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淫欲


ケイジュのオイタが発覚したのは、彼の家のベッドで夜戦を繰り広げた数十分後のことだった。その日は春の爽やかさが一日中続くような、とても心地の良い夜だった。

戦のあと、ケイジュはいつも裸のまま果てるように眠ってしまう。今も私の隣ですうすうと寝息をたてている。気持ちよく眠るケイジュの素肌に、私の素肌を重ねる。生暖かい体温が直に伝わる。そんな満たされた布団の中に身をゆだねていたとき、ふと枕元のスマホが光った。

<明日の夜ヒマ?家泊りに行っていい?>

画面に映し出されていたLINEの差出人はユリだった。ユリは私の友だちだ。裸で寝ている隣のケイジュを紹介してくれたのもユリだ。

明日の予定を頭で調べる。未定であることを確認する。私はユリに返信するべく、ロック解除のため顏認証の動作に移った。

でも、何故かロックが解除されなかった。何回やっても開かない。失敗が続いたせいでパスコードに切り替わってしまい、今度こそはと丁寧にケイジュの誕生日を押した。それでも私のスマホは開かなかった。

そうか、これはケイジュのスマホか。そのときになって私はようやく気付いた。彼と私は同じ機種を使っている。スマホカバーも100円ショップで売っていそうな、この世で一番個性のない透明なやつをお互い使っている。そのせいでケイジュのスマホを私のスマホだと勘違いしてしまったのだ。

ん…?

であれば何かおかしくないか。咄嗟に浮かんだ疑問に、スマホを持つ手が微弱に揺れた。

ケイジュのスