山本竜也
ブギの女王、笠置シヅ子は釧路に来たのか?
北海道で地方史研究。
1953年7月14日に釧路東宝で「服部良一作曲2000曲達成記念公演」が開催された。1回目10時~13時半、2回目14時半~18時、3回目19時~21時半と3回もの興行が行われる慌ただしい日であったが、その合間に、服部良一らが米町の石川啄木歌碑に足を延ばした。かつての啄木の恋人、近江ジンを囲んで笠置シヅ子・服部良一らが撮影した写真が市内の寺に残っている。それを報じた2024年5月29日の道新記事をきっかけにこれまで調べてきた結果、来釧の日付も理由も明らかになった。また、当時
2024年11月8日、北海道新聞釧路版に「服部良一さん 啄木と縁 笠置シヅ子さんと一緒に来釧」という記事が載った。笠置シヅ子来釧の謎に関する続報である。 この記事が掲載される前に、執筆した佐竹直子記者から連絡をもらっていた。1953年7月15日の道新釧路版に「啄木の函館の詩『馬車の中』を作曲 啄木碑前に近江ジンさんを囲んで 服部良一氏初めて明す」という記事を釧路在住の書道家、安部清堂さんが見つけたという。1953年7月に釧路で「服部良一作曲2000曲達成記念公演」が行
2006年4月、私は宮城県から北海道寿都町に転勤した。寿都は北海道南西部に位置する海沿いの町で、明治から大正にかけてニシン漁で栄えたが、私が赴任したときには、人口は4000人を割り込み、繁栄は過去のものとなっていた。そんな町の歴史に私は興味を持ち、お年寄りに昔話を聞いたり、資料を調べたりするようになった。そして出会ったのが掛川源一郎さんの写真集『gen』(2004年)である。 『gen』には、寿都の写真が4枚載っている。 1枚目は寿都小学校運動会の後片付けを写す。この
『岩内町郷土館蔵 簗瀬家文書 簗瀬真精書簡集 独見集』が送られてきた。編著者の見野久幸さんは北海道方言や余市・岩内の歴史を在野で研究してきた方で、小著『地方史のつむぎ方』にも登場していただいた。歳をとって、足を使う方言研究は難しくなり、いまは古文書の翻刻が中心になっているとおっしゃっていた。そのとき、例に挙げていた初代岩内古宇郡長の簗瀬真精が残した『独見集』の翻刻がとうとう終わったのだ。 そもそも簗瀬真精とは誰か。1838年(天保9)に岩代国(今の福島県西部)に生まれた
笠置シヅ子来釧の謎を追うことを知る弟から連絡が来た。1953年に笠置シヅ子が札幌に来た証拠がヤフーオークションに出品されているという。 教えられたリンク先を見ると、笠置シヅ子が服部良一や淡谷のり子たちと写真におさまり、皆のサインが加えられている。1953年7月11日と日付も入っている。出品者は札幌の古書店である。説明文によると、明日待子(須貝とし子)が経営する札幌劇場の地下食堂「キッチン・アシタ」の開店祝いに、一行が駆けつけたのだという。明日待子のほか、服部良一の妻、
2024年8月13日付の北海道新聞の女性専用投稿欄「いずみ」に目が止まった。投稿者は札幌市の71歳の女性である。「お盆が近くなり朝仕事を終えた祖父は、家に入るなり『あのシンビラビィが見えないのか』と、あきれたように言うのが口癖でした」と始まる。その植物は畑一面に赤茶色の芽を出し、はうように広がり、黄色の花を咲かせる。砂粒のような種を拡散させるため、取っても取っても、なくならないという。本当の名はスベリヒユ。祖父が亡くなって50年が過ぎたが、なぜシンビラビィと呼んでいたのか分
9月12日(木)に「本気で文化を楽しむ人の夜会」のゲストに呼んでいただきました。「身近な歴史の調べ方教えます ~ ファミリーヒストリーから郷土史まで」と題してお話します。参加費4500円ですが、美味しいご飯とサッポロクラシック飲み放題です。 主催者の案内を以下に貼っておきます。申し込みはリンク先からお願いします。https://www.facebook.com/groups/667006481613289 本気で文化を楽しむ人の夜会 9月12日(木)「本気で文化を楽
1.1952年にも来ていた? 1953年に笠置シヅ子が服部良一、淡谷のり子、渡辺はま子らと釧路公演に来ていたことを明らかにしたが、その前年にも来ていた可能性があることが分かった。札幌市図書・情報館で道新の過去記事を調べていたところ、1952年4月14日付の紙面に「芸能人続々と来演 絢爛豪華な春の訪れ」という見出しを見つけた。「雪に埋もれた半年の間にも、モンブラン氏、ジョワ女史の演奏会や人気絶頂のスウィング歌手江利チエミの公演など芸能人の来道は断続的に行われてきたが、春の訪
