「春にして君を離れ」アガサ・クリスティ
“Absent in the Spring” by Agatha Christie
https://www.pdfdrive.com/absent-in-the-spring-e199881914.html
Chapter 1
ジョーンが鉄道のレストハウスの食堂でセントアン女学校の時の友達ブランチェと会ったのは、彼女が次女バーバラの病気見舞いにバグダッドに行った、帰りでした。
ブランチェはジョーンとは違い、辛い人生を送ってきたのだろう、老けてやつれて見えた。
ブランチェが先に夕食を食べ終え、ジョーンに気付き、同じテーブルに座り、会話が始まる。
話の中で、ブランチェが次の日、反対方向(バグダッドに向けて)夫のドノバン(トム)に会うため出発すると言う。
それはまるで2人の女性の人生を象徴するかのようだ。
堅実に弁護士のロドニーと結婚して3人の子供を立派に育て上げ悠々自適の生活を送っているジョーン、一方、女学校ではあこがれの的だったブランチェは、ハリー、トム、ジョニー、ジェラルドと結婚離婚を繰り返し、今はしがない鉄道技師で出版される予定もない伝記を書いているジェラルドに会いに行こうとバグダッドへ行こうとしている。
ブランチェは、「あなたのような人は、神様への祈りとは無縁で生きていけるのでしょうね」と言う言葉を残して別れる。
Chapter 2
次の朝、ジョーンはツアーバスで次の駅テルアブハミドに向かいます。
その駅から南に向かうお客は彼女だけです。
途中で、雨のなか、ぬかるみに車をとられながら、最初のワディ(雨期以外は水のない川)を渡ったところで、レストハウスのマネージャーが渡してくれたお弁当を食べ、旅を続けます。
途中で2台の車とすれ違い情報交換する。
第二 (これが最後) のワディに来たときはもう夕方でした。
結局、車が駅に着いたのは、午後8時30分発予定の汽車がとっくに出発した後の10時15分でした。
駅の食堂室に入り、お茶を飲み、部屋に下がり、疲れ果ててぐっすり眠りました。
次の朝、9時半に起き、食堂で朝食をとり、1時半に昼食を予約して、次の朝汽車が来ることを確認する。
外で手紙を書こうと思い立ち、駅とは反対の方へ歩きはじめる。
気持ちの良い日差しの中を散歩しながら、夫の事を考える。
ロドニーは市場に面した自室の窓のところに立って牛の市を眺めているだろう。
「ガルブレイスのセントラルヒーティングの修理見積もり高いんだと思うんだけど、テャンバレンの見積もりも見られるかしら」
彼は上の空で、「別の見積もりもとってもいいけど、高いと思うよ」と言う。
彼女は、夫のこのぼんやりさに、イラつくのだ。
そうだわ、今日は牛の市の日じゃなかった。
思いは、夫が叔父さんの申し出を受けたときの事に遡る。
叔父さんが「一緒に弁護士事務所をやらないか」と持ち掛けたとき、彼は「僕は弁護士の仕事は嫌いなんだよ、ぼくは牧場をやりたいんだよ。」
あの時、断固とした態度で「おじさんと一緒に事務所をやりなさい」と言ったとき、彼は悲しそうな顔をしていたけど、私の現実的判断は正しかったんだわ、男には夢を追いかけて人生をダメにしてしまうものだから。
腕時計を見ると10時30分だ。
ゆっくり地面にかがんで、バッグを開けて紙と万年筆を取り出し書き始めた。
Chapter 3
ジョーンが3通の手紙を書き終えて時計を見ると、12時15分だった。
立ち上がって、ゆっくりレストハウスの方へ歩きはじめる。
ブランチェはもうバグダッドに着いているに違いない。
そういえば、夫の事を「目が泳いでいた」って、言っていたわ。
ジョーンは夫とランドルフとの事を思いだしていた。
泥棒猫の様な女、テニスのお相手として夫を欲しがっているだけじゃなく、夫をおだてて恋人にしようとしている女よ。
10年目の浮気?
クリスマスのやどり木リースの下でのキスを見たときは。
「クリスマスの儀式をしていただけです、奥さん、お気になさらないで」とランドルフは言ったわね。
「さあ、私の夫を返してちょうだい、誰か若い男を探しなさい」」
次のイースターにはランドルフはアーリントンの青年と婚約したわけだから、夫と何かあったと言うわけではないけど。
10年目の危機といえば私の方にも、あったかも。
若くてワイルドな芸術家、なんていう名前だったかしら。
そう、キャラウエイ、思い出したわ、私に絵のモデルになって欲しいと頼んで、一緒に散歩をしているとき、ロマンティックな会話を期待していたのに、乱暴に抱き寄せてキスした。
「奥さんは僕に犯されたかったんでしょ」と無遠慮な言葉を残して、数日後彼はクレイミンスターを去って行った。
そろそろ昼食の用意が整っている頃だ、と時計を見たがまだ1時15分前だった。
レストハウスに帰って、スーツケースの中の便箋を探したが、見つからない。
持って来た本を探した。
「レディーキャサリン」、ウィリアムが入れてくれた推理小説、バカンの「パワーハウス」。
昼食は結構ヘビーだった。
自分の部屋に帰って45分昼寝をし、起きてお茶の時間まで「レディーキャサリン」を読む。
夕食を食べて推理小説を読み終わった。
現地人は「お休みなさいませ、奥様。
汽車は明日7時30分に到着しますが、夕方8時30分まで出発しません。」
次の朝、8時に起きて着替えをすませ食堂に行くと、現地人は「汽車は来ません、大雨が降って線路が壊れたので6日は汽車が通れないでしょう」。
「車で行くわけにはいかないの?」「車は来ませんよ」「電話するわけには?」「どこに?トルコ鉄道は汽車を走らせることはできても、それ以外の事は何もできませんよ」
この状況って、私がブランチェに言った、事が実現したってこと。
レストハウスを出て少し歩いたところで地面に腰を下ろした。
この平和で静かなところで癒されるのは素晴らしい事。
腕時計を見ると、10時10分だ。
バーバラ(次女)に手紙を書くのはどうかしら。
愛するバーバラへ
そんなに幸運な旅をしているわけではありません。
いま、ここに数日留め置かれています。
ここは大変平和で日差しはすばらしいです。
だから私は大変幸せです。
と書いて、手を止めた。
次に何を書こう。
赤ちゃんの事?ウィリアムの事?
ブランチェの言ったことが思い起こされた。
「バーバラは今は大丈夫よ」ということは、大丈夫じゃなかった、ってこと?
ロドニーがバーバラの結婚前に突然言った事。
「ウィリアムは好青年だけど、僕はこの結婚には反対だ。バーバラは、ウィリアムの事を愛していないよ、彼女は若すぎるし、結婚すべきじゃない」
バーバラが仕事につくよりも結婚する道を選んで早く家を出たかったのは事実だ。
しかし、ジョーンがバグダッドへ行って、バーバラとウィリアムのレイド少佐の事を話す態度に齟齬があることに気が付いたとき、スキャンダルは本当だったと分かった。
結局、レイド少佐が東アフリカに言った事で、スキャンダルは収まった。
世間のうわさは、レイド少佐の肩を持つものが多かったのは後で知った事だ。
バーバラの病気の原因は本当はその事だったのだが、医者もウィリアムもその事に触れなかった。
バーバラは母親にもっと滞在してほしいと思っていたし、ジョーンももう一か月滞在しようと思っていたが、ウィリアムが今出発しないと、砂漠の天候が悪化してしまうと言ったので、予定通り出発したのだった。
結局、もっと遅く出発しても、結局一緒だった。
と言う事を思い出しながら、腕時計を見ると11時5分前だ。
ジョーンは銀行家の、妻レズリー・シャーストンの事を思い出していた。
シャーストンが浪費家であるため、横領をしてしまった事。
「彼女は悲しい人生を送った」、そう言えば、ブランチェも、バーバラも、違う意味で悲しい生活。
考えは、夫の事に戻ってゆく。
ビクトリア駅で最後にお見送りをしてくれた時の姿。
彼は電車を見えなくなるまで見送る事も無く、くるりと後ろを向いてさっさと帰って行く彼の後姿を見た時、いつもは疲れて年をとって見える彼の後姿が、若々しく見えるのに驚いた。
かって、テニスコートで彼と始めて会って、一緒にテニスのペアを組んだ時に見て、恋に落ちたときの様なたくましい後姿を。
彼は私がいなくなるのを喜んでいた?
