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対象不在の罪悪感
当たり前だけど、どうにも腹が減るときがある。
僕は日常的にコーヒーを飲むし、煙草を吸うし、胃が弱いため、うまく調整すればドーナツ二個だけで一日分の食事を終えることができる。
ただうっかりやなので、そういった調節無しで例えばお酒を飲んでしまうと、無性に腹が減ってしかたがなくなる。
一時期は本能を理性で制御するゲームとして、空腹を簡潔にやり過ごすことを楽しんでいた。しかしいまは時々自分がそういったことを楽しんでいたことを忘れてしまい、腹の虫に従って食事にお金をかけてしまうことがある。
ひとりである程度の金額の食事をするとき、僕は罪悪感を覚える。
ある程度の金額といってもそう高い基準ではなく、かつて一食分の食費と言われていた五百円が目安だ。
自分がなにに対して罪悪感を抱いているのかはわからない。ただなんとなく「こんなに食事にお金をかけていいのだろうか」と思ってしまう。
はっきり言ってお金には困っていない。好きなものは好きなだけ買うタイプだし、それなりにきちんと働いておりそれなりにきちんと給料を受け取っている。
それでもなぜか、ひとりでの食事という純に利己的な行為にコストをかけることに申し訳なさのようなものを覚えてしまう。
ほかにいくらでも「純に利己的な行為」はある。食事よりよっぽどお金をかけているものもある。でもなぜかそれらに対してはそう頻繁には罪悪感を抱かない。
そもそも罪の意識というのはなにかしらの対象が必要なものだと思う。だからこれはただ色合いが「罪悪感」のそれと近い、「罪悪感」とは別の感情だとも考えられる。
そう考えられたところで、いまのところこれ以上の分析的な経路は用意されていないのだけれども。
とにかく僕は食事に対して費用をかけることに罪悪感のようななにかを抱くのだ。
罪悪感を必要としないいくつかの「処置」が、僕を「費用のかかる食事」へと駆り立てる。であればその前段階である「処置」を控えればよいのでは、とも言える。けれどその「処置」はまたなにかほかの問題に対処するためのものであるため、そう簡単に切り捨てるわけにはいかない。
どん詰まり、という感覚はもちろんこの年齢になればさまざまな分野で想起されるのだけれども、明確な原因無しに食事に対してそれを覚えるひとはそういないのではないかなと思う。
まあ、なにが普遍的でなにが普遍的でないかはいち個人が判断できることではないか。