「自然」を定義しよう
いわゆる「自然体験」に違和感を抱くことが多いのですが、それについて言葉にしたことはあまりなかったので頑張って書いてみます。
自然を体験するとは
自然体験を語るにあたっては、自然体験とは何かを定義しておかなければなりません。文部科学省が表明しているので引用します。
自然、すなわち人工的ではない環境で行われる、人工的ではないモノを取り扱う活動の総称とも言えそうですね。この辺も少し気になるところがあります。
人間が自然にふれずに育つことが可能になって久しい現代、外で遊ばない子ども、自然への無関心、環境問題、持続可能性は同じ文脈で語られることがとても多いように思います。
今の環境をこれからも守り続けていくためには次世代の子どもたちに自然の重要性を伝える必要があるけど、自然にふれることが少なくて関心を持たれていないから体験させないと!というイメージです。
私の自然体験としては、公的には小学校の総合学習の授業で近くの河川敷の昆虫を観察しにいったこと、私的には田舎の祖父母の家の畑で遊びまわったことが例として挙げられます。
もともと外遊びと生きものが好きでしたが、アウトドアとは縁遠い家で育ったので、特別これは自然だなと思う体験はなく、近所の用水路や公園、住宅の間、道、神社がフィールドでした。
昆虫館や水族館は好きでしたが、イベントとして提供されている自然体験には参加した記憶がありません。
提供されている自然体験の経験においては少しバックグラウンドが薄すぎですが、大学生以降授業や講演など色んな場面で「自然体験」「環境教育」というワードを耳にしていて、体験が提供されるまでのあいだに色々と無視されているものがあるのではと思ったのが事の発端です。
ちょっとずつ掘ってみましょう。
気になること①自然の定義
自分の「自然」の定義をしっかり作っていこうよ
まず「自然体験」という名ですが、そもそも自然とは何を指していますか。また定義に戻ってみましょう。
今回テーマとする部分の定義のみ取り出していますが、つまり人間が一切ふれていないものを自然とするパターンと、人間もその活動も含めて自然だよねっていうパターンの2つあるようですね。
自然体験の名においては、遠く離れてしまった自然という対象に近付くことを目的にしていることが多いし、①の定義が当てはまりそうです。
このとき「人の手の加わったものを除いた」というのが難しい部分で、例えば植え込みや植樹木、用水路、里山、人工林、畑、田んぼといったものは自然でしょうか。
①に当てはめるとそれらは自然とは言えないかもしれませんが、自然というものを人の手が加わっていないということを条件にすると、人類が関わってきた自然物はすべて自然とは言えなくなってしまうので、ちょっと意味が限定されすぎているような気もします。
個人的には、「自然である」ことと「自然物がある」ことが混合されがちなのかなと思います。
「自然である」とは、人が手を加えたり管理をしないときに均衡したバランスの上で自然物同士が維持、持続していく環境そのもののこと
「自然物がある」とは、動植物やその死骸から成り立つ土壌などの有機物、水や石などの無機物、またそれらを素材とした建物、建具、設備、道具、それらを取り巻く気候などのこと
それを踏まえたうえで私の自然観は
自然物があるだけでは自然とはいえない
自然物が多様で豊かであることは必ずしも自然ではない
自然物だけでつくられている田んぼや人工林や里山においても、人の管理外では遷移によってその状態を維持できないため、自然ではない
しかし自然ではないことと、生物多様性や環境保全的な観点から田んぼや里山といった一定の環境が重要な意味を持つことは全く別
ということに落ち着きそうです。スギ人工林もその中を歩くシカも、自然ではありませんが自然物であることには間違いありません。「生き物自体は自然の法則で生きている」という考え方もできますが、同一樹齢のスギしか生えていない環境でのシカの食べ物、行動は自然とは異なるので、人の管理の結果適応した生態という点で自然状態ではないと考えます。
自然体験の提供者が「自然」という言葉を使うとき、それはかつて自分が育ち親しんだ野外環境とそれに伴う活動を指すことが多いのではないでしょうか。そこに由来する自然体験の誰でもなんでもいいんだよという感じが、私の思う違和感の1つ目です。
広義に自然と称されていることは良しとして、個別の提供者は自らが口にする自然の粒度を自分ごととして言葉にできていたほうが、「自然っていいよね」という長い間ふんわりし続けている印象から一歩進めるように思うのです。
大事なのは、自分が育ち親しんだ野外環境を自然だと思ってはいけないのではなく、それを「自分にとって」目指したい自然環境と自覚し、相手にとって良いと感じられる自然を強制しないことです。
当時の自分が育ち親しんだ野外環境こそが共通認識の自然、という図式を当てはめると、経済状況も政治も大きく変わった現代の子どもにその環境は永遠に取り戻せないでしょう。失われてしまった自然物が多様で豊富で身近だった環境こそ自然、と伝えることは、その喪失になんの責任もない子どもたちにとって少々乱暴であるとさえ思います。たとえ外来種のセイタカアワダチソウが繁茂する河川敷であったとしても、花が咲き緑がありチョウが舞う場所として、誰かにとって自然物がある大事な環境となっていい。
もちろんそのような私感の自然は抜きにして、人間がこれからも地球で生きられるようにどうするかという問題があることも把握しています。そしてそれがまた別の違和感の成分になっているもので、提供者自身が伝えたいことと、社会的に課題とされていることが同一の文脈で話されがち問題。次のテーマになるかは分からないけど、この辺も明らかにしていきたいです。