Chapter 4
ジョーンが不愉快な思い出を振り払おうと、急ぎ足でレストハウスに入って来るのを見て、現地人の従業員は「奥様、ここでは時間がたっぷりあるのに、なぜそんなに急いでおられるのですか?」と呼びかける。
従業員、レストハウス、外で飼われているニワトリ、囲いの有刺鉄線すべてが癇に障る。
寝室に入って、「パワーハウス」を読み始める。
昼食までに半分読み終わる。
昼食はそれほど食が進まなかった。
寝室に入り、目を閉じたが、朝日をいっぱい浴びたにもかかわらず、眠れなかったのでアスピリンを3錠飲んだが眠れないので、「パワーハウス」を読み、数ページ残したところで眠りに就いた。
夢を見た。
ロドニーとテニスをしていた。
ジョーンがサーブしようとすると、ロドニーはジョーンとではなくランドルフとペアを組んでいたのだ。
サーブを2回失敗して、ロドニーを見ると、ロドニーもランドルフもいなくなっていて、辺りは暗くなっていて、彼女は一人残されていた。
目が覚めて「私は一人だわ」と大声で言った。
枕元に現地人の従業員がやってきて「奥様、お呼びですか?」。
「お茶を頂けるかしら?」
「まだ朝の3時ですが?」
ベッドから起き上がって、鏡を見て、「病気になり始めているのかしら、お日様に当たりすぎ?」
お茶2杯とビスケットを食べ、パワーハウスを読み終えた。
従業員がお茶を下げに来たとき、「あなたはここで何をしているの?」と聞いた。
文明人は何もしない、ただ待っている、生活などできやしないのだ。
ランドルフの事が頭から離れない。
ガーネット老夫人に花を届けていると、ロドニーと女性の声が聞こえてきた。
ランドルフだ、確かめなければ、と追いかけると、シャーストン夫人だった。
寄り添って座っているわけではなく、かなり離れて座っている。
たまたま散歩中のシャーストン夫人をロドニーが追い越し際に声をかけて、たまたま一緒にアシェルダウン峠を登って、登ってきた方向の景色を眺めていただけだ。
というのも、当時、シャーストン夫人のご主人は銀行の横領事件で服役中だったのだ。
そしてロドニーはその事件の弁護を担当していた。
世間の評価は、ご主人が悪いだけで無一文で二人の幼子を残されたシャーストン夫人に同情するものだった。
むしろ、シャーストン夫人の断固とした快活さは驚きの的だった。
ジョーンが「彼女は無神経だと思うわ」とロドニーに言うと、夫は「彼女は僕が今までにあったどの人より勇気がある人だよ」と言った。
彼女が「勇気が全てかしら?」というと、ロドニーは「それ以外何があるんだい」と言って、事務所に行ってしまった。
シャーストン夫人はしばらく市場向け野菜栽培業者のところで働き、叔母さんの援助で暮らしていた。
結局、シャールトンが刑務所からでて、子供たちと一緒に野菜を運ぶことで生計を立てる事になった。
シャールトン夫人(レズリー)は、子育てに関しては間違っていたとジョーンは思っている。
叔母さんが、子供たちに叔母さんの姓を名乗らせて面倒を見ると言ったのに、レズリーはそれを断った。
ジョーンはその頃のシャールトン夫人とロドニーが一緒のところを見たことを思い出したのだった。
ロドニーとレズリーに何かあるんじゃないかと疑ったやましさから、ジョーンは木影から覗いただけで、話しかけずその場を立ち去ったのだ。
その後、そのことは、ロドニーに言った事も無い。
ロドニーの事を考えているのに、嫌な事ばかり思い出すわ、太陽の光が強すぎるせいだわ。
Chapter 5
その日の午後と夕方はうんざりするくらいゆっくりと過ぎて行った。
日差しがある間は外に出たくなかったのでレストルームに座っていたが、30分ほどで寝室に戻ってスーツケースの中の整理をした。
それが終わったのは夕方の5時だった。
レストハウスにじっとしているのは気がめいる。
なにか読むものか、せめて知恵の輪でもあれば・・・
外はと言えば、鶏と有刺鉄線の囲い、ああ、いやだ、いやだ
鉄道の線路に沿って15分も歩かないうちに、味気ない気持ちになった。
暗記している詩を声に出して言ってみた。
「慈悲は義務によって強制されるものではない、天より降りきたっておのずから大地をうるおす 恵みの雨のようなものなのだ)― 『ベニスの商人』 第4幕第1場」
次の句はどうだったかしら・・・思い出せなかった。
「太陽の熱を恐れることはもうない」これも、シェークスピア
もはや灼熱の太陽も怖れるな
怖れるな 激しい冬の嵐も
この世の務めを成し終えた汝は
故郷へと戻り 報酬を受け取るのだ
輝ける若者も乙女たちもみな
煙突掃除夫のように 塵にかえる
ロドニーにシェークスピアを暗唱してあげていたことを思い出した。
シェークスピアの「愛の讃歌」を感情こめて朗読すると、ロドニーは「夏の荒々しい風は可憐な蕾を揺さぶるし、それに余りにも短い間しか続かない」と、つぶやく。
(この句の前に、君を夏の一日と比べてみようか、君のほうが素敵だし ずっと穏やかだ、と言う句がある)
彼はなぜこの句を引用したのかしら、あの時は10月だったったのに。
かれが、このシェークスピアのソネットの話をしたのは、彼がシャーストン夫人と座っていたのを見た正にその日の夜だった。
数日して、彼は「この深紅のシャクナゲってこの季節に咲くんだっけ?」と聞いた。
「普通春に咲くんだけど、秋が暖かければ咲くこともあるのよ」
「愛しい5月のシャクナゲ!」彼がつぶやき、「違うわよ、3月!」とジョーン。
それ以降、この深紅のシャクナゲは彼のお気に入りになった。
いつも、この大きなシャクナゲの花のつぼみをスーツのボタン穴に挿していた。
彼女が教会からの帰り道、彼が教会の墓地に立っている彼を見て、「こんなところで何をしているの?」と聞いた。
「僕の墓碑銘に書く言葉を」。
見ると、シャーストン夫人の新しい墓だ。
「もしあなたなら墓碑銘にどう書いたの?」
「聖書の詩篇に「あなたの御前には喜びが満ち、」みたいなのがなかったっけ?」とロドニー。
「彼女のではなくあなた自身のお墓に、よ?」
「主は羊飼い、主はわたしを青草の原に休ませる。」かなあ。
「その天国のイメージって、ぼんやりしてない?」
「じゃあ、君のイメージはどんなものなんだい?」
「みんなが生き生きと周りの世界をより良くより美しくしようとしているイメージよ」
彼は笑いながら「僕には、緑の谷、羊飼い、・・・ ばかげた考えだと君は思うだろうけど、事務所に歩いて行く途中考えるんだ。
いつも通る道からちょっとそれて、いつもは見えない谷間に入り込む。
君は騒がしい通りからいきなり静かなところへ入り込んで、びっくりして、「私はどこにいるの?」というと、みんなが、おだやかに「あなたは、死んでいたのですよ」とあなたに言う。」
「ロドニー! だいじょうぶ?病気じゃないの?」
あれが、彼の精神状態に気付いた最初だった。
彼が2ヶ月ほどコーンウォールの療養所で療養する事になった。
しかし彼女はあの教会の墓地での一件まで彼が過労である事に気が付かなかった。
あの帰り道、彼女は色々彼に話しかけたが、彼は「僕は疲れたよ、いつも勇敢でいられるわけじゃない・・」
それからたった一週間ぐらいで、朝起きられなくなり、医者を呼んで、ついにトレベリアンのところで療養する事に。
電話も、面会もできないし、子供たちはこうなったのがまるでジョーンのせいであるかのように言うし、ひどい日々だった。
「お母さんがお父さんを働かせすぎたんだ。」とトニー。
「落ち着きなさい、トニー」とエイヴラル。
アヴェリルはいつも冷たかった。
バーバラは末っ娘だったので「お母さんはお父さんに対してずっと残酷だった」と言う。
「あなた、何を言っているか自分でわかっているの!このうちで一番大事な人がいるとすれば、お父さんでしょ。
お父さんが働かないと、あなたたちは学校にも行けないし、服も買えないし、ご飯も食べられなかったのよ。両親が子供たちの為にやるのは当たり前でしょう」とジョーン。
「お母さんが子供たちにしてくれた犠牲について考えてみたいものだわ」とエイヴラル。
「お父さんが、昔お百姓さんになりたかったって本当?」とトニーが聞く。
「お百姓さん?でも弁護士の家庭だったので弁護士になったのよ。あなたもその方面に進んでいることに誇りをもつべきよ。」とジョーン。
「僕はその方面には行かないよ、東アフリカに言って農業をやりたい。」
「あなたは長男なんだから弁護士になりなさい。」
「僕は弁護士にはならないよ、お父さんは農業をやって良いって約束してくれたよ。」とトニー。
勿論、ジョーンにも、突然父親が病気に、それも、精神障害、などと言う病気になったというこの状況に陥った子供たちの気持ちが分からないわけではなかった。
身近にいる母親をスケープゴート(贖罪の山羊、生贄)にしたのだ。
ロドニーのいないあの頃は家族にとってつらい不幸な時期だった。
子供たちは難しい年ごろ、バーバラはまだ学校に行っていたし、エイヴラルは疑り深い18歳、トニーは毎日近くの農場に入りびたり。
考えてみると、不愉快な事は全て私が引き受けてきたのだわ。
バーバラが、まわりにハーリー譲の様な良い娘がいるのに、あんな悪い子たちと付き合うのか信じられなかった。
エイヴラルの他人を冷笑する態度もたまらなかった。
子供を生んで育てるってことは報われない仕事ね。
詩を暗唱しながら心地いい砂漠の散歩をしようと思っていたのに、辛いことばかり思い出してしまった。
向きを変えて、レストハウスに向けて歩き出した。
これって、閉所恐怖症の逆の、何て言ったかしら、A (agoraphobia)かしら?
