知っていくこと

医院は実家の近く。
駐車場に車を停めると、少し離れたところに実家近くの商店の車が停まっている。
昔から我が家はそこにお世話になっていたし未だ母とも交流があるその商店。
ということは、その商店の人が今、受診をしているということだ。
わたしが医院へ入り受付で母の名前とさっき電話した旨を伝えたとする。
この医院の間取りはわからないけれど待合と近かったら。その商店の方と会うことになったら。母の名前で気づかれたら。何事だと思われはしないだろうか。
わたしのこの勝手な判断で、母についてのよからぬ噂話が飛び交いはしないだろうか。
少し考えて途中のコンビニで買ったコーヒーを飲む。
その時間に出てきてくれれば良いけど。まあそんな思い通りにことは進まないだろうからしょうがない。医院へ入ることにする。

案の定、受付と待合は至近距離。一応、注意を払い囁き女将のように受付の人に囁くと、受付の人もつられるように囁いてくれた。
商店の人はちょうどトイレに入っていたようだった。
ターバンを巻いた頭でマスクをしていればわたしだということはわからないだろう。ホッとした。

母の名前を呼ばれて診察室へ入る。
先生には受付の人からある程度電話でのやりとりが報告されていたからスムーズに相談することができた。
先生の聞き取りに母の夫から聞いた日常を全て書き留めた手帳を出し説明をする。その後、先生が電子カルテを開いて受診時の母の状況を確認する。
モニターに認知症の中核症状と周辺症状の図を示して説明をしてくれる。
が、先生がわたしの囁き女将よりもっと声が小さい。肝心要が聞こえない。
あまりに小さい。それをよそにスラスラと先生が説明を始める。
先生、腹から声出してくれと思うけど以心伝心とはもちろんならない。

漸く、先生のボリュームに耳が慣れて聞き取れるようになった。
むしろ、クラシックでも堪能するかのように目を閉じ、全感覚を耳に集中させなければならないのか。鬼滅かよと頭の中で思ってたから何よりだった。
聞こえないながらも先生が説明している時にモニターの図を指差していたのをみていたことと聞こえるようになったことを整理すると、認知症の中核症状より周辺症状が生活していく上で不便があること。母はその症状が出ていると推測できること。受診の記録を見ると先生もそれと合点する部分があると思うから一度検査してみた方がいいということだった。

「とてもプライドが高くて、認知症の診察に行こうなんて素直に聞いてくれないと思うんです…」恥ずかしながら先生に話をした。
「お母さんも歳とってきたからちょっと検査でもしてみようと、軽い感じで言えばいいんですよ」
最も簡単に小さい声でそう話してくれる先生には妙に説得力があった。
「その時には、娘さんもまた一緒にいらした方がいいです」

その足で実家へ向かう。
リビングで出されたコーヒーを飲みながらいると、母がまた裏切りの話をする。
火がついたように。その話は止まらないどころか、徐々に燃え上がったようにバチバチと高く沸くように声も大きく興奮しているように見える。顔つきが目の周りがその輪郭がとても暗い。
「お母さん、ちょっと今度検査行ってみない?わたしもひとまず落ち着いたし」
幸いなことに母が通っている医院はわたしが伺ったところしかないから検査するとしたらその医院にいくことになる。
きっかけがないと検査とかってなかなかしないからちょっと行ってみよう。と付け加えた。
「どうして?」と聞かれたが、それは流しすぐ母の予定とわたしの予定をすり合わせて日にちを決めた。わかったと、母は手帳に書き留めていた。

今日、母に検査の提案はしないようにしようと思っていた。
先生からの話を一度持ち帰って自分で咀嚼したかったし、感情も少なからず落ち着かせる必要があるはずだった。
でも、母の表情を見た時途轍もない不安を感じてしまった。
気づかれないように、ゆっくりはっきり努めて冷静に提案できたと思う。

よし、これで一歩。
何もなかったらそれでいい。何よりだ。でも何かあったら。
何かあったら、それに対応できる。何より。わからないままそのままにしているより知った方がいい。
知らなかった方がよかったことだったら知った後修正すればいい。
でも、知らなかった方がよかったと思えるのはそれを知ったから判断できること。まず、知らなければ。



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