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【連載小説】「春夏秋冬 こまどり通信」第六話(全十話)
それから三週間、毎週木曜日に江永さんは「こまどり教室」に通っている。
レッスンがない日も自宅で富士山を塗り進めて、予定よりも早く絵を仕上げてしまいそうな勢いだった。
毎週その進捗には驚かされるのだけれど、私は少しだけ江永さんのことが心配になった。なにぶんペースが速すぎる。
F四サイズの用紙は一般的なスケッチブックの大きさの一つとはいえ、作品を完成させるまでには膨大な時間と地道な作業が必要になる。
特に、似たような色から構成される山や水面などを精密に描こうとすれば、それはなおさらのこと。表現したい色や表情を出すために、何度も何度も手首を振って薄膜を重ねるように色をのせたり、陰影の生まれるところには、筆圧を高めて根気よく色を塗り込んだり。見た目以上に、その工程は繊細で複雑なのだ。
紅白の芙蓉の蕾が開き、商店街の銀杏並木が黄色く染まった、この日。曇り空のせいか、庭を歩いてやって来る江永さんの顔色が、いつもより白く見えた。
「江永さん、大丈夫ですか? 今日は、少し顔色がよくない気がします」
「ちどり先生、大丈夫ですよ。少しバスに酔っただけですから」
「無理はなさらないでくださいね。少しでも具合が悪くなったら、すぐに教えてください」
「ふふ。これでも、毎朝一時間の散歩は欠かさなかったのよ。本当に大丈夫だから」
応接間に通した後も、ソファーで少し休んでは、と何度かすすめてみる。けれど、「いいの、いいの」と、その度に断られてしまった。
「早くここへ座って。ちどり先生」
江永さんは、席の隣に折り畳み椅子を広げると、座面をぽんぽんと手のひらで叩いて私を呼ぶ。
机の上で絵を広げて見せてくれると、富士山が主役の美しい風景画が、今日には完成できそうだった。
雲一つない爽やかな空と、その空をうつした湖の青色。二つの青色に頂きに雪をかぶった富士の姿が映えている。ほんのりと赤みがかって描かれた山肌は、どこか恋をしているようにも見えた。
完成したら、どうしてこの絵を描きたかったのか、話してくれるかしら。
私は、密かに江永さんからの告白を期待していた。
それは、絵の仕上げに取りかかって一時間ほど過ぎた頃だった。
色鉛筆が一斉に転がり落ちる音と同時に、江永さんの上半身が机にもたれかかるようにして倒れた。
「江永さん!」
幸い肘をついてくれたため、頭を打つことはなかったけれど、彼女の顔面から血の気が引いている。やはり、無理をしていたのだ。
「大丈夫よ、ちどり先生。少し風邪をひいてしまっただけなの」
江永さんは、いつものように笑顔をつくろうとする。
「だめです。少し横になりましょう」
私はそう言って、江永さんの身体を支えると、ソファーに移動して横たえさせた。
「静かに休んでいてくださいね」
江永さんが「大丈夫よ」というのを制して、念を押す。彼女の肩から足の先まで毛布をしっかりとかぶせると、すぐにリビングへと向かった。
江永さんは風邪だと言うけれど、本当だろうか。急な血圧の変化か、貧血か。もしかしたら、私の知らない持病があるのかもしれない。
頭の中を、色々な可能性が忙しなく巡っていた。
いつも、私の近くにいる人は突然いなくなってしまう。
六歳の時、「買い物に行ってくるから」と言って、母は姿を消した。
金城鉄壁に見えた祖母も、私とちーちゃんが留守にしている間に、あっけなく逝ってしまった。
ちーちゃんは、病に気づいた時には先に待つ運命が見えていたはずだけれど、「こまどり教室」をお休みするまで私には何も話してくれなかった。
何でもっと早く休ませなかったんだ。江永さんに何かあったら、私のせいだ。
後悔と恐れで震える手を伸ばし、私はちーちゃんの写真の隣にある「こまどり通信」を掴む。
江永さんの緊急連絡先は、確か、自宅のご主人になっていたはず。電話番号を確認すると、受話器を上げて数字ボタンを押した。
早く電話に出て──。
祈るようにして、聞こえてくる音に耳をすませる。
ちーちゃんは、写真の中で「しっかりしなさいよぉ」と笑いかけていた。
「はい、江永です」
八回目の呼出音で、電話が繋がった。
「あの、私、『こまどり色鉛筆絵画教室』の阿久津ちどりです。実は今、静江さんにお越しいただいているのですが、レッスンの途中で具合が悪くなってしまって、少し横になっていただいているんです。ご本人は風邪だとおっしゃるのですが……、あの、何かご病気があるとか……。すぐにでも病院に連れて行く必要があるでしょうか」
声を聞いて、すぐに江永さんの娘の麻里さんだと分かった。
麻里さんは、私がこの家に来た頃には結婚して地元を離れていたけれど、帰省した際には祖母とちーちゃんに挨拶に来ていた。私も何度か会ったことがある。
私が心配ごとを一気に話してしまうと、電話の向こうで「はあ」と、麻里さんは深いため息を漏らした。
「母がご迷惑をおかけして、すみません。持病は関係ないと思います。絵を完成させたいと言って、近頃ずっと根詰めていたから、きっと疲れが出たんです」
「そうでしたか……」
江永さんが心配なことに変わりはないけれど、命に関わる状態でないことが分かり、胸をなでおろす。
「無理をするなと、私がいくら言っても聞かなくて。ほんと、頑固なんだから。先生、申し訳ないのですが、車を借りて迎えに行くので、暫く母をお願いしてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
そう答えると、電話の向こうで少しの間、沈黙が流れた。
「……あの、先生。母はなぜ富士山の絵を早く完成させたいか、話しましたか?」
「いいえ。気になってはいたのですが、まだお話は伺えていなくて」
「やっぱり。きっと先生に心配をかけたくなかったのね」
「どういうことですか?」
「実はね……」
台所に行き、コンロの上に片手鍋を用意する。
台所の吊戸棚を開くと、先週、河瀬商店に行った時に、カワやんが私の買い物かごに放り込んだ葛粉が眠っていた。
「どうするの、これ」
「千鶴さん、寒くなり始めると、毎年それを買ってたんだ。風邪のひきはじめにもいいって、葛湯にしてくれてたろ。買っておいて損はない」
あの時はカワやんに言われるがまま買ってしまったけれど、葛粉を買い物かごに入れてくれたことにも、後から葛湯のレシピをメールで送ってくれたことにも、心の中で感謝する。
葛粉の原料である「葛」の根っこは、風邪のひきはじめに飲む「葛根湯」という漢方薬にも使われているらしい。きっと、今の江永さんにぴったりなものだと思うのだ。
葛粉をスプーン一杯分鍋に入れ、一カップ弱の水を加えて完全に溶かしたら、コンロに火をつけて、木べらで手早くかき混ぜる。
ぐつぐつと煮立ってきたら、蜂蜜を加えて、とろみのついた熱々の液体をスープ用のマグカップに注ぐ。
木製のスプーンを添えて鎌倉彫のお盆の上にのせると、立ち上る湯気がゆったりとワルツを踊り始めた。
ほんのり甘くした飲み物で、どうか温まってほしい。
少しでも、心と身体が癒えるように。
(つづく)
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