全ての事は科学的に説明できると言うけれど、変な考えが次々に浮かんでくるのを止めるのは簡単じゃない。
わたしの嫌な考えは、ロドニーのテニス仲間のミルナ・ランドルフように、穴から出入りするトカゲのように、ロドニーの前をちょろちょろするのだ。
おもちゃ箱に入ったおもちゃの子供たちとおもちゃの召使い達とおもちゃの夫。
いいえ、ジョーン、おもちゃなんかじゃないわ・・・・だとすると私自身がおもちゃの妻で母なんだわ。
何て恐ろしい考え、何か詩を思い出して暗唱すれば、こんな考えは出て来なくなるでしょう。
「君と離れていたのは春もたけなわ・・・・」(シェークスピアのソネット)
次の句が思い出せなかった。
でも、最初のこの句が全てを説明しているわ。
ロドニー、あなたと離れていたのは春もたけなわ・・・・
春じゃなく11月だけど。
ショックが襲ってきた、これがあの夜、彼が言っていたことなのだ。
彼女を待っている何か、今彼女が気付いた、そのことから逃げたい事。
もっと心地よい事を考えよう。
バーバラに結婚式のドレスとか、ゆりかごでおとなしかったエイヴラルの事だとか。
トニーも彼女の期待通りの子供だった。バーバラだけが育てにくい子供だった。
しかし、みんなうまく育った。
「子供たちにちゃんと接してきたのかしら」と言う思いが彼女の心の中に浮かんできた。
エイヴラルが言った「お母さんは私たちに何をしてくれたの?お風呂に入れてくれたことも無いでしょう?、夕食を作ってくれたこともないし、髪を解いてくれたことも無い。みんなナニーさん(子供の面倒を見るお手伝いさん)任せ。他の事もみんなナニーさん任せ。」
「でも、私がナニーさんを雇ってあげたんじゃない。」
「お父さんがお金を払ったのよ」
アヴェリルは最後まで言い張る事はしなかったが、ジョーンを、最後まで反抗するよりもっと居心地の悪い気分にした。
ロドニーは笑いながら、エイヴラルと一緒になって「判決は、証拠不十分!」と言ったものだ。
ジョーンが「笑い事じゃないでしょう、子供はもっと素直じゃなきゃいけないでしょ」言うと、ロドニーは「エイヴラルは子供にしては、礼儀正しいよ。徹底的に相手を追い詰めたりしないもの、バーバラと違って」。
たしかに、バーバラは後で謝るけれど、感情を爆発させてひどい言葉をジョーンに投げつけるような子供だった。
「バーバラは親のごまかしを、見つけ出すような目聡い子供だよ」とロドニーが言うので、ジョーンは「ごまかし?!言っている意味が分からないわ」と気色ばんで言い返した。
ロドニーは「僕たちが良かれと思って子供たちにしてあげていることだよ。」
「あなたはまるで子供たちが奴隷ででもあるかのような言いいいかたじゃない?」
「そうじゃないのかい?僕たちの与える食べ物を食べて、僕たちの与える着物を着て、僕たちが言ってほしい事を言うのは、保護してもらう代償として当然のことなんじゃないのかなあ、だから大きくなって自由になるのを夢に描いてない日々を過ごしているのさ」と、ロドニーは、自由なんかないのさ、と言いながら肩を落として部屋を出て行った。
ああ、私の思いは、なぜあのビクトリア駅でのお見送りの時のロドニーの事に戻ってしまうのかしら。
そうじゃないわ、彼は召使いたちと寂しく暮らし、私の帰りを待っているに違いないわ。
Chapter 6
レストハウスに返ってくると、従業員が「奥様、散歩はいかがでしたか?おいしい夕食の用意が出来ていますよ」と言った。
そうはいっても、毎日変わらないメニュー。
夕食が終わっても、寝るには早すぎる時間で、本か裁縫するものを持ってくればよかった、と強烈に思った。
「レディーキャサリン」を読み直そうかと思ったがやめた。
何もやることがなく、頭の中のトカゲという夢想が穴から出てきた。
一体人は自分の夢想を制御出来るものなのか。
これが広場恐怖症なのか。
そう言えば、私は家の中で人に囲まれて過ごしてきた。
誰か話し相手さえいればいいのに・・・ブランチェでも・・・
セント・アンでの事を話せただろうに。
校長先生のミス・ジルベイの事を思い出した。
卒業の時「これからあなたが出て行く世の中であなたはいろんな困難に出会うでしょう。
人生は進歩の連続なのです。失敗を越えて進んでいきなさい。私はいつでも助言を与える用意があります。」
そしてその時、ブランチェが校長先生の物まねをして先生から怒られた事。
しかし、先生の言ったことは正しかった。
ブランチェに必要なのは規律、自制だ。
例えば、私が送ってあげたお金も自分のために使わずトム・ホリデーのためにロールトップデスク(蛇腹の覆いの付いた机)を買うのに使ったのだ。
しかし彼女はこの世に生み出した2人の自分の子供さえ見捨てたのだ。
それは、世の中には母性本能の無い人がいると言う事だ。
私たち夫婦は常に子供第一に考えてきた。
日当りのいい部屋を子供部屋にしたりしてきた。
だから子供たちはシャーストンの子供達とは違って素直に育った。
シャーストンは子供たちを、アシカのまねなんかさせる変な活動に参加させていた。
シャーストン夫人自身ちゃんと育ってこなかった人なんだから。
ジョーンはサマセットでキャプテン・シャーストンと会ったときの事を思い出していた。
地方のパブで偶然会ったのだが、その時の彼は銀行頭取時代の、気取った自信に満ちた彼とは正反対の、世の中でうまく行かずしょげている感じの彼だった。
「これはこれはスクーダモア夫人!世間は狭いものですなあ、どうしてここスキプトン・ハイネスにお越しになったのですか? ぜひ、妻に会って行ってください。」
市場向けに作っているアネモネの花とリンゴの畑を通ってシャーストンの家に着くと、疲れて元気のないレズリーがアネモネの花壇にかがみこんでいた。
しかし、昔のように快活でちょっとだらしない感じでもあった。
立ち話をしていると、子供たちが学校から帰ってきた「お母さん、お母さん」と騒がしく言った。
レズリーが「静かにしなさい!お客さんでしょ!」と、まるで飼い犬を訓練するような言い方で言った。
家に入って子供たちと食事の準備をするレズリーは幸せそうだ。
しかし、シャーストン(夫)の態度が変わり、外の世界での冷たい評価を受けている彼とは違い家庭内では幸せそうだった。
ピーターが「看守とプラムプディンの話をしてよ」とシャーストンに言った時、シャーストンが困っていると、レズリーは「話しなさいよ、スクーダモア夫人(ジョーン)も聞きたいはずよ」と言った。
二階に案内してくれる時にジョーンが「あんな話を子供に聞かせるなんて、レズリーは無神経なんじゃないの?」と言うと、レズリーは「現実をそのまま子供に伝える事は良いことだと思うわ。子供に、お父さんはなぜ、いなくなったの?と聞かれた時、お父さんは銀行のお金を盗んだので牢屋に入れられたのよ、それってあなた(ピーター)が、ジャムを盗んで寝室に閉じ込められるのと同じことよ。」と答えた。
