分かられたくない私と無神経な赤の他人について

悲しい出来事があり、落ち込んでいる。

そう言った私に対して、

「そう?楽しく過ごしてるように見えるけどww」

そう返す人がいた。

相手は気心の知れた友人だった。

私はこう言われたことにショックを受けた。いくつか分けて感情を整理していく。

まず、楽しく過ごせているように見えていてよかったと思った。

それは、常に不幸を身に纏っていても、周囲を不快にさせるだけだと分かっているから。

無理に明るく振る舞う必要はないと私は思う。

だけど無用な心配をかけないために気をつけることは、大切な周囲の人のためになると思う。ひいては自分のためにもなる。

だから目の前のことに集中する。楽しむ。抱える悲しみとは全くの別物だ、そう意識する。

そして、それとは別に私は悲しみを抱えている。

そのことは、並々に注がれたコップから水が溢れるように、特定の相手を前にするとこぼれ出てくる。

否、意識の下でこぼしている。

自分がどんな人間になりたいのか、

それは“周囲からどんなふうに見られたいのか”ということで、

さらに言えば“特定の誰かからどう見られたいのか”である。

その自分プログラムを少しずつ調整して、

見せる角度によって相手の目に映る自分の形を変えている。

その調整は、慎重に行っている。

「そう?楽しく過ごしてるように見えるけどww」

そう返す人がいた。

相手は気心の知れた友人だった。

そのため、上記の出来事は私の角度調整の成功とも言えるし、

大失敗とも言える。

見て欲しいと思う自分を、素直に見てくれる人は少ない。

見て欲しい自分を、実際に見せることもまた簡単ではない。

そして何より、見せる相手を選別している自分が果たして本当に正しいのか

一方的に心を許す自分に対して、果たして友人はどんな感情と意識を持っているのか。友人と私の間に、私の求めるリレーションシップはあるのか。

相手は自分をどう思っているのか。


冒頭の会話を経て、自分の認識を改めた。

会話をする上で、相手の返答をある程度予測して自分のターンを回している。

予想通りの返答でなかった時、私は

相手との関係性を見極め違えた

のだ。

会話における返答は、予測とはいうものの、そこには

自分の一方的な理想と希望の押し付けが含まれている。

それを汲み取って進む会話が、私は好きだ。

それには高度な心情の読み取り作法が必要になるし、

誰しもが意識して大切に思っていることではないことを、

理解しておく必要がある。だって、欲しい答えをねだるのは、会話の上で1番のタブー。エゴイズムだから。

だから私は、友人に少し失望した後、友人にはなんの落ち度もないことを思い出して、自分に失望している。

友人との距離感の認識を改め、身の振り方を考える。

この人に自分はどう見られたいのか、プログラムを書き直す。

そうしてバージョンアップした自分でなら、別の自分として新たに関係を築くことができる。

これからは、彼の前では水をこぼさない。

彼が見た私で、私を形作る。

そうしてようやく、私は全てのことに納得して、

怒りも、悲しみも、期待も失望も忘れて、

自分自身に返って来られる。

こうやって物事を一つひとつ考えて、ようやくなんとか落ち着けているのだ。心とか、頭とか、全部を。

そしてこの面倒な私を、理解し、私が見て欲しい私だけを見てくれる、

そんな人が現れたら

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