「だれか」に面白いと思ってもらえる文章isコレ
大学4年生にもなって、いまだに論文の書き方がわかっていない。普通の大学でないから許されてきたのかもしれないけど、期末レポートくらいは「教授がおもしろいと思ってしまう文章」を書けばいいものだと、鷹を括っている。鷹を括るって、変な言葉だ。
むかしから、読書感想文は好きだった。強制的に告げられる課題図書は好きじゃなかったので、もくじと裏表紙にあるあらすじ、半分より後ろのクライマックスとされるあたりを数ページ読んでから感想文を書いていた。夏休みの宿題の中で、いつもいちばんに終わった。ヤマカンで書いた読書感想文は大人たちに好評で、何度か賞をもらった。そのたびに、わたしはこの本を読んでないのになあと、自分でしでかしたことなのに虚しくなったものだ。
大学4年生の割に単位が取れていなかったから、通常2年生でとるような授業に参加した。短編を読んで分析していくような授業。期末レポート以外に課題はなかったので、出席してぼーっと100分過ごす、といったような無駄なのか有意義なのかわからない時間を過ごしていた。
期末レポートは、全授業で扱った小説を一編、もしくは数編用いて自分なりに自由に論じよ、という大まかな課題内容だった。わたしは論じることは苦手だけど「自由に」することは得意なので、読書感想文を思い出しながら自由に、短編小説に思いを馳せた。大浦康介の短編『AD』から考える、死について。
自由に書いた割に良い評価をもらったので、ここでもだれかに読んでもらいたいと思う。わたしが教授におもしろいと思ってもらえるような文章をかけた、ということだから。
「きみたちの年齢でアプローチできる死への考え方」と、先生は言った。21歳8ヶ月。『AD』を読み返しながら、遠くにあるような、近くにあるような「死」について思いを馳せてみる。
私は小さいころから、漠然とした死への恐怖を持っていた。それは案外「こわい」と口に出せるほど簡単なものではなくて、だれにも言うことができずひとりで得体の知れない恐怖と戦ったものだ。2歳下に弟が生まれて、生のよろこびを目で感じたときも、それは私をずっと怖がらせていた。口にすればもっと恐ろしいことが起きるような気がして、それが見えていないふりばかりしていた。
2歳下の弟と、私は長いあいだいっしょにお風呂に入った。裸の付き合い、とはよく言ったもので、そこではお互いをなんでも曝け出すことができた。学校のいやなところ、友達のけんか、きらいなたべもの。そんな私たちだけの空間で、あるとき弟が言い出したのは、死への恐怖だった。
「自分が死んだらどうなるか、そもそも今存在している自分が何者なのか、考えると怖くなる」
弟の話を聞いて、お風呂で火照っているはずの身体がどんどん冷めていく感覚がした。私がずっと言わないようにしていた恐怖を、彼は簡単に言ってしまった。彼はこの恐怖を私に分けて、楽になろうとしている。私は2年早く、この恐怖とひとり戦っているというのに。幼少期特有の意地悪心なのか、はたまた言葉にすることの恐怖が続いていたのかわからないが、私は弟の言葉に「そうなん」としか返さなかった。「わかるよ」とも「私も」とも、言わなかった。おでこに汗をかいた弟は「ぼくだけなんかなあ」とだけ言って、それ以降はこの話をしなかった。あれからすぐ私たちはいっしょにお風呂に入らなくなったし、ふたりきりの密室空間も失ってしまったからそんな深い話をすることはなくなったけど、いつかお酒を飲み交わしたら弟のほうからぽろっと出てくるんじゃないかとすこし恐れている。私は大人になった今も、死の恐怖を口にすることをまだすこし怖がっているから。
授業で扱われた『AD』は、人間が永遠に生きる術を持った世界の話だ。肺にはフィルターをつけて、脳にはチップが入り、身体の補修もできる、そんな世界。人々はみんな百歳以上生きていて、それが普通の世界。永遠に生きることのできる世界には、ADボタンという自動死亡装置があって、それを押すと一応死ぬことができるという。
この『AD』について、作者である大浦先生は「永遠の命は、身体が持っても心が持たないだろう」と言った。
