「ピアノ教室の生徒」ウィリアム・トレヴァー
“The Piano Teacher’s Pupil” in the short stories of “ Last Stories” by William Trevor
https://www.pdfdrive.com/last-stories-e196887020.html
「ブラームスを練習しましょう」と彼女は言った。
ブラームスはナイチンゲール譲と少年の最初のレッスンだった。
少年は黙ってメトロノームを見つめていた。
彼が第一楽節を弾き始めた時、彼女は天才と一緒にいる事を知った。
50代前半の、すらりとした、穏やかな話し方をするミス エリザベス・ナイチンゲールは自分の人生は幸運だったと思っていた。
彼女は父親の遺産を受け継ぎ、ピアノの先生の収入で何とかやってこられた。
結婚しようと思えばできたかもしれないが、そうはならなかった。
というのは、いつか妻と別れるという男と、16年間付き合ったが、そんなことにはならなかったからだ。
彼女は後悔したが、男を恨むことはなかった。
ナイチンゲールの父親はチョコレート職人で妻を亡くし、一人で彼女を育てた。
父親は彼との関係を死ぬまで気が付かなかった。
父親の思い出と彼との思い出が今のナイチンゲールの心の支えだ。
しかし、彼女の新しい生徒の弾いた曲の興奮は、今まで子供に対して感じたことのない「天才」を感じさせる興奮だった。
彼女は、指示した箇所の終わりに近づいたとき、「少しだけ速く」と注意した。
「「それと、とても柔らかに」って書いてあるでしょ」と言って、鉛筆でその箇所を示した。
少年は黙っていたが、前と同じ様に微笑んでいた。
彼のブレザーの胸ポケットにはくちばしの長い鳥がひなに餌を与えている、鳥を描いたバッジが付いていた。
青いブレザーに赤い鳥のバッジ、趣味が悪いわ、とナイチンゲールは思った。
「もう少しゆっくり練習した方がいいかしら?」と言った。
少年は、立ち上がって、譜面に手を伸ばし、自分の譜面ケースにそれを入れた。
「金曜の同じ時間に」と彼女は言った。
彼は頷いた。
彼の内気さは、他の生徒のぺちゃくちゃしゃべるうんざりするような煩さに比べ、好ましく感じた。
彼女は帽子掛けに架かっている同じ鳥の柄のエンブレムの付いた彼の帽子を手渡した。
彼女は、彼が後ろ手に門を閉めるのをドアのところに立ってしばらく見ていた。
彼女は、彼はあんな短いズボンで寒くはないのかしらと思いながら、手を振った彼に、手を振り返した。
来週の月曜日のフランシス・モーヒューのレッスンまでレッスンは無いので、客間を片付けた。
片づけ終り、自分用にシェリー酒をグラスに注いだ。
少年の母親から少年がちゃんとやっているかどうか尋ねる電話が来たら、母親には何も言わないだろう。
彼がレッスンを早めに切り上げたことは、少年と彼女の秘密だ。
母親とは馬鹿な生き物だ。
4月の夕方は冷たいので、彼女が、少し長く座っているときは、電気ストーブをつけた。
その年の、才能も興味も無い大部分の子供たちへの励ましと指導は実を結んだのだ。
この少年がいたので、人選を迷う事も無く演奏会を行う事ができた。
彼女の2杯目のシェリー酒が終わるまで、もう少し座っていた。
私の人生は全てこの部屋の中だったわ。
子供の頃、お父さんが大事に育ててくれたこと。
激動の思春期には、毎夕、父は自分が作ったチョコレートをかれの厨房から持って来てくれた。
彼女の恋人が「君は美しい、君なしでは生きていけない」と囁いたのも、この部屋だ。
暗闇の中を電灯の壁のスイッチの方に歩いて行った。
灯をつけカーテンを閉めたとき、部屋の中の変化に気が付いた。
窓際のテーブルの上の嗅ぎ煙草の箱が無くなっていた。
次の金曜日には、陶器の白鳥が無くなり、大いなる期待の1シーンの描かれたポットが、彼女が取りはずしたイアリングがなくなった。
