第8章 見逃していた新聞記事
2024年11月8日、北海道新聞釧路版に「服部良一さん 啄木と縁 笠置シヅ子さんと一緒に来釧」という記事が載った。笠置シヅ子来釧の謎に関する続報である。
この記事が掲載される前に、執筆した佐竹直子記者から連絡をもらっていた。1953年7月15日の道新釧路版に「啄木の函館の詩『馬車の中』を作曲 啄木碑前に近江ジンさんを囲んで 服部良一氏初めて明す」という記事を釧路在住の書道家、安部清堂さんが見つけたという。1953年7月に釧路で「服部良一作曲2000曲達成記念公演」が行われたことは、私が新聞記事を探して明らかにしていたが、この記事は気付いていなかった。佐竹さんも気付いておらず、安部さんに連絡を受けて驚いたという。
「第5章 笠置シヅ子は釧路に来ていた」において、近江ジンを笠置シヅ子や淡谷のり子、服部良一たちが囲む、あの写真は1953年7月14日に撮影されたと推測していた。今回、安部さんが発見した記事には、「十四日の昼下り、港を一望にできる丘―釧路市米町児童公園―にある啄木歌碑前に、かつての啄木の恋人小奴こと近江ジンさん(61)を囲んで、公園のため来釧した作曲家服部良一氏夫妻と渡辺はま子、笠置シズ子、淡谷のり子さんらが往時を偲んでたたずんでいた」とある。やはり、一行が近江ジンを尋ねたのは7月14日だったのだ。
忙しい公演の合間に近江ジンを尋ねていったのはなぜか。記事には、その理由も書かれている。1926年(大正15)、まだ18歳だった服部良一が啄木作詞の『馬車の中』に曲をつけた。そして、2000曲のうち、この曲だけはレコード化もせずに残している。啄木に思い入れがあり、はじめての北海道訪問でもあった服部良一が歌碑を見ることと近江ジンに会うことを望んだらしい。笠置シヅ子や淡谷のり子はその相伴をしたようだ。
服部良一『ぼくの音楽人生 エピソードでつづる和製ジャズ・ソング史』(1982年)によると、『馬車の中』は1944年に伊藤久男が歌ったらしい。しかし、1953年の時点でレコード化されていないし、その後もレコード化された形跡がない。だが、1953年に放送されたという証言もある(雑誌『詩学』1953年5月号)。佐竹記者がいま、譜面だけでも手に入らないかと探索中である。
1953年の道新釧路版の記事を見るために、この夏、釧路市中央図書館にまで出かけたのに、肝心の記事を見逃していた。記事の探索力が落ちているのかもしれない。気付いてくださった安部さんに感謝している。2024年12月から道立図書館所蔵の道新地方版マイクロフィルムが閲覧できるようになるので、私も引き続き調査する。
※タイトル画像は『石川啄木抒情詩集』(佐藤寛編、紅玉堂書店、1926年)より。