ、小さなこまどりのように。
「こうやって話をして、ようやく私も気づくことができました。父は、母と私を捨てたかったわけじゃない。悪意に満ちていたあの家から、母と私を解放してくれたんだ」
眼鏡の奥の優しい瞳から、きれいな涙がぽろぽろとこぼれていた。
(つづく)