そうなのか。私は永遠の命を持ったことがないからわからないけど、この話の世界にいてもADボタンを押そうとは思わないだろう。私にとって死に対する恐怖は、心がおかしくなるくらいのものだからだ。だから、私は死について長い時間考えることを避けていたし、言葉にして論じようとするのも避けてきた。詳しく話すと、心臓が痛くなり意味もわからない恐怖で精神が悲鳴をあげることを知っていたからだ。
ただ、この世界はADボタンがない、永遠の命もない世界だ。私が毎朝目を覚ますたび、呼吸をするたび、私は確実に死へと近づいている。否が応でも、私は死ぬ。あと数年で政府がELA政策(Eternal Life for All)を実行しない限り、変わらない事実だ。安楽死も認められていない今、そう簡単に政策が変わることはないだろう。だから私は、絶対に死ぬのだ。あれだけずっと怖がった死を、経験せねばならないのだ。恐ろしい。死というものは、わからないから恐ろしい。
ずっと不思議だった。世界のなにも知らない幼少の時分から「死」を恐れんでいるのはどうしてなのだろう、と。遊具の名前すら知らない私は「死」という言葉さえもわからないはずなのに、ずっと怖がっていた。それはもしかするときっと、永遠にわからないことへの恐怖だったのかもしれない。『AD』の中の人が「永遠に生と向き合うこと」を怖がっていたとしたら、私は「永遠に死と向き合うこと」を怖がっていたのではないだろうか。そしてそれは、自分が死ぬときまで、向き合わないといけないからこんなにも恐ろしいのではないだろうか。
福岡に住む母方の祖母が亡くなったとき、福岡へ向かう後部座席で怒り泣いた。小学6年生のときだ。あれは私にとって初めての死の証明だった。あまりにもあっけなく、人は死んでしまう。私も、まわりも、きっと同じように死んでいく。それを身に染みてわからされたような気がして、祖母に腹が立った。病院の人があたりまえのように祖母を看取ったことにも腹を立てた。人が死ぬということを、あたりまえとしている顔だった。この人たちは恐怖をもたないタイプの人間なんだと驚いた。けれど21歳になったいま、私は当時の病院の人たちと同じ顔ができると思う。私は、いまだ恐怖は持てどそのあたりまえさは十分心得た。生きるということに、死は必ずついてくる。
生まれるということは、いつか死ぬということだ。私たちは死ぬために生まれてきたのだろうか。何のために生まれてきたのだろうか。150年も生きれば、私はその謎を解明することができるだろうか。それとも、いま私が持っている死への恐怖よりもおそろしい精神崩壊が私を襲ってくるだろうか。
死について思いを馳せるということは、私にとって苦しいことだった。しかし、必ず訪れると受け入れ始めた今、『AD』という作品を通してしっかり考えることができたのはとても運が良かったかもしれない。いつかこの世界でも「ADボタンを押してもいいな」と思える日が来るように、がむしゃらに生きていきたい。これがわたしの「きみたちの年齢でアプローチできる死への考え方」だ。
こんなエッセイのような文章でいい評価をもらえるなんておかしい! と思う方もいるかもしれない。まあ、いいのだ。わたしはこれで教授の口角をすこし上げられた、その事実だけがある。
過疎集落で育ったわたしは、最近ようやく死のあたりまえさを知った。この町では、毎日のように人が亡くなっている。
それがあたりまえで、避けられない出来事だということを、わたしは毎晩、お悔やみのお知らせが来る電話の前でただ見つめている。見つめて、受け止めて、それからなにをすればいいのかは、まだわからない。まだ、生きていてほしかったと無責任にも思ってしまうような子供なのだ。顔も知らない、この町に住んでいたことしか知らないだれかに、毎晩そう思うしかないのだ。
大人になっても、わたしはこうして「生きていてほしかった」と駄々をこねる人間でいたいと思う。それがたとえ自分本位でも、ただのエゴでも、わたしはいつまでも、そういう人間でありたい。
と、大浦康介の『AD』を通した期末レポートを通して、思ったのでした。