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”執着”ではないかを問い続ける
みなと計画の橋本です。
毎月のnoteは、そのとき一番タイムリーな自分の気になることを軸に書いているのですが、7月は軸が定まらずにうだうだしていたらもう8月でした。
それはたぶん、今回軸にしようと思っていることが、自分も含めて人の深いところに触れることであり、無難な表現に逃げずかつコンパクトにまとめる目途がつかなかったからでしょう。
ということで、今回はなんとも厄介な「執着」について向き合ってみました。いつもより少し長めですが、よろしければお付き合いください。
その提案に「あなた」は混入していませんか?
みなと基金にご申請をいただく方の場合は、お話しをお聴きするだけでは解決しないことが多いので、こちらから情報提供や提案をしなければならないこともあります。
そのときに細心の注意を払っているのが「良かれと思って提案」をしていないかどうかです。
「あなたのためを思って」「こうした方が良い」という一見相手の立場で考えているような提案のほとんどは自分自身のエゴが絡んでいて、相手にとっては”余計なお世話”に過ぎないものです。
「良かれ」なのかどうかはこちらが決めることではなく、あくまで相手が判断することなのです。
とはいえ、エゴなのか、単なる情報提供なのかの見極めは非常に難しいです。
壁紙も一緒にはがれるような粘着テープはイヤですよね
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かつて”聴き方”を教わったときに、「べりっとはがしたときに痛みが残るかどうか」がエゴかどうかを判断できるものだというお話しがあり、自分はこれを基準にしています。
つまり、こちらから示した事柄に対して、相手が期待と異なる反応をしたときに「え? なんでそうなるの??」と怒りや呆れ、悲しみ(喜びや嬉しさも同じ)といった感情が湧いたときには、エゴが異物として混入している証拠であり早急に自主回収を行います。
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ここではこの感情を「執着」と呼びます(執着はダークサイドに直結するぜ、とジェダイマスターも警告していたはず)。
あらゆるものにひそむ執着
執着がどんなところにあって、どんな影響を及ぼすのか?
例えば、みなと基金へのご相談では、親の子に対する執着が絡むことが多いと感じています。
子どもの進路に対しての親のアドバイスは、それがどんなものであれ情報提供を通り越しておススメになると執着が生まれている可能性があります。
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細かいところでは日常の食事マナーや礼儀作法、家事のやり方などなど。これらは社会で暮らすために必要なことですが、親のやり方が正解とは限りません。言う通りにしないとイラっときてしまうなど、これも度が過ぎると執着になってしまいます。
この執着が子どもへの呪縛となって、本来持っている自由な判断を阻害し、サポートが上手く届かないことがよくあります。
さらに執着の厄介なところは伝播し複雑化することです。
親から子へ。たどれば親はその親から、子はまたその子へ延々と。
呪詛のように代を重ねてより複雑に重くなっていくようです(ここはさすがに掘り始めると底なしなので今回は見送ります)。
「イラっ」ときたら要注意
では、自分自身はいま接している、あるいは共に働いている若者に対して「執着」を持っていないか?
心を平静に保ち、べりっとはがしても傷まないように意識していますが、執着を感じる場面は多々あります。
例えば、打合せに同席してもらうとき、メモも取らずにただ話しを聞いている様を見るとイラっときます。私の中では、相手のお話しをお聴きするときにはメモを取るのが礼儀だからです。
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メモを取らずに打合せに参加することが無作法というルールがある訳ではないのに、そのように感じてしまい、相手にもそうすべきだと思ってしまうのは執着が生まれている証拠です。
このように執着は至るところにひそみ、いったん現れると「〇〇すべき」と思考を固定化し、視野を狭くし相手との関係性を歪ませていきます。
執着が健全な動機となり得るか?
執着は伝播すると書きましたが、執着の本質を突き詰めると、子ども時代の体験が元になっていることが多いように感じます。
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過去に自分が受けた呪詛やあるいは救えなかった過去の自分を救おうというある種の執着が、行動の強い「動機」にもなります。
そのこと自体を否定はしませんが、そうした原体験に基づく行動は時として度が過ぎてしまい、呪詛となり周囲を苦しめていくことを自戒を込めて思います(ドライバー行動とされているものに近いでしょう)。
最近、NPO界隈の人に対して「自己実現のために社会課題を利用している」「困っている人を助けて自分が気持ちよくなっている」というような指摘が目につきますが、これはなにかしらの原体験→執着→呪詛と化けていくことが背景にあるように感じています。
執着に救いはないのか?
執着や呪詛を浄化するじゅもんは、「昨日ではなく機能」とぶつぶつ唱え、そのことをよく理解することだと思っています。
どんなにもがいても、過去の自分に干渉することはできないのです(デロリアンが実在していれば別ですが)。
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「いまの自分の行動」は、昨日の自分からの呪詛ではなく、いまの自分を取り巻く環境によって必然的に定められたこと(=機能)として切り分けることです。
そのことを理解し、いまの役割を受け入れ全うしようとするとき、執着は自ずと消えるのではないかと思います。
機能としての喜びはあるのか?
ある敬愛するファシリテーターが、ご自身を「はさみ」に例えられていました。
はさみは道具であり、人から選ばれるようなよく切れるはさみであるために自分を高めていくのだと(はさみは自分で紙を切らない、必要とする人が手にとり使うことで機能するものでもある)。
では、よく切れるはさみとして認められることに喜びは感じないのか?と質問をしたところ、「もちろん、はさみとしての矜持はありますよ」(うろ覚えですが)とのことでした。
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なるほどーと当時は思ったものですが、改めてこの言葉に向き合うと、大切な本質が見えるように思います。
手を伸ばしたところにたまたまある道具ぐらいの感覚
願う方へ進んだと共に喜び、過去の自分を見るようだと憤り、よくわかると共感しながら悲しみ、同じ趣味を見つけて楽しくなるような感情は、少なくともみなと計画が若者に向き合う場面にはいらないのです。
相手が求めているのは複雑な過去を持つ「あなた」ではなく、あくまで今の自分を受け止めてくれる「機能」だということを忘れないことです。
背中を掻くためにこの「孫の手」を必ず使わなければならない訳ではなく(それがベストだとしても)、他の方法で用が足りることもあるのです。
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※ちなみにその逆(機能として相手を見ること)をとくに共に働く若者に求めないことは超重要です(多忙になると見失いがち……)。
ストイック過ぎやしないか?
恐らく、それをストイックと感じながら実践すると「執着」を生むでしょう。
呼吸をするように自然とそれが出来るようになれば、ここまで書いてきたことと矛盾するようですが、その積み重ねの先に行き着くところにこそ、過去の自分への救いがあり、代々受け継いできた呪詛の浄化にもなるのだろうと思います。
終着。