【短歌&小さな物語】「刑事コロンボ」
わたしにとって「倒叙ミステリ」と言えば、やっぱり『刑事コロンボ』シリーズだ。
子供の時、両親と一緒にこのアメリカのテレビ映画シリーズを観て以来、すっかりその魅力にはまってしまった。
冒頭、いきなり犯人の殺人シーンが描かれる。
そう、犯人は最初からわかっているのだ。最後に真犯人がわかる普通のミステリとは順序が逆だから「倒叙ミステリ」、あるいは「アリバイ崩しミステリ」という。当時はもちろん、そんな言葉は知らなかったけれど、わたしの目に、この作品はひどく新鮮に映った。
『刑事コロンボ』の犯人たちは皆、社会的地位の高い人たち。服装もぱりっとしているし、立ち居振る舞いも、いかにもセレブらしく上品で知的。
それに引きかえ――
コロンボ刑事の風采の上がらないことと言ったら!
いつもよれよれのレインコートに身を包んでいる。しかも、小男。
安物の葉巻をふかし、目つきも斜視ぎみで(後で知ったところによれば、主演のピーター・フォークの右目が義眼だったせいらしい)、なんだかあやしい雰囲気。
しかも口を開けば、「うちのカミさんが……」とか「うちの姪っ子がね……」と妙な話を始める。
子供心にも、このコロンボとかいうおじさんはダメだろうと思った。犯人にしてやられるに決まってる。だって、勝てそうな要素がどこにもないじゃない?
相手が刑事ということで最初は緊張していた犯人も、やがてコロンボを軽んじ始める。ただそこは教養あるセレブなので、内心変な小男のおしゃべりに辟易しつつも、表面上はあくまで上品且つ紳士的に、「そろそろお引き取り願えますかな」みたいなことを言う。
「これはお邪魔しました。カミさんにもよく怒られるんですよ、あたしゃ話が長いってね……」猶もぶつぶつ言いながら、すごすごと玄関の方へ向かうコロンボ――
犯人の顔に思わず浮かぶ安堵の表情。この瞬間なのだ、コロンボがいきなり振り返り、名セリフを口にするのは。
――「あと一つだけ」
いらいらした表情が顔に浮かぶのを必死に抑え、無理に微笑んでみせる犯人。
しかし、この「あと一つだけ」の質問は、今までくだらないおしゃべりをしていた人物の口から出た言葉とは思えないほどの鋭さで、犯人に突き刺さるのだ。
コロンボはしつこく、何度も犯人を訪ねてくる。次第に追いつめられていく犯人。本当は怒鳴り出したい気持ちを抑え、にこやかに振る舞う姿が痛々しい。「これは、これはコロンボ警部! またお目にかかりましたな!」――教養あるセレブも辛いのである。
このドラマの見どころは、コロンボと犯人の心理戦にある。ここまで読んで、「あれ、古畑任三郎に似ているぞ」と思った方がおられるかもしれないが、実は話は逆で、脚本家の三谷幸喜が「和製コロンボを創ろう」として生み出したのが古畑任三郎なのである。
ただ、コロンボの生みの親・リチャード・レビンソンとウィリアム・リンクも、完全にゼロからコロンボを生み出したわけではない。ドストエフスキーの『罪と罰』に、主人公・ラスコーリニコフを追いつめるペトローヴィチという判事が出てくるが、このペトローヴィチを元に創作されたのがコロンボというキャラクターだったのだ(これは本当の話)。
『刑事コロンボ』シリーズで印象的なのはラストだ。鉄壁なアリバイをコロンボに突き崩された犯人は、見苦しく暴れまわったりしない。試合に負けたスポーツ選手が勝者を讃えるように潔く負けを認め、静かに退場する。コロンボの犯人には、手錠は要らないのだ。
ただ、コロンボが犯人を自白に追い込む方法は、今思うと問題のある場合もあった。有名なのは『ロンドンの傘』で、コロンボの手法は明らかに証拠の捏造である。犯人が潔すぎるので事件解決ということになっているが、そうでなければコロンボが逆に訴えられているところだ。まあ、細かいところを気にするのはやめよう。
シリーズ中、わたしが一番好きなのは、やっぱり『構想の死角』。
コンビでミステリを書いている作家。その内実は、一人が執筆担当、もう一人が渉外担当だった。執筆担当・フェリスがコンビ解消を宣言したため、実は自分では何も書けない渉外担当・フランクリンがフェリスを殺害してしまうというストーリー。
『刑事コロンボ』シリーズには複数の監督と脚本家が参加しているのだが、この『構想の死角』を監督したのは、あのスティーブン・スピルバーグである。
スピルバーグが監督を務めたのは本作だけで、「コロンボシリーズ」全69話の中でも伝説の回になっている。