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出発、進行【ショート小説】
東京・竹芝桟橋を出てから、どのくらい経っただろう。
私は、小笠原諸島へと向かう船に乗っていた。片道二十四時間かけた船旅。
世界遺産にもなり、いつか行ってみたかったが、叶わぬままだった。
よし、行くか。
新卒から二十年勤めた会社を辞めた日、いちばんに決めたことだった。
海の上は、携帯電話の電波が入らない。聞いてはいたが、これが思った以上にしんどい。
デジタルデトックス。
自分に言い聞かせるが、独りでこの時間を過ごすのはやはり辛い……なら、飲むしかないじゃない。
デッキに出て、風に当たる。
なにも遮るものがない太陽は、いつもよりオレンジ色を濃くして、平たい海へと落ちていく。
船内の売店で買った、小笠原レモンの瓶チューハイを開けた。
爽やかな炭酸が鼻に抜ける。なんだか、叫び出したい気分だった。
「初めてですか、小笠原」
振り向くと、男性が立っていた。
褐色の肌に、白いTシャツが映えている。手には同じく、小笠原レモンの瓶チューハイ。
「そうです、初めてで。もう、スマホ使えないし、飲むしかないなと」
「はは、じゃあ僕と一緒だ」
「私、いろいろあって先月会社を辞めて、やっと長く旅行ができるようになったんで」
酔ったのか、つい余計なことを口走った。
「おぉ。そうなんですね。じゃあ、今日が本当の意味での、船出だ」
男はそういって、屈託なく笑った。そんなこと、思いも寄らなかった。
「僕は、小見山っていいます。あっち着いてからも、会うことあったらよろしく」
それから二人で小さく乾杯をして、瓶チューハイが空になるまでの短い時間を過ごした。
男と別れて、船内の自室に戻る。狭いベッドに横になり、ぼうっと考えていた。
なにかをひとつ捨てれば、新しいものがひとつ、やってくる。
誰かの言葉だけど、私のこれからの人生、まだまだいろいろなことが、起こってくれるのかもしれない。
目を瞑ると、自分の身体が波打っているのが、はっきりと分かった。
了