論点放棄 #4
生命について。
僕はprocessingというプログラミング言語を用いて、「generative art」あるいは「creative coding」と呼称される営みに取り組んでいる。
一般に芸術性とされるもののカケラも持ち合わせていない僕ではあるが、アーティストと称されるひとは一貫したテーマを持つことが多いように思える。
見様見真似ではあるが、僕もそういった一貫したテーマというものを標榜している。
それは具体のレイヤーに寄せて言うなれば「人工生命」である。
生命性というようなものがある事象から見出せるのであれば、それはどのような状況下で生じるのか。それをgenerative art あるいは creative coding から見出そうと思うのである。
つい先日、ジェネラティブアート・アワードという公募イベントにそのうちのひとつの結実を投稿した。それは個人としてはひとつマイルストンとなるような作品だった。
僕は一般に芸術性とされるもののうち、特に視覚的芸術性を欠いている。具体的にいうと、generative art あるいはcreative coding と呼ばれる営みのアウトプットとして、純粋な「見栄え」にはあまり重点を置いていない。
ではなにに重点を置いているかというと、理論と構造、言い換えればシンタックスとセマンティクスである。
僕はgenerative art あるいはcreative coding と呼ばれる営み自体を理論と構造により作品を表象するものだと考える。
ジェネラティブアート・アワードに応募した作品については、その「理論と構造により作品を表象する」ことを作品として表象した。
客観的に判断していい結果が与えられるとは考えていないが、それでもひとつ「自分はこういう考えのもとにこの営みに向き合う」という指針を打ち立てられたのである。
さて、そこで「人工生命」に立ち返る。
ちかごろ僕はその一貫したテーマに基づく作品づくりを再開した。そのなかで「人工生命」に対するそれまでとは異なるアプローチに行き着いた。
すなわち「在る生命」を抽象化するのではなく、「在り得る生命」を抽象化するのである。
もちろん抽象化というのはある具体的な対象が「在る」ことを前提としているため、それは基本的には「なにを生命らしく感じるか」という人間の感覚だよりになることは否めない。
そのなかで僕は、「高次元の生命」という表現に思い当たった。
詳しくは次回に述べることとする。