90をこえて、桐野夏生の残酷な小説を読んだばあちゃん、その葬儀
花村萬月の小説には、老眼になって「たかが読書がおっくうになるんだよ」と若い主人公にぐちる男が出てくる。
浅田次郎のエッセイには、麻雀パイを見間違えてチョンボして、眼科で老眼を宣告されて落ち込む作者の姿がある。
渡辺謙が、日本の文字は小さすぎて見えなあああああい!とハズキルーペのCMで怒っていたのは、単に文字が小さいだけじゃなくて、まだ人生は長いのに、世間が自分を無視している感じ、これから一生、起きてる間じゅうやる「見る」ことがストレスになる世代の怒りを代弁している。
まだ気持ちは若いのに、世の中のもの全てが、「お前に向けてできてないんだよ」とあざ笑っているように感じるのかな。
怖い。
楽しいはずのものがあふれているのに、楽しめない心や体になっていくのが怖い。
ところで、両親の読書量が増えている。
父がブックオフで浅田次郎の分厚い中国歴史小説を買い込んだ。
若いころ文学少女だったらしい母は、いつも誰かのエッセイを読むか数独をといている。
基本的に、問われない限り感想を言い合ったりしないけど、浅田次郎の「天国までの百マイル」だけ号泣していた。
心臓が悪い母を病院まで車に乗せていく話で、ほとんど同じ経験をしていたからだ。
そんなに会話しない家族が、それぞれのルートで浅田次郎にたどりついた。
去年亡くなったばあちゃんは、他の家族が読み終えた本に巨大なメガネや虫メガネをかざして読んでいた。
その中で一冊、桐野夏生の「柔らかな頬」だったと思うんだけど、それだけは途中で読むのをやめていた。
死体とか気持ち悪くてよう読まん、と言った。
びびった。
読書中も静かだし誰にも感想を言わないから、話を理解しているのかどうか謎だったのだ。
「孫が見ているテレビを後ろから見ているけど、やり取りの意味までは理解してない」
ぐらいのぼんやりした見かたかと思ったら、ちゃんと話を理解している。
そのことが嬉しかった。
じゃあ、おれは90歳こえてもミステリーを楽しめる人の遺伝子を持っているのか。
世界には面白いものがたくさんあるのに、そう遠くないうちに老眼、物忘れ、金欠、流行についていけなかったり気分が乗らなかったり・・・楽しいもののほとんどを知らないまま死んでいくと思っていたけど、当分はいろんな楽しみにふれて生きていけるかもしれない。まだ、だいじょうぶそうだ。いろいろと。
ばあちゃんの読書感想文があるとしたら、
桐野夏生は気持ちわるうてよう読まん
棺桶には、長年つけていて、もはや資料的価値が発生しそうな大相撲の番付をどっさり入れた。親族があつまり、なかにはばあちゃんの弟もいたので、泣いたりしたらつらいなあ、と、実はそのことで葬儀に行く前はゆううつだったけど、みんな割と平気で、90こえたらそりゃ死ぬやろ、ぐらいのことを言っていた。その場のみんなが、ばあちゃんの年齢を正確に言えないことに、また少し笑った。