「それに、本当の事を子供たちに伝えるのは、夫にとっても良い事なの。自然にふるまう事が彼にとっても良いことなのよ。ところでロドニーはどうしてるの?」
レズリーが窓際に立っている姿を見て、ジョーンは「赤ちゃんが生まれるのね、予定日はいつ?」
「8月よ。新しい赤ちゃんの誕生は夫を変えたのよ。」
「お金は大丈夫なの?」とジョーン。
レズリーは笑いながら「何とか食べて行けるし、私の体も丈夫だし」と言った。
二階から降りると、シャーストン(夫)がジョーンをそこまで送ってゆくと言った。
道々、彼はレズリーへの感謝を述べていたが、別れて振り返ると、酒場の前に立って開くのを待っているのを見てしまった。
家に帰ってロドニーにその事を話すと、「結局、彼女は彼の妻であり子供たちの母であるという両方の道を選んだんだ。」
Chapter 7
その夜、ジョーンはミス・ジルベイと砂漠を歩いている、夢を見た。
ジルベイ先生は「トカゲに注意しなさい、規律ですよ。」
目が覚めて一瞬、セントアンに戻ったような気持ちになった。
確かに、レストハウスは寮の部屋のように鉄のベッドだし、そっけない壁だ。
ジルベイ先生が言った「規律」とは、どういう意味だったんだろう。
私は自分の気持ちを、規律を持って制御しなければならない。
レストハウスにいる限り広場恐怖症は克服できるだろう、しかしマトンと蝋燭の匂いのするレストハウスにはうんざりだ。
昔の囚人は独房の中で何をして過ごしていたのだろう、運動したりしたんだろうが、退屈で気が狂いそうになっていただろう。
ブランチェを「魚のように冷たい人間」と思ったけど、彼女は元々そんな人なんだから非難するには当たらないわ。
ブランチェは私が幸運な人間だという事をすぐ忘れてしまうだろうと言っていたけど、人はともすればその事を忘れがちなものだ。
その後で彼女は何て言っていたかしら。
そう、何日も何もすることなく自分の事だけを考えていれば私は、自分自身について分かるでしょう、と言っていたわ。
他人にどう思われていたんだろう。
例えば、バーバラから見て。
有能な召使いのコックが「失敗した時だけ怒られて、うまくやれた時に褒められたことがない。今月を持ってやめさせていただきます。」と言った。
ロドニーはその点召使いたちに尊敬されていた。
召使い達をよく観察していて、「エドナにつらく当たらない方がいいぞ、彼女の彼氏が別の女に夢中になっていて、がっくりして気もそぞろなんだ。」
彼女がロドニーに「よく気が付くのは、職業柄なのね」と言うと、「それは仕事で人間の汚い部分や逆に勇敢な部分を見るからだと思うよ」と答えた。
しかし、「ロドニーが、ホッデスドンに自分のお金を貸したのには納得できない」と、彼女が言ったとき、ロドニーは「この国の農民の惨状を君はどれほどわかっていのか、僕のやっている事に口出しをしないでくれ」と怒りだしてしまった。
ジョーンはロドニーとシャーストン夫人がガーデンパーティーで一緒に座っていたのを思いだした。
ロドニーが農業にそれほど興味の無いシャーストン夫人に、熱心に農業の事を一方的にしゃべっていた。
ジョーンがその事を指摘して、ロドニーが詫びると、シャーストン夫人は「いいえ、大変興味深い話ですわ」と言った。
その後、ランドルフがちょっと息を切らしてやって来て、「ロドニー、来て、私とペアを組んでテニスをやる番よ、みんな待ってるわよ。」と手を引っ張ってコートに連れて行ってしまった。
なぜ考えが、ランドルフのことに戻ってしまうのだろう。
機会があれば他人の夫婦関係を壊そうとするような女の事に。
朝食を食べに行かなきゃ。
ポーチドエッグを作ってもらおうかしら、オムレツは飽きたわ。
従業員に頼むと、「茹で卵ですか?生卵をお湯に入れたら、なくなってしまいますよ。目玉焼きはいかがですか?」
朝食はすぐ済んでしまって、汽車についての新しいニュースも無かった。
ということは、もう一日を何もする事も無く過ごさなければならないという事だ。
ローマカソリック教徒の言う所の修養会(一定期間、静かなところで黙想や聖書の学びなどの宗教的修養を行なうことを目的とした集会)、彼らはRetreatをやって精神的に元気を回復させる。
でも、なぜ私が自分を精神的に元気に回復させなければならないのかしら、わたしはずっとわがままではなかったはず。
長女のエイヴラルに対してだって。
それは匿名の手紙だった。
「あなたの長女エイヴラルはカージル医師と不倫をしていますよ」
エイヴラルに聞くと「それが何か? お母さん。彼の奥さんは体が弱くって、私と彼は当然の成り行きなのよ。」という。
しばらくしてエイヴラルが彼と駆け落ちをするというので、ロドニーは「エイヴラル、おまえは結婚の意味が分かっているのか、結婚は健康な時も病める時もお互いに寄り添うという契約なのだ。ルパート・カージルは妻とそう契約したんだ。奥さんには結婚を継続する権利がある。それに。もしお前がカージルと駆け落ちすればカージルは今の仕事を続けられなくなる、それが彼にとって幸せな事なのか考えなさい。」と言って説得する。
Chapter 8
エイヴラルは、一か月後、ロンドンにある秘書の学校に行きたいと言い出した。
3か月後にロンドンから帰省したエイヴラルは普通に戻っていて、ロンドンで楽しく暮らしているようだった。
ロドニーにその事を言うと「僕には、あれは、あまり深刻には思えなかったよ。君は心配しすぎだよ、あれは君の問題なんじゃなく、彼女の問題なんだから。」と言った。
バーバラの方が問題だった。
彼女の友人の選び方だ。
クレイミンスターにはたくさんのいい娘がいるのに、バーバラは「メアリーもアリソンも退屈だわ」と言う。
「パメラ・グレイリンなんか、彼女のお母さんと私は大の友達だったのよ。」とジョーンが言うと、「彼女は本当に退屈だわ、お母さんが付き合うのじゃないんだから、とやかく言わないで。わたしがベティー・アールとプリムローズ・ディーンとお茶をすると、口出ししてくるじゃない。
私が自分の友達も決められないなんて、我が家は監獄のようだわ」
ロドニーが「可哀そうなバーバラ、黒人奴隷のように扱われる」と茶化す。
ロドニーは、これも一時の状況で、時間が経てばバーバラも成長するので心配には及ばないというが、私が心配しないと何が起きるかわからない、ロドニーは母親の気持ちなんかわからないのだ、と思った。
バーバラが友達として選んだウイルモアだって、クリスマスチャリティーダンスの夜、5つのダンスの間、二人でタウンホールからいなくなった時、バーバラは「ちょっとパブを数件回っただけよ。何もなかったわ、ビールしか飲まなかったしダーツをやっていただけよ。」と言った。
その後、ロドニーがウイルモアと同じ弁護士事務所のハーモンを日曜日の夕食に呼んだ時、ジョーンがハーモンに冷たく接したので、ハーモンはバツが悪そうだった。
ロドニーは、バーバラはまだ若いので本物と偽物の男の区別がつかないんだよ、と言った。
エイヴラルが秘書学校から短期帰省してバーバラに「あなたの男の趣味ってひどいわ」と言った事でウイルモアは家庭の話題から消えて行った。
