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想像力 part 2
真夜中、実家の庭で煙草を吸う。喧騒なんてどこか異国の話、静寂ばかりが耳を撫でる。ときおり、なにかの気配。
右を見やる。玄関の常夜灯に照らされて、見慣れない虫。飛んでくる種類のやつだったらいやだなあ、昨日は足元にサワガニがいたな、などと考えて立ち上がる。
もうなかに入ってしまおうと決意するにはいささか煙草が長い。なんとなく、散歩に 出ることにする。
街灯の間隔は夏でも長い、次の灯りは遥か遠い、そんな道。それでもその日は快晴、視界に不自由はない。
歩く、歩く。
そういえばこの道を歩くのはほんとうにひさしぶりかもしれないと思う。なぜって、記憶よりもとても狭く感じるから。左手に深い川、右手に用水路ひとつ飛んで田んぼ。
子供のころに父さんと散歩したとき、父さんは僕を抱えたまま落とすまねごとをして、僕はそれを楽しんでいたっけ。ジェットコースターとかバンジージャンプとかそういったものが好きなのは小さいころから変わらない特性かもしれない、などと考える。いまならこのくらいの川だったら落ちても這い上がってこれる。
もう少し歩く。
このトンネルは最近工事をして、真新しい白いコンクリートの壁が夜でも明るい。むかしはトンネルの向こう側になにかを見てしまう気がして夜はあまりそちらを見れなかったなあ。
川の向こうの林に猛獣が住んでいる、友達とそんな噂ばなしをしたことがあった。この一画だけ土手まで木が生い茂っていて、その片隅には古ぼけた古屋がある。御伽話の世界に迷い込んでしまわないように、ここの橋には近づかなかったなあ。
あまり長い散歩をするつもりはない。角を曲がる。
夜の静寂に不穏な空気を感じ取っていたのは、その奥に潜み得る死の予兆を怖れていたからか。ならいま清々しさに包まれているのは、死を怖れなくなったから?
その真偽はわからないけれど、僕はきっと「この夜」を怖るるに足る想像力を失くしてしまったということ、それはなんとなくわかる。
自らに完結する事柄に限定すれば、それが確定的な未来だと言い渡されるのであればそれを受け入れることに怖れはない、と思う。そこに足掻く余地があるからこそ、間違えまいと手が震え、不安と焦りが恐怖を呼ぶのだと思う。
全て終わってしまえばそこには一切の想像力がないのだから、一切の想像力がない状態を想像するに足る想像力を身につければ、きっとそれは怖るるに足らない。自らに完結する事柄に限定すれば。