少年が使うにはチャラすぎるスカーフも日曜の朝探したときはホールの壁掛けにはもうなかった。
スタフォードシャーの人形の兵隊もなくなっていた。
彼女はどうやって彼が盗んだのかわからなかった。
彼も、気付かれていると思っていなかったので、落ち着いた雰囲気だったので、わたしの勘違いなのかしら、と思った。
また、他の手癖の悪い子供が盗んだのか、前に盗まれていたのに気が付かなかったのかも、とも思った。
しかし、彼女の言い訳は、すべて砕け散った。
彼がショパンのプレリュードを弾いているときに有った薔薇の蕾の形の文鎮が、彼女が彼を見送りに行って帰ってくると、なくなっていた。
彼女は少年といる時は先生ではなかった。
教える事はほとんどなかったが、彼が彼女が聞き手として存在する事にかれが価値を持っていることはわかっていた。
彼は自分の演奏の対価として、物を盗んでいるのだろうかとも考えてみた。
そんなことはない。
夢を見た。
夢の中では少年は不幸で、曲を弾き終えた時、彼女は少年を慰めたいと思っていた。
彼女は「私は父親のチョコレートを箱から盗んだことがあるのよ、でもその事をお父さんには言えなかったのよ」と、少年に言おうとしても、できない、と言う夢を繰り返し見た。
彼女は、彼女の父が本当に彼女の目から見た通りの人だったのかしら、彼女の愛した人が本当は彼女の愛を利用していただけだったのかしら、本当はお父さんのチョコレートが目的だったんじゃないかしら、などと言う考えが暗闇の中で目覚めた彼女の頭の中に浮かんできた。
そんな考えが、何度振り払っても浮かんできた。
盗み何てたいしたことじゃないわ、大した品物じゃないし、まだたくさん残っている。
もし彼女が盗みの事を話せば、生徒は二度とレッスンには来ないだろう、そんな小さな過ちは許します、と急いで付け加えても。
春が過ぎ暑い夏が10月の雨の季節まで続いた。
その間、毎金曜日の午後、玄関のベルが鳴って、帽子掛けに帽子をかけている彼がいて、ピアノの前に座って彼女を天国に連れて行ってくれた。
ミス・ナイチンゲールのその他の生徒たちも来たが、少年だけはレッスンの時間を変更したいとは言わなかった。
グラハムはペットのために家出の練習ができなかったと言った。
ダイアナは泣いたし、コリンは指を怪我したと言ったし、アンジェラはあきらめて止めてしまった。
金曜日の午後だけは平穏に予定通りに過ぎて行った。
しかし、少年が去った後には、微かに残る音楽に「馬鹿にされた感じ」が残った。
季節はまた何度も移り、少年はついに来なくなった。
少年が大きくなって音楽のレッスンや学校を受ける時期が終わってしまった。
ミス・ナイチンゲールにとって、彼がいないことは静かな日常に戻ったわけである。
もし父親が昔のまだ思考がまとまらない私よりも今の私に無関心であったらどう対応したんだろう。
もし、最愛の恋人がこんな思いを見くびっていたとしたらどうなんだろう。
彼女は、彼が示したもう一つの技術の犠牲者でもあったのだ。
彼女自身の人を容易に信じてしまう性格やそうあって欲しいと言う事を信じてしまう性格の犠牲者なのだ。
全ての事は事実なのだと感じる一方、もう少し知るべきことがあるような気もした。
そのずっと後の事、少年は背が高くなって、不格好な青年になって帰ってきた。
盗んだものを返すわけでもなく、まっすぐ歩いて来てピアノの前に座って、彼女に曲を弾いてくれた。
弾き終わって、彼女の意見を聞こうと待っているときの彼の笑顔は不可解なものだった。
ミス・ナイチンゲールは、彼を見た時に、知るべきことの内容が分かった。
あの不可解さは驚嘆それ自体だったのだ。
彼女は人間のもろさが、それ自身に備わっている愛や美と関係していると思いこもうとしていた。
そこにあるのは心を打つ平衡、それだけで十分だったのだ。