その後もジョーンはテニスパーティーをして人を家に呼んだけれど、バーバラはそれに加わらなかった。ロドニーは、「バーバラはまだ若いんだから、君がお膳立てする必要はないよ、」と言った。
後でロドニーがジョージ・ハーマンとプリムローズ・ディーンの結婚の新聞記事をバーバラに見せながら「お前の昔の恋人の事が出ているよ」とからかうと、「あの時は彼を愛していると思っていて、駆け落ちするつもりだったし、止められたら自殺するつもりだったわ。」
と言った。
その後、ウイリアム・レイが叔母さんのレディー・ヘリオットのところに滞在するためイラクから我が家にやってきたのは願っても無いチャンスだった。
彼が「ヘリオットの甥で、バーバラのテニスラケットを返しに来た」と告げた時、ジョーンは、彼に「バーバラは間もなく帰ってきますから、お茶でも飲んで待っていてください」と言って招き入れた。
ロドニーも帰って来て、彼と話し、彼の事を気に入った。
しかし、ロドニーが、バーバラが帰って来て、彼女とウイリアムが結婚して彼とバグダッドに行くと言ったとき、なぜあんなに困惑したんだろう。
彼は、もっと時間をかけて考えたほうがいいといったし、バーバラは若すぎると言ったんだろう。
バーバラがバグダッドへ行った半年後、エイヴラルは、株式仲買人のエドワード・ハリソンとの婚約を宣言した。
長男のトニーは農業専門学校で訓練した後、結局ローデシアでオレンジ農園をやっているロドニーの顧客のところで働くため南アフリカへ行ってしまった。
その後トニーはダーバン出身の女の子と婚約するという手紙をくれた。
ジョーンがロドニーに「トニーを無理にでも弁護士の道に進ませるべきだったんじゃないの」と言うと、ロドニーは笑いながら「彼は弁護士になっても幸せじゃないよ」と言った。
「幸せだけが人生のすべてじゃないと思うけど・・・例えば人生の義務とかあるんじゃない?父親を失望させない義務とか」とジョーンが言うと、「寂しくはあるけど、失望はさせていないよ、結局それは彼の人生であって私たちの人生じゃないんだから」と答えた。
ジョーンは立ち上がって腕時計を見た。
もう一時間半も経つと昼食の時間だ。
多分、あのヘビーな食事が食べられるよう、レストハウスの近くをちょっと散歩した方が良さそうだ。
部屋からフェルトの帽子をとって来て、外に出た。
アラブの少年がメッカに向かってお祈りをしていた。
インド人の従業員が近寄って来て、「彼はお昼のお祈りをしているんですよ」と訳知り顔で説明した。
6,7人のアラブ人が砂に埋まった古い自動車を一方方向ではなく2つの反対の方向に引っ張っていたことを思い出した。
ウイリアム(次女の夫)は、「彼らは、アラーのおぼしめしがあるのでうまく行くと思っているんですよ。成功するはずはないのに」と説明してくれた。
奇妙な事に、彼らは幸せそうな顔をしていた。
神の意志に任せるのではなく、自分で将来に向けて考え、計画しなければなければならないのに、とジョーンは考えた。
しかし、どこへ向かっても計画を立てるわけではない日々を送っていると、今日が何曜日だかさえも忘れてしまうだろう。
ええっと、今日は木曜日だったかしら、ここに着いたのが月曜日の夜だったから・・・
彼女は少し離れた所に、制服を着てライフルを持った男を見た。
彼は居眠りをしているように見えたので、これ以上遠くまで行かない行が良いだろうと考えた、目を覚まして彼女を間違って撃つといけないので。
レストハウスを迂回して時間をかけて引き返そう。
午前中は三人の子供たちの事を考えて、うまく時間をつぶすことができた。
しかし、長男のトニーだけは、不満だ。弁護士になるべきたったのではないか?
ロドニーはトニーに甘すぎたのだ。
私がロドニーにしたように、断固とした態度で弁護士への道を勧めれば、ロドニーの様な幸せな人生を歩めたのに。
ロドニーは私に感謝しているのかしら。
目の前を見ると蜃気楼が立っていた。
蜃気楼は現実とは何かを考えさせてくれる。
トニーはひどく自分勝手な子供だった。
7歳の時、夜中に、父親の寝室に入って来て、「お父さん、僕は毒キノコを食べたみたいだ。もうすぐ死ぬので、お父さんのところで死にたいのでここに来たんだ」と言った。
虫垂炎で24時間以内に手術をしたのだが、私のところには来ないで、父親の所に行った事は、私の中に違和感を残した。
エイヴラルは「トニーは、私たちより保護色がうまいのよ」と言ったが、彼女の言っている意味はよく分からなかったが、その言葉に少し傷ついた。
ジョーンは時計を見た。
これ以上熱い散歩は必要ない。
素晴らしい朝の散歩だった、何の出来事も無かった、不快な思い出も広場恐怖症も出てこなかったし。
急いでレストハウスに入って、昼食に缶詰の梨が付いていたので、ちょっと嬉しかった。
お茶の時間まで眠ろうと思い、ベッドに横たわって目をつむったが、目が冴えて眠れなかった。
体は緊張して、心臓はいつもより早い、リックスしなければ。
この感じは、歯医者で、待合室で待っているときの感じだ。
こんな時は神についての瞑想が必要だ。
天にまします父なる神、そう言えば私の父は・・・
きちんと手入れされた海軍カットのあごひげ、人を射るような鋭い目つき、家の中をきちんと整理する趣味、典型的な退職した提督だ。
母は背が高く、痩せて、だらしない女性だった。
彼女がだらしない恰好でパーティーに出席した時、父は激怒して、3人の娘たちに「なぜ、お前たちは、お母さんの面倒をちゃんと見ないんだ。」とどなった。
お母さんは好きだったけどあのだらしなさにはうんざりだった。
しかし、母の死後、父が、結婚20周年の時に、母に宛てて書いた手紙を読んだ時はびっくりした。
「今日、君と一緒にいられないのはひどく悲しい。
この手紙で、君が愛しているすべてのことは、ここ数年私にとって意味があり、今日、あなたがこれまで以上に私を大切にしていることを伝えたいと思う。」
この12月で私たちは結婚25年になるけど、ロドニーがこんな手紙を私に書いてくれたら、何と素敵な事だろう、と考えた。
文面を想像して、ありえない、と思った。
もっと精神的な黙想をするはずだったのに、こんな風な下世話な事を考えてしまった。
眠られもしないのにこんなところに横になっているのは無駄な事だ。
たくさんの人がいる広い部屋に居たいと思った。
きっと汽車はすぐに来るはずよ。
お茶を飲んだ後外に出た。
外を歩いても考え事はできないだろう。
ロドニーの事も、エイヴラルのことも、トニーの事も、バーバラの事も、ブランチェ・ハガードの事も考えてはいけない、特に赤いシャクナゲの事は考えてはいけない。
「あなた自身のこと意外に考えることがないなら、自分自身の事について何を発見するのでしょうか?」といった、ブランチェの言葉が思い起こされた。
言葉に出してみて、自分の言葉にびっくりした。
何が、知りたくなかった何かなんだろう、戦い?相手は誰、何?
