第9章 石川啄木と服部良一
1953年7月14日に釧路東宝で「服部良一作曲2000曲達成記念公演」が開催された。1回目10時~13時半、2回目14時半~18時、3回目19時~21時半と3回もの興行が行われる慌ただしい日であったが、その合間に、服部良一らが米町の石川啄木歌碑に足を延ばした。かつての啄木の恋人、近江ジンを囲んで笠置シヅ子・服部良一らが撮影した写真が市内の寺に残っている。それを報じた2024年5月29日の道新記事をきっかけにこれまで調べてきた結果、来釧の日付も理由も明らかになった。また、当時の新聞記事や雑誌記事によって、服部良一が啄木に関心を抱いていたこと、啄木の「馬車の中」に曲をつけていたことも分かった。
しかし、現在、インターネットで検索しても、服部良一が啄木の歌を好んでいたことなどは、まったく出てこない。ヒットするのは、笠置シヅ子来釧の謎を追う、道新の佐竹直子記者の記事と私のnoteの記事だけである。服部良一の自伝『ぼくの音楽人生 エピソードでつづる和製ジャズ・ソング史』(1982年)の本文にも啄木は登場しない。巻末の主要作品リストのなかに、1944年に啄木の「馬車の中」を作曲、伊藤久男が歌ったとあるだけだ。
啄木を好きだったとしても、どの程度のものだったのだろう。国会図書館デジタルコレクションや各新聞検索で、「服部良一 啄木」で検索してみた。とくに国会図書館デジタルコレクションでは、いろいろとヒットはするのだが、おなじ雑誌のなかにたまたま両者が出ている、というものが多く、直接結びつく資料はほとんど見当たらなかった。それでも、わずかながら見つかった資料を紹介する。
まずは、『音楽の友』1967年12月号である。「現代人と流行歌」というタイトルで、俳人の楠本憲吉、作曲家の浜口庫之助、音楽評論家の安倍寧と服部良一が座談会を行っている。そのなかで、服部良一が啄木について語っている。
「石川啄木の歌集なんですけれども、ぼくはずいぶん前から作曲を試みました。その中に馬車の中で、自分のお母さんに似た人に会いまして、啄木が、なんかやさしいことばで……「縞目もわかず」。着物の縞目もわからずという。これうたってみると、「シラミもわかず」(笑)どうしてもそこになると、抵抗を感じちゃうんですよ。しかし、これは直すわけにいきませんよね、そういうことばに対する抵抗がいたるところに出てくるんです。わかるだろうかなって。それにわからせるメロディというのが、もうないんですよ。日本のことばというのは大体、メロディというものがあるということを考えないで作られたものが、ぼくは多いと思うんです」
「馬車の中」がレコード化されていない理由を1953年7月15日付の北海道新聞釧路版では「藤原義江さんのようなテノール歌手に歌ってもらいたいと、たったひとつだけレコードにも吹き込まず残してある作品なのです」と語っている。こちらの座談会での話しぶりでは、メロディをつけても言葉が分かりにくいという理由もあったようだ。
また、1985年12月17日付の朝日新聞に国語学者の金田一春彦が「啄木の恩恵」というエッセイを寄稿している。10年ほど前、つまり1975年頃にフジテレビで有名人の歌のコンクールが行われ、金田一春彦が一等賞をとって、服部良一から賞状を受けたという。
「私はそのあと他のパーティで服部さんに会い、そのお礼を述べた。その時の服部さんの言葉がよかった。大抵ならば「あなたの歌が上手だったから」というところではないか。服部さんは「私は昔から啄木のファンだった。石川啄木と言えば何と言っても金田一京助さんだからねえ」と言うのである」
金田一春彦の父、京助と啄木は昔なじみで、カネにまつわる因縁もよく知られている。もちろん服部良一も重々承知の上で、このような冗談を飛ばしたのであろう。
1994年4月15日付の北海道新聞にも、金田一春彦がこの思い出をより詳しく書いている。母の静江が「何よ、石川さんという人は。あの人のために私の着物はみんななくなってしまって、私は女学校の同窓会があっても、行けなかった」とこぼすのを聞きながら育った春彦は「石川啄木という人は石川五右衛門の弟か」と思っていたという。しかし、後年、京助は啄木の思い出の随筆を書いたり、啄木に関する講演をしたりして、だいぶ収入を得たので、善根の報いとなった。春彦もフジテレビで「波浮の港」「リンデンバウム」を歌って一等賞に輝き、審査委員長の服部良一から盾をもらった。後日の落ちは朝日掲載のエッセイと同じである。
また、「馬車の中」ではないが、「口笛吹きぬ」という啄木の詩を服部良一が編曲した記録がある。1943年に浅野千鶴子が歌い、コロムビアでレコード化された。国会図書館デジタルコレクションで公開されているが、れきおん参加館でしか聞けないので、私は未聴である。
これまでのところに見つかった石川啄木と服部良一を結びつける資料はこの程度である。服部良一が啄木を好きだったことはたしかだが、それを示す資料は少ない。引き続き探索に努める。
※タイトル画像は『音楽の友』1967年12月号より。