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伏線回収。
ふとしたきっかけで、伏線を回収したような気分になることがある。
明言した目標、ずっと昔に見た夢、アンドソーオン。生活ってやつは一作品としてパッケージングするには冗長的時間の割合が大きいから、まあ映画みたいに綺麗な伏線回収とはいかないけれど。
その日、僕は無目的な買い物のついでに無印良品に立ち寄った。
僕にとって無目的性を目的とした時間の使い方(ウィンドウショッピングとか)は滅多にしないことだが、目的性を持った買い物の手段として実店舗に足を運ぶこともまた珍しいことである。だっていまではボタンひとつで大抵の「購入」は完了するから。であれば僕にとっては買い物自体珍しいのか、そのわりに預金残高は毎月息の根を止められる寸前、虫の息、風前の灯。まあいいや、冗長性を削減。
とくに目的はなくとも、収納用品や生活雑貨のコーナーを覗き込んで面白そうな商品があると得をした気分になる。それを手に入れたあとの生活が豊かになるような錯覚を覚える。所詮は錯覚、大量生産時代の名残り、錯覚を覚えた時点でその錯覚から得られる利益の大部分はすでに僕たちの手のなかにある。余談だが作詞作曲と錯視錯覚はずいぶんと語感が似ているように感じられる。偶然か必然かあるいはこれも錯覚か、少なくとも冗長であることに変わりはない。
旅行用品のコーナーで「自立するクリアポーチ」という商品が目に入った。僕はモノを整理するのが得意ではないようで、出かけたあとでどこになにをしまったのか忘れてしまい、カバンのなかで行方不明者を続出させることが多い。ポーチやバッグインバッグの類はたくさんもっているしいつも利用しているが、結局どのポーチになにをしまったのか忘れてしまう。
自立するクリアポーチ。サイズ感もちょうどいいし、なにより外からでも中身を確認できる点が気に入った。これなら少なくとも「そこになにが入っているか」は容易にわかるだろう。値段も手頃だし、せっかくだからと買ってしまった(こういうところに預金残高が低空飛行している原因があるのだろうか)。
買い物を終えてカフェでひと息ついている時に「そういえば」と思い出した出来事があった。
昔、友達と一緒にクリアポーチを探していろんなお店を見てまわったことがあった。
彩り豊かな化粧道具が外から見えるように、どこになにをしまったかがすぐにわかるように、手頃なサイズのクリアポーチがほしいと彼女は言っていた。一緒に映画を観に行った日、待ち合わせから上映までの時間に、近場のお店を見てまわった。
無印良品でサイズや透明度がちょうどよいクリアポーチが見つかったものの、そいつにはマチがなく、彼女はお気に召さなかった。いっぽうでマチがあるタイプのポーチもあったけれど、そいつは透明ではなかったため、当然ながら彼女はお気に召さなかった。
探すのを諦めて僕たちは映画館に向かった。彼女は「無印だったら売ってそうだったのにね」と言っていた。僕は「そのうち販売されるかもね」と答えた気がする。透明で、マチがあって、小物をいい感じにまとめられる、そんなポーチが無印良品で販売されればほしいひとは多いはずだ。
その日観た映画は僕が観たいと言ったものだったが、SNSでも話題になっていたらしくその友達もそれなりに興味を持ってくれていた。いわゆる社会派の要素を含んでいて、社会悪である主人公の内面を丁寧に描いた作品だった。
僕はその映画にとても満足したのだけど、その友達が思っていたものとは違ったようだった(流行りの映画としてはいささかグロテスクな描写が多かったと思う)。
映画のあとで、僕たちは近くのカフェに入った。たしか僕は作品についてはあまり触れなかった。お互いの好きな映画のジャンルが異なることはなんとなくわかっていたし、もちろんそれらが重なる部分に位置する作品だと思ったから一緒に観に行ったわけだけど、「あまり面白くなかった映画についてそれを好むひとの前で語ること」は彼女にとっていくらか気を遣う必要がある行為だろうと思ったから。
じゃあなにについて話したのかと聞かれればそれは思い出せない。僕に思い出せたのはただ、クリアポーチを探して、映画を観て、カフェに入った、そういう友達がいたことだけだ。
あれから何年経ったのか、すぐには正確な答えを用意できない程度には時間が流れた。クリアポーチについてそんなやりとりをしたひとがいたことすら、僕は忘れていた。
その友達と一緒に観に行った映画はそのあと何度か配信でも観た。「その友達と観た映画だ」という印象は「ただ僕が好きな映画だ」という印象で上塗りされてしまった。関連作品はいくつも公開されているし僕はそのほとんどを観に行ったけれど、そのたびにいちいち彼女のことを思い出すことはなかった。
それは間違いない。だって「自立するクリアポーチ」を目にして初めて、その友達とクリアポーチを探しまわったこと、そのあとにその映画を観に行ったことを思い出したくらいだから。
無印良品の「自立するクリアポーチ」を手に入れて僕は、「ああ、たぶんあの日の出来事は伏線だったんだろうな」と思った。なにか謎が残っていたわけでもないし、ものがたりのキーになるわけでもないけれど、ひょっとしたらなにか意味があったんじゃないかと思えるような伏線。
投げっぱなしで連載が打ち切られてしまうようなささいな伏線かもしれないけれど、僕はちゃんと回収できた。
それなりに長く生きていると、あれにはなんの意味があったんだろう、あとにはなにが残るんだろう、と思う出来事がいくつかある。もしかしたらそれを覚えているのはこの世で僕ひとりだけであるような局所的な出来事。
それなりに多くの集団に所属してきて、いまの世の中でさえも偶然に頼らなければ再接続できないようなつながりがいくつもあって、ほんとうにたまたま一時的に道のりが交わっただけなんだろうなと思うひとびとがいる。
僕がいちいちそのようなひとびとを思い出さないように、そのようなひとびともこの先僕を思い出すことはないかもしれない。
でももしかしたらそのうちの何人かは、僕がそうしたように、そのつながりをただの舞台装置ではない個別具体的な関係として記録してくれていたかもしれない。そうだったらいいなと思う。
彼女はいまどうしているんだろう。クリアポーチは見つけただろうか。