誰かが一緒に歩いているような気がした。
振り返ってもだれもいない。
レストハウスに帰ると、現地人の従業員がドアの外に立っていた。
「奥様、熱がおありなんじゃありませんか?」
そう、熱があるんだ、熱を計って、キニーネを飲まなければ。
98.2度(36.8°C)、平熱だ。
「単なるイライラよ」とよく、他人に言っていたけど、今わかった。
彼女に必要なのは、共感してくれる医者と、ずっと部屋に付き添ってくれる有能な看護師とだ。
今彼女が手にしているのは砂漠の中の白茶けた牢獄とあまり知性的ではない現地人と料理人だ。
夕食後自分の部屋に帰って、アスピリンの瓶を探して、残っていた6錠全部飲んだ。
すぐ眠りに就いた。
夢の中で、彼女は大きな監獄にいた。
そこから出ようとするのだが、知っているはずの出口を見つける事ができない。
次の日の朝、疲れてはいても心穏やかな気持ちで目覚めた。
「思い出しさえすればいいのに」と呟いた。
起きて、服を着て、朝食を食べた。
外に出ようと思えば出られるけど、今じゃない。
レズリー・シャーストンが死んだあと、シャーストン(夫)は飲みすぎで最速で死んだ。
子供たちは親戚に引き取られた。
夫人の長男のジョンは今ビルマのどこかにいる。
ピーター・シャーストンがロドニーのところにやって来て、事務所で雇ってくれと言った。
ロドニーは喜んで彼を受け入れた。
その後、ロドニーは心配顔で事務所から帰って来たが、その時は何でもない、と言った。
1週間後、「ピーターは航空会社に就職する事になった」と言った。
彼女はシャーストン夫人が癌で死んだときの事を思い出した。
助かる見込みも無く、モルヒネで痛みを押さえて快活に振る舞い、突然死んでしまった。
ロドニーは彼女の遺志に従って、少ない遺産を子供たちに分配し、クレイミンスターの教会の墓地に埋葬の手続きをした。
ピーターはその後テストパイロットになり、試験飛行中に死んでしまった。
ロドニーはその事をひどく気に病んだ。
シャーストン夫人がピーターの弱点を知っていて、くれぐれもよろしく、と言って、彼に息子を託したのに・・・、と言って。
レストハウスに座って、「何故、いつもシャーストン一家の事が頭に浮かんでくるのだろう」と思った。
他にも友達はたくさんいるし、レズリーもことが特に好きだったわけでもないのに。
可哀そうなレズリーは冷たい墓石の下に眠っている。
寒い、ここは暗くて寒い。
太陽の日差しの中に、出なければ。
Chapter9
ジョーンは急いで日の差すところに出て速足で歩き始めた。
ミス・ジルベイが側で囁いている気がした。
「自分の考えを律しなさい、言葉を正確に、あなたが今逃げている何かをちゃんと見つめなさい」。
しかし、何か間違っている。
というのも、今回は狭い部屋から逃げて、外に出てきたんだから、広場恐怖症でもないし・・・
レストハウスは新しい建物なので幽霊が出るはずはない。
自分自身に遭う。
彼女の足並みはどんどん早くなってゆく。
誰かに会うとすれば・・・そうだ、ブランチェに会いたい。
ブランチェだったら私を驚かしたりしないだろう。
トカゲが穴から出てくるように、真実が顔を表す。
実は、真実はここに来た時からちょくちょく顔を見せていたんだ。
今まで考える必要がなかった真実。
ブランチェが言っていた「何日も何もすることなく自分の事だけを考えていれば私は、自分自身について何が分かるのかしら。」
トニーが言っていた「お母さんは、他人の事なんてまるでわかっちゃいない」
私は家族を愛してはいたけど、彼らの事を何もわかっちゃいなかった。
エイヴラルの苦しみも理解しなかった。
ずっと若い時に傷つき、今も傷ついている生き物・・・、しかし勇気のある生き物。
勇気、それが私に欠けているものだ。
ジョーンが「勇気が全てじゃないわ」と言ったとき、ロドニーは「そうかな?」と言ったけど、ロドニーが正しかった。
バーバラについては?
医者はなぜ言葉を濁したんだろうか、何を隠していたのか?
彼女はバーバラの好きな事を無視して、バーバラの為に良いと思う事を決めた。
彼女は早く家を出たかったので、愛してもいないウイリアムと(これはロドニーが言った事)結婚してバグダッドへ行った。
そして何が起こったの?
レイド少佐との恋愛沙汰、そして絶望の発作、重い病気。
ロドニーはその事を知っていて私がバグダッドに行くのを止めたのだろうか?
私は単に、献身的な母親を演じようとしただけなんじゃないだろうか。
だから、医者に口止めして、二人は共謀して秘密を守り、早々に私を帰らせたのだろうか。
バーバラも、私の事を信用していなかったのだ。
プラットホームで彼女を見送った時、ウイリアムがバーバラの手を握り、バーバラが彼に寄りかかっていたのを思い出した。
彼らは汽車が出た後、アリュヤーのバンガローに帰ってモスピーと遊ぶのだろう。
「心配することはない、彼女には子供がいる。」とブランチェは言った。
ブランチェの事を、私は彼女ほど不幸じゃないわ、と思っていた。
ジョーンは、ひざまずいて祈った。
「神様、私は気が狂いそうです、気が狂いませんように、これ以上考えさせないでください。
神は私を見捨てたのですか、砂漠に独りぼっちです。
キリストは40昼夜、砂漠に独りだった。
インド人とアラブの少年とニワトリのいる、レストハウスに帰らなければならない。
レストハウスが見えない、いつもより遠くに来てしまったのに違いない。
丘を見つければ場所が分かるかもしれない。
道に迷ったのだ、帰れないかもしれない。
前後に走りだして、「助けて、助けて・・・」と叫び始めた。
砂漠は彼女の声を吸収して、羊の鳴き声のように響いた。
羊、ロドニーは、神は私の緑の牧場の羊飼い、と言った。
ロドニー、助けて、
しかしロドニーは数週間の私のいない自由な生活を感じながらプラットホームを去っていく。
エイヴラルは?
「私にできる事は何もないわ」と言うだろう。
トニーは?
トニーは南アフリカにいて助けに来られない。
バーバラは病気で私を助けてくれない。
レズリーは?
レズリーなら助けてくれるだろうけど、彼女は死んでしまった。
ジョーンは絶望してまた走り出した。
汗が顔を流れて、首から、全身に流れた。
キリストなら砂漠に彼女のためにやって来て、緑の谷への道を示し、迷える羊を導き、
たった3日が経っただけだ:まだそこにいるはずだ。
あれは何?
地平線の向こうに見えるぼんやりと・・・それはレストハウスだった。
助かった・・・
Chapter10
ジョーンはゆっくりと正気を取り戻した。
彼女は立ち上がってレストハウスに向かって歩き出した。
しかし、わたしは物事をちゃんと考えなければならない、それがここにいる意味だ。
自分が何者であるのか。
昨日その手がかりを見つけた、そこから始めなければ。
詩「春にして君を離れ」は、ロドニーの事を考えさせ、「しかし今は11月よ」と私は言った。
ロドニーは「10月だよ」と言った。
彼がアシェルダウンでレズリー・シャーストンと4フィートも離れて、黙って座っていた日の夕方。
その理由は、今、いや、あの時も分かっていた。
マーナ・ランドルフではなく、というのは、ランドルフとロドニーの関係は論外だから。
しかし一方、ランドルフの方がシャーストンよりも受け入れやすかったから。
ランドルフは男受けする女性だから。
しかし、シャーストンは美しくも若くもなかった。
シャーストンは、ロドニーを絶望的に愛していたので、死んだ後彼のいる場所に埋めてほしかった。
ロドニーは墓石を見て「シャーストンがこんな冷たい墓石の下にいるなんて、馬鹿みたいだよ。」と言った。
そしてあの深紅のシャクナゲの花のつぼみが落ちて・・・
「僕は疲れたよ、僕たちはそんなに強くはいられない。」
「勇気が全てなのかしら?」と言うと、「そうかな?」と彼は否定した。
その後でのロドニーの神経衰弱、レズリーの死が原因だった。
ロドニーはコーンウォールでカモメの声を聞きながら、平和に静かに微笑んでいた。
トニーは「お母さんは、お父さんの事をなにも分かっていないよ」と言っていたが、確かにそうだった。
知ろうとさえしなかった。
彼女は彼の良き妻だったのだろうか?
彼の興味を最優先してきたのだろうか?
彼は農業をやりたかったのに・・・
彼はエイヴラルに「もし人が自分がやりたい仕事をやらないとすれば、彼は人生の半分を生きている事になる」と言ったのは、私がロドニーに強いている事について言っていたのかもしれない。
私は自分勝手だったのか?
