人間とは何か、自我とは何か、過去は現在の私たちとどのようにつながっているか(読書メモ)
後期旧石器時代:4万年前〜
私が生きてみた時代の最初のものは後期旧石器時代の初期(およそ四万年前から三万五千年前)で、そのころ「現代的行動」がはじまった。わかりにくい言葉だ。これから見ていくように現在の人間の行動は、(自分では考えることも感じることもないとしても)後期旧石器時代の狩猟採集民の行動から劇的な変化をとげている。「現代的行動」が意味するもの、それが進化した場所については、数多くの異論が存在しているが、私の目的にとってその議論は重要ではない。
その時代の狩猟採集民は(そして現代まで生き残っている小数の狩猟採集民は多くの場合)放浪の民であり、親密に、あがめるように、多くの場合は恍惚として、大地と、また数多くの種ともつながり合っていた。彼らは長寿で、病にもあまりかからずに暮らし、人間どうしの暴力沙法は稀だった。ほとんどの人にとって定住は選択肢になく、もし定住することがあったとしても、あまり魅力的なものではなかったはずだ。広大で豊かな、常に変化するビュッフェでいつでも食べものが手にはいるというのに、なぜ毎日毎日同じラスクをかじる必要があるのか?
現代人と後期旧石器時代人の最も重要であきらかな違いは、衣服でも、毛深さでも、身体的な頑丈さでもない。それは、彼らの世界市民主義と移動性、私たちの自国中心主義と定住性だ。後期旧石品時代の人々は冬のあいだを除いて、広範囲に、親密に、多様に旅してまわり、新しい場所に行くごとにそこの霊と新しい協定を結んで飢えずにすむような手だてをし、そのたびに知性が息づいた。一方の私たちの旅は、同じ場所のあいだを(同じ施設と同じ食べものが揃った同じ箱のあいだを)行き来するばかりだ。そして座っていれば、あるいは前かがみになっていても、寝そべっていても、開けた口にカロリーが降ってくる。
どんな活動であれ、その活動を他者と共有すれば、エンドルフィン放出の効果ははるかに強力になる。これは進化の上で完全に道理にかなっている。もしダンバーのモデルが正しいなら、グルーミングは(シラミを捕まえるのでも、冗談を言うのでも、太鼓に合わせて足を踏みならすのでも)きずな形成の目的で自然選択に採用されてきた。そしてきずな形成の可能性を最大化するのは、抜け目のない経済学になる。だが何か別のことが起きているのかもしれない。おそらく人間社会では、積極的な参加そのものが選択されているのだろう。参加者には見返りがあり、自らを第三者の立場に置いた傍観者は生物学によって、次に共同体によって、脇に追いやられることになる。
新石器時代:1万年前〜
二番目の時代は新石器時代で、一般的には一万二千年前から一万年前ごろにはじまり、青銅器時代の幕開け(今から五千三百年前ごろ)まで続いたと考えられている。
狩猟採集民の一部が、一年のうちのある時期だけ定住し、残りの季節には放浪の旅を続けるという暮らしをするようになった。そうした人々が大地を管理しはじめたことに疑いの余地はないー組織的な農耕が出現するよりずっと前に、おそらく自分たちが食べたい果物の木を植えることによって、そこが自分たちのものだと主張したのだろう。だが最終的には、分割が現実のものとなった。放浪の民が放浪をやめた。彼らの地理的な世界は狭くなり、膨大な数にのぼる種について知ることも、そうした種とつながり合うことも、もう必要がなくなった。ただ、小屋の裏手の野原にいる原牛(オーロックスを手なずけ、小型化したもの)と、大きな種子をもつ特別なイネ科の草を一種類だけ知っていれば、やっていけるようになったのだ。自然界とのつながりは、あらゆるものへの畏敬の念、あらゆるものへの依存から、二、三平方フィートの大地と二、三の種をコントロールする形に変化した。
新石器時代は家畜化・栽培化の時代で、多くのもの(穀類、ヒッジ、ヤギ、ウン、ブタ、そして自分たち)が飼いならされた。だがそのすべての前にあったのが、火を手なずけて利用できるようになった過程だ。その糸口を開いたのは、ホモ・エレクトゥスとホモ・ネアンデルターレンシスだった。火は、稲妻として天から落ちてくるか、燃えるメタンガスとして水から溢れ出してくるか、激しくぶつかりあった石の火花がコケやキノコに宿るか、火打ち石の中に眠っていたものが打ち合わせることで呼びだされて、人々の手に渡った。
火が果たした役割は偉大だ。ライオンを追い払い、食べものからそれまで無駄にしていたカロリーを利用できるようにして脳と体を立派にし、太陽の力を超えて昼間を長くし、狩猟採集民たちが焚火のまわりに集まるにつれて共同体の中心となった。火はまた、一度生まれると繁殖の手を休めることはないから、実り豊かなものの象徴とみなされたかもしれない。だがこれらはすべて、より思い上がった支配の前触れにすぎなかった。火は、自然界に対する無差別兵器(大量破壊兵器)として使われるようになったからだ。そのような使い方は、やがて人間と、自然界にあるほかのすべてのものとのあいだに、くさびを打ち込みはじめた。
啓蒙の時代:300年前〜
啓蒙は、新石器時代にはじまった革命を継続させ、体系化した。そして新石器時代にはじまった人間と自然界との離婚手続きを完了させた。離婚の仮判決はデカルトの著作の全集で、離婚確定判決はカントによって署名されたと言える。その結果、宇宙から体系的に魂が抜き取られてしまった。それまでは(そうだ、あのアブラハムの一神論の時代にさえ)あらゆるものに何らかの魂が宿っていた。
啓蒙は人間以外の世界から魂を消し去った。宇宙は今や機械と化し、具現化された何らかの本質によってではなく、自然の法則によって統治されるようになった。法則は本質よりはるかに面白味に父ける。
デカルトは現実を、物体と精神という、二つの互いに情報をやりとりしない領域に分割した。それは最初、無害なものに思えたにちがいない。ただの物知り顔の哲学的分類だ。だが結果は破壊的だった。心または魂(好きなように呼べばよい)が突然、人間以外のものから消えてなくなったのだ。私たちはその不在を、私たち自身の時代の生態学的暴行と、直接結びつけることができる。魂のあるシカを殺すことや魂のある木を切り倒すことには、すべての狩猟採集民が知っていたように、何らかの強固な道徳的正当化が必要になるだろう。だが、ただの機械を壊すことに、人が苦悩することはあまりないだろう。世界とその人間以外の住民が、そういう存在になったからだ。