北海道最後のプロの砂金掘りがいた。辻秀雄さんという。1908年に十勝の忠類村に生まれ、京都の鉄工場を皮切りに職業を転々とし、1930年から道内で砂金を掘るようになった。最後は歴舟川のそばに小屋を建て、1972年まで砂金で生計を立てていた。明治以前から昭和初期までは砂金で生活する人も珍しくなかったが、年月をへて資源は減少し、また経済成長とともに、割に合う仕事ではなくなった。最後の砂金掘りは珍しがられ、メディアに何度も取り上げられた。いま、芽室町に住む加藤公夫さんは若い頃、テレ
1.これまでの調査 「笠置シヅ子は釧路に来たのか?」から4回連続で、笠置シヅ子来釧の謎を追ってきた。しかし、来釧の決定的な証拠を掴めてはいない。前回の記事「続々々 笠置シヅ子は釧路に来たのか?」では、1953年7月に服部良一、淡谷のり子、渡辺はま子、灰田勝彦らと北海道に来たこと、函館、遠軽、札幌で公演したことを明らかにした。私の調査のきっかけとなった2024年5月29日付の北海道新聞釧路版で紹介された写真の面々が揃っていることから、このときこそ釧路に来たに違いないと考えた
1.釧路市図書館からの返答 「続々 笠置シヅ子は釧路に来たのか?」では、笠置シヅ子が1948年7月に小樽電気館、奔別炭鉱、札幌東宝、函館公劇で公演していたことを明らかにした。そして、足取りが不明となっている18日から26日のどこかで釧路に来ていたのではないかと推測し、釧路市図書館に所蔵新聞の調査を依頼した。 その返答がやってきた。7月の北海道新聞釧路版のうち、1日~12日、18~19日、24日、31日を所蔵しておらず、また、所蔵している範囲では、笠置シヅ子に関連するのは
1.国会図書館デジタルコレクション 1949年に笠置シヅ子が釧路で書いたとされるサインが釧路の蕎麦店に残っている。東かがわ市歴史民俗資料館によると、この年に笠置シヅ子が北海道で公演した記録はないという。しかし、北海道新聞で笠置シヅ子の足取りを追うと、小樽、札幌、旭川、函館で公演したことが分かった。ただ、釧路に来た証拠は見つからない。そこで、ほかの年の可能性をさぐってみたい。 国会図書館デジタルコレクションの全文検索機能が拡充され、調べ物が飛躍的に便利になった。ただ、その
1.道新釧路版に続報 2024年6月26日付の北海道新聞釧路版に「笠置シヅ子さん来釧の謎たどると ブギの女王『公演見た』続々」という記事が出た。執筆した佐竹直子記者から連絡を受け、さっそくデジタル版を確認した。5月29日付の記事に対する地元の反響は大きく、「見た」「聞いた」という情報が集まっている。浜中町の種市京子さん(89)は十條製紙(現日本製紙)の「娯楽場」の外で笠置シヅ子の歌を聞いた、釧路市の松葉憲二さん(90)は娯楽場での公演を見たと話している。それを裏付ける資料
小林昌樹さんから新刊『もっと調べる技術 国会図書館秘伝のレファレンス・チップス2』(皓星社)をいただいた。 2022年に出版された前著『調べる技術 国会図書館秘伝のレファレンス・チップス』は8刷3万部のベストセラーになったそうである(うらやましい)。小林さんのことは、荒木優太さんの『在野研究ビギナーズ』(2019年)で、国会図書館の内実や使い方を語る人として知った。その後、『調べる技術』が発売され、私ももちろん買った。同書では、とくに第6講「明治期からの新聞記事を「合理
1.気になる記事 2024年5月29日付の北海道新聞釧路版に「笠置シヅ子さん来釧の謎」という記事が出た。1949年に釧路市の老舗蕎麦店「竹老園東家総本家」で書いたとされるサイン、1950年に近江ジン(石川啄木と懇意だった釧路の元芸者)を囲んで撮影した写真が残っているが、どちらの年も釧路での公演記録がないという。1948年に「東京ブギウギ」を発売した笠置シヅ子は当時、人気絶頂期にあった。東かがわ市歴史民俗資料館の調査では、1949年については釧路どころか、北海道での公演記録
『地方史のつむぎ方』刊行記念のトークイベントを計画したスタッフ一同には一抹の不安がありました。4月26日の前日打ち合わせでは、その話題が何度も登場しました。「お客さん、どのくらい来るんだろうね?」。 「チラシをメールや郵送で送って、15人ほどから行くと返信がありました」と私。「数人の知り合いは来てくれる」と司会の東田秀美さん。「両親と友達で3人は来ます」と尚学社社長の苧野圭太さん。合わせれば、最低でも20人くらいにはなるか。しかし、チラシやSNSなどで募集していた事前質