人は、子供なんじゃないんだから、現実的じゃなければいけないと言って説得したけれども、農業をやりたくなかっただけなんじゃ。
ロドニーは「農場での生活は子供たちにとってもいいものだよ」と言っていた。
私はロドニーを愛していたがゆえに彼の生得の権利を奪ってしまった。
私はロドニーを愛しているし、子供たちを愛している。
しかし、十分に、ではない。
ブランチェは正しかった。
私はセント・アンを卒業したままの少女だったのだ。
苦痛を伴う「考える事」をしないで、安易に、春のような気分の中で。
私に何ができるのだろう。
彼のところに帰って「ごめんなさい。許してください」と言う事ができる。
ジョーンは起き上がった。
彼女は老女のようにゆっくり歩いた。
インド人の従業員がレストハウスから駆け寄って来て、「良いニュースですよ、奥様」と言った。
「駅に汽車が着いて、今夜出発できます」
Chapter11
夢のようだった。
有刺鉄線の塊を抜けて、アラブ人の少年は彼女のスーツケースを運びながら、太ったトルコ人の駅長とおしゃべりをしている。
そこには、見慣れた寝台車の車掌が乗った寝台車が待っている。
車両には、アレッポ-スタンプールと書いてある。
フランス語で丁寧なあいさつを流しながら彼女の寝台車が開く。
既に席は寝台使用になっている。
再び、文明の中へ・・・
ジョーンは、外見上は、一週間足らず前にバグダッドを発ったジョーンと変わらない物静かな、有能な旅人だったが、自分だけは内面の変化に気付いていた。
汽車はちょうどいい時に来たのだった。
インド人の従業員の「奥様は昼食の時にお帰りにならなかったのですか、もう5時ですよ。お茶を召し上がりますか?」という言葉に、機械的に「そうするわ」と、答えた。
「でも、どちらにお出かけになっていらっしゃっていたのですか」。
「遠くまで行っていたのよ」
「それは危険です。道に迷ってしまいます。」
確かに、彼女は道に迷ってしまったが、運よく戻った。
彼女はお茶を飲んで、休むだろう。
「汽車はいつ出発するの?」
「8:30分です、ワディがひどい状態なので、積荷が無いので、定時に出発します。
奥様、顔色が悪いですね。熱でもおありじゃないですか?」
「いいえ」
「奥様、いつもと様子が違います。」
ジョーンは部屋のきたない鏡で顔を映して見た。
老けて見えた。
目の下にはくまがあった。
顔には汗と黄色いすじが付いていた。
顔を洗って、おしろいをつけ、口紅を付けてもう一度顔を見た。
確かに、表情から何かがなくなっている。
「うぬぼれ?」
私は何てうぬぼれの強い女だったんだろう。
「ロドニー・・・」心の中で呟いた。
「私は馬鹿な出来損ないです。あなたの知恵とやさしさで私を導いてください」
彼女は、ため息をついた。
疲れて体中が痛かった。
お茶を飲んで、夕食と電車の出発の時間までベッドに横になった。
もはや、とかげは穴から出てくることはなかった。
ただ休みたかった、心安らかに・・・
そして今、彼女は汽車の中で、車掌にパスポートと切符を手渡しながら、彼がスタンプールに電信でシンプトン・オリエント急行を予約したことを確かめた。
彼女はアレッポからロドニーヘ「旅行遅延、順調、愛するジョーンへ」と電報を依頼した。
ロドニーは彼女の最初の予定が失効する前に電報を受け取るだろう。
5日の平和で穏やかな期間、タウラス・オリエント急行は彼女をロドニーのところに運ぶだろう。
次の日の早朝、汽車はアレッポに着いた。
アレッポまでは乗客はジョーンしかいなかったが、アレッポ以降は寝台車は人であふれかえっていた。
ジョーンは一等車に乗っていたのだが、タウラス急行の一等車はオールド・ダブル・寝台車だった。
ドアが開いて、黒い服を着た背の高い女性が入ってきた。
ポーターに荷物の置き場所を指示した後、ジョーンの方を向いて微笑んで「英国人ですね」と言った。
40歳ぐらいに見えた。
「こんな朝早く入って来てごめんなさい。こんな時間に出発するなんて、野蛮な汽車ですわね。それに、二人用の旧式の寝台車でしょ」とあどけない笑顔で笑った。
「スタンプールまでたった二日なんですもの、仲良く過ごしましょう。もし私が煙草を吸いすぎたら注意してね。あなたの睡眠の邪魔をしないように食堂車に行って、朝食まで待つわ。お邪魔してごめんなさいね。」
ジョーンは「全然、大丈夫ですよ。旅行にはありがちの事ですもの」と言った。
「お優しい方ね、うまくやれそうね。」
彼女は寝台者を出て行った。
ジョーンは彼女がプラットホームで見送られているとき「サーシャ」と呼ばれていたのを聞いていた。
ジョーンが目を覚ましお化粧を済ませた時に汽車はアレッポを離れた。
通路を通るとき、同乗者のスーツケースの名札をちらっと見た。
プリンセス・ホーヘンバッハ・サルム。
食堂車で背の低い太ったフランス人の男と話しながら食事をしている新しい同乗者を見た。
プリンセスはジョーンに手を振って彼女にプリンセスの隣に座るように言った。
太ったフランス人は食事を終えて丁重にお辞儀をして出て行った。
ジョーンが「数か国語をお話になるんですね、すばらしい」と言うと、
「私はロシア人です。ギリシャ人の夫と結婚しています、イタリアで長いこと住みました。
人類に興味があります、ほんの短い時間しかこの地球に生きていないのですから。
電車は平原を越えてタウラウをゆっくり登って行った。
ジョーンはこの別の世界から来た女性に興味を持った。
サーシャは突然ジョーンに言った。
「あなたは本を読みませんね、英国人らしくありませんね。」
「実は、持って来た本を全部読んじゃって、読む本が無いです」とジョーン。
「でも、あなたには読書は必要なさそうね。そこに座って窓の外を見ているだけで充足している、でも景色を見ているわけではない。
自分自身を見ている、悲しみを抱えているの?それとも幸せ?
普通の当たり障りのない質問じゃなくて、不躾かしら。」
ジョーンは突然彼女の心の中をこの優しい、変な外人に打ち明けてみようかと言う気持ちになった。
彼女は、ゆっくりと、「そうなんです。わたしはびっくりするような経験をしたところなんです。」と、きりだした。
「私はテル・アブ・ハミッドのレストハウスで一人きりだったんです。
私は今まで考えたことも無かった、いや敢えて考えようとしてこなかった、自分自身の事について考え始めました。
それは、神に見放されたような感覚で。
その後、突然すべてが分かって、家に帰って最初からもう一度やりなおすべきだと理解しました。
バカげたことを言ってしまいましたわ。」
「いいえ、それは多くの聖人に起こることなんです。」
「私は夫を幸せにしてこなかった、家に帰ったら夫と、新しい生活を作っていく。」
サーシャは「それこそが聖人の出来る事なのです」と真剣な顔で言った。
ジョーンは「あなたはシンプロン・オリエントに乗る予定ですか」と言うと、
「いいえ、スタンプールで一泊してウイーンへまいります。私はそこで死ぬでしょう。」
ジョーンが驚いて、「あなたはそんな予感がするんですか?」
「いいえ、ウイーンに上手な医者がいて、そこで成功率の少ない手術を受けるんです。
ユダヤ人の医者ですが、ヨーロッパの全てのユダヤ人を撲滅すると言うのは間違っています。
私は手術が成功したら、修道院の入るつもりです。
戦争になったら、もっと祈りが必要になるでしょう。
戦争が来年か再来年に起きるでしょう。」
「どこで?どの国が?」と、ジョーン。
「世界中で。私の友人はドイツがすぐ、勝利するだろうと言うけど、私はそうは思いません。」
「私にはドイツにいる友達がたくさんいますが、彼らはナチ運動に支持すべきものがあると言っていますよ。」
「三年後を見ていてください。」
電車がゆっくり停車した。
「ギュレク峠に着きましたよ。さあ、出てみましょう。」
日没に近く、空気は冷たかった。
ジョーンは思った。
何て美しいのだろう。
ロドニーが一緒にいてこの景色を一緒に見られたらよかったのに。
Chapter12
ビクトリア駅
イギリスに帰って来られて良かった。
ロマンチックじゃないけど、なつかしいビクトリア駅、同じ景色、同じ匂い。
トルコ~ブルガリア~ユーゴスラビア~イタリア~フランス、長い旅だった。
アレッポからスタンプールまで一緒だったロシア人の女性も結局うんざりだった。
最初は楽しかったが、マルモラ海を通ってハイダー・パシャに向かう頃、自分が、貴族的なサーシャとは違い、中流階級の地方の弁護士の妻に過ぎない、と気が付いたのだ。
とはいえ、それも終わった事だ。
ロドニーには電報を打たなかったので、駅には誰も出迎えに来ていなかった。
グロスベナールで静かに一泊して、明日、クレイミンスターに行こう。
最初に、エイヴラルに電話して会おうかしら。
ホテルに着いて、お風呂に入り、服を着てエイヴラルに電話した。
「お父さんには知らせたの?」とエイヴラル。
