【読書記録】日常生活の中の遍路「内澤旬子の島へんろの記」
四国のわだちがある遍路とは違う、小豆島の遍路みち。
ほぼ廃墟だったり、イノシシに道を掘り返されていたり、ほぼ洞窟だったり、いやここ誰かの庭だろって道があったり、景色はカラフルに刺激的に変化する。
忙しい日常の合間をぬっての、車と歩きを使って長い月日で分割した巡礼の旅。豪快に休みと金を使った旅行記と違って、多くの人にマネできそう。小豆島に行かなくても、知ってるはずの地元の道をていねいに歩くだけで、発見はあるはずだ。
内澤さんの過去作を振り返ると、動物の解体をポップにまとめる「世界屠畜紀行」
人生に未練はないのに体は健康になっていく闘病記「身体のいいなり」と、他にない手ざわりのエッセイを手掛けていた。
その後は小豆島に移住し、ヤギを世話して生活しているところに、ストーカーに狙われて、そのときのトラウマが癒えていないまま、小豆島の遍路に出る。
経歴だけ見ると破天荒なのに、文章やインタビューの言葉はごく一般的。
「テルマエ・ロマエ」のヤマザキマリさんにも似たものを感じる。
ふつうの感性を持ちながら、言うべきところでは何かを言ってくれそうな、そんな期待をしてしまう人。
信仰心はない。祈りや他者によりかかることに距離を置いて生きてきた。
祈っていないのに病気から快復し、(身体のいいなり)その後、生きたいと祈っていた友人をがんでなくした。
それまではドライな死生観だったのに、今回にかぎって、歩きながら突然涙がこぼれるぐらい、違った。
自分自身もストーカー被害にあい、勝訴したものの大変な恐怖と苦労を見て、加害者の「治療」もできず、軽い対人恐怖のような状態が続いている。
祈り、宗教、他人はひとを助けてくれるけど、どうしようもないこともある。
その内澤さんが、旅をしながら、小豆島にすむことで助けてくれた人たちや、ここ数年のつらかった出来事、大切な人たちとの出会いを振り返る。
参拝のしかたがあやふやだったり、「ボヘミアン・ラプソディ」でテンションが上がっていたり、歩きながらエピソードが小出しに出てくる構成は、まるで一緒に歩きながら話しているようだ。
クライマックスといっていい終盤。
祈りが健康な体にしてくれると説法していた住職が、「癌にも・・・」と、癌に言及したところで、耐えられずにさえぎるシーンがある。
祈りで救われる大勢のひとがいる。わかってる。でも、ここでうんうん聞き流してしまったら、祈っても祈っても癌で生きられなかった友人はどう思うだろう。
はっとした表情の住職。
静かに張り詰めた空気の中で、心の底にしまいこんでいたものが涙といっしょに溢れてくる。
「祈り」を肯定も否定もしない巡礼の旅が成立して、はじめる前と後では確実になにかが変わっている。あとがきで、最初からアドバイスしてくれた住職が、これが現代の遍路です、と認めてくれるのが嬉しい。
前に読んだのはこちら。担当した出版社の方に喜んでもらえて嬉しかったやつ。
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読んでくれてありがとうございます。 これを書いている2020年6月13日の南光裕からお礼を言います。