「お忙しいと思ったので知らせなかったわ、お父さんはしょっちゅうロンドンにいらっしゃるの?」
「3週間前にいらっしゃって一緒に夕食を食べたわ。今夜は夕食を一緒にどうかしら、お母さん」
「疲れているので、あなたがこちらに来てくれる?」
30分後、二人は、食堂にいた。
エイヴラルはバーバラやバグダッドの事を聞いた。
会話は通り一遍でうまく流れない。
「エドワードはドイツとの戦争が起きる、って思っているけど」とエイヴラルは言った。
「汽車で一緒だった女性もそう言ったけど、私はそうはならないと思う」
とりとめもない会話で夕食が終わり、ジョーンはあくびをした。
次の日、朝ちょっとしたショッピングをして、2;30のクレイミンスター行きの汽車に乗った。
4時過ぎには着くだろう。
駅からタクシーに乗った。
アグネスが、ドアを開けて喜んでくれた。
「ご主人がお喜びでしょう」
ジョーンは寝室に上がって、帽子を脱いで、居間に降りて行った。
部屋はガランとした感じだった、花が生けてないからだろう、明日、角のお店からカーネーションを買って来なければ。
ロドニーに彼女がバーバラの事で想像したことを話すべきだろうか。
それは、ブランチェが言った事で、彼女の頭の中で想像したこと、真実ではないことだろうか。
子供の頃、楽しんで覗いた万華鏡がパターンに落ち着く前に見せる、ぐるっと回る感覚の様なものだ。
あのひどいレストハウスで考えた、不快な事。
子供たちが彼女の事を嫌っているんじゃないか、ロドニーがシャーストンを愛していたんじゃないか、ロドニーの農業をやりたいと言う考えをはねつけたこと、
みんな嘘だったんだろうか、分からなくなった。
この心地よいイギリスにいると、万華鏡が回らないでいる時のように、一つのパターンで安定している。
ロドニーが帰ってきた。
どちらの考えが真実なんだろう、あの熱い砂漠で考えたこと、それともこの心地よい居間で考えたこと、早く決めなければ・・・
「ロドニー、ただいまー」。
Epilogue
ロドニー スカダモアは妻が入れてくれるお茶を椅子に座って待っていた。
10月のいつもと違う温かさに騙された矢車草が窓ガラスを叩いていた。
コツコツコツ・・・
ジョーンが、「ティンクル、ティンクル、ティンクル」と呟いている。
音は人によっては意味があるが、人によっては無意味だ。
彼は、妻が帰ってきたときには何か変だと思ったのは、間違っていたのかもしれないと結論した。
いつも通りの彼女だ。
今は、彼女は二階に荷物を解きに行っている。
ロドニーはホールを横切って、事務所から持ち帰った仕事がある書斎に行った。
彼は机の小さな右上の引き出しを開けてバーバラから来た手紙を出した。
それはジョーンがバグダッドを発つ数日前に航空便で出された物だった。
詳しく書かれた手紙で、彼はその内容をほぼ暗記していた。
だから、私はお父さんに全てを話しました。
全ておわかりと思います。
私の事はご心配には及びません。
お母さんは何も知らないのです。
お母さんからその事を隠すのは簡単ではありませんでしたが、お医者様もウイリアムも上手くやってくださいました。
お母さんから、こちらに来ると言う電報をもらったときは、絶望しました。
お父さんがお母さんを止めようとしたことは知っています。
お母さんがこちらに来たことは、ある意味では、私たちにとって生活を立て直すために、良いことだったのです。
私は、モプシーが私だけのものだと感じ始めています。
彼女をお父さんにお見せできたらいいのに。
お父さんが私のお父さんでいてくれてうれしいです。
私の事は心配しないでください。
わたしは大丈夫です。
あなたのバーバラより
ロドニーは、一瞬、この手紙を保存しておいていいものか逡巡した。
彼は、職業上、あまりにしばしば手紙を保存する危険性を見てきた。
彼が突然死亡した場合、ジョーンがこの手紙を読んで、不要な苦しみを味わうだろう。
彼女には彼女が自分で作った世界の中で幸せでいてほしい。
彼はバーバラの手紙を暖炉に焼(くべ)てしまった。
そうだ、みんな大丈夫だとロドニーは考えた。
バーバラもトニーもエイヴラルも。
彼ら3人は今私の手を離れている。
ロドニーは書類を取り出して、暖炉の右側の椅子に座った。
「地主は貸借人が~に存在する農業用建物、土地および相続財産を受け取る事を許容し・・・」
かれは、読み続けて、ページをめくった。
「2個のトウモロコシを越える収穫物を、夏の休耕地以外からのいかなる耕地からも受け取ることを許容しない(注:ここの部分、私には意味が理解できませんでした)」
彼は手を緩めて、反対側の椅子を見た。
その椅子は、彼が子供たちとシャーストンが会う事が好ましくないことを彼女に説得した時にレスリーが座っていた椅子だった。
彼女は「結局彼は子供たちの父親です、そこにある物から逃げることから始まる人生とはどんな人生なんでしょうか?」
ロドニーは「彼女の言うことは理解できるが、同意はできない。」
彼と妻は子供たちに出来るだけの事をしてきた。
しかし、彼女の場合、子供に話した方がいいのか話さない方がいいのか逡巡するような倫理的な問題が有ったのだ。
そして彼女は話すべきだと考えた。
彼は、彼女が間違っていたと思っていたが、彼女の勇気は認めていた。
レスリーと勇気について議論した時の事を思い出した。
レスリーが彼の椅子に座っていて、彼女の髪が色あせた青いクッションで緑色に見えた。
「あなたの髪は茶色じゃありませんね、緑色だ」
これは彼が彼女に言った唯一の個人的な事だ。
彼女は疲れてはいても、ジャガイモの袋を肩で担げるほど強い。
彼女について思いだせることは、ロマンチックなことではない。
愛とは何だろうか。
彼女が椅子に座っているのを見て、青いクッションの彼女の緑の髪を見て、平安と充実を感じた。
彼女が、「私は今コペルニクスの事を考えているの」と突然言ったときの様子。
コペルニクス?
世界の権力と妥協して、検閲を通るように神への忠誠を本にして書いたあの、世界を違う形だと考えたお坊さん。
彼は、少なくとも一度は、彼女に愛していると言うべきだったのではないのか、と考えた。
その必要があったのだろうか、一緒に、しかし離れて、あの10月の日の光の中のアシェルダウンで座っていたあの日。
お互いに別の方を見ていた。
彼女は「しかし、あなたの永遠の夏はあせない」と呟いた。
そのとき、その使い古された引用句の意味を、彼は理解しなかった。
しかし、毎日そこに座って彼と話をした、最後の6週間。
勿論、空想の中でだけど。
空想の中のレスリーは、彼女の横に彼のための椅子を用意してくれて、「永遠の夏はあせない」のだ。
彼はもう一度、契約書の書類に目を落とした。
「そして、すべての点で、善良な意思を持って当農場を保持しなければならない。」
ドアが開いて、ジョーンが入ってきた。
「ロドニー、電気を付けないとだめじゃないの。いつもそうやって、目が悪くなるじゃないの、ちょっとスイッチをひねればいいだけなのに。私がいないとあなたはダメなんだから。」
「いつか、あなたが、叔父さんの申し出を断って、農場をやりたいって言ったときの事を、覚えている?」
「覚えているよ。」
「私が止めたのを、あなたは感謝しているの?」
ジョーンはつねに、私にとって良い妻だった。
「ところで、僕がバグダッド旅行を羨ましがっているのは知っているよね」
「面白かったけど、あんなところに住みたいとは思わないわ。」
「砂漠はどんなふうだった?すばらしいんだろうなあ、強い光、はっきり見えて、素晴らしそう・・・」
ジョーンは彼の話をさえぎって「ひどいものよ、何もないんですもの」
彼女は、部屋を見まわして「そのクッションはひどく古くなっているわね。新しいのを買わなくちゃ。」
変えない理由は何もない。
シャーストンは教会の墓地の大理石の墓碑の下にいるのだ。
ジョーンは歩き回って部屋を片付けた。
確かに、この6週間は、部屋は片付いていなかった。
「休日は終わった」とロドニーがつぶやくと、「なんて言ったの?夢を見ていたんじゃないの?」
彼女は、壁の絵に目を止めて「これは何?新しい絵?」
「ハートレーのセールで買ったんだよ。」
「コペルニクス? 価値がある物なの?」
価値とは何だろう。
「可哀そうなシャーストン夫人」と言うが、彼女は悲しんではいなかった。
勇敢に人生を歩いていたのだ。
彼女は賢くて有能で、いつも忙しくしている成功者なのだ。
彼は、急に、彼女がかわいそうになった。
「可哀そうな、小さなジョーン」と彼はつぶやいた。
「可哀そうってどう言う事?私は小さくないわ。」
「可哀そうなジョーン、僕がここにいるよ。」
「私は一人じゃないわ。あなたがいる。」
「そう、君には僕がいる。」
しかし、彼はそれが嘘だと知っていた。
君は一人なんだ、しかし神様、どうか彼女がその事に気が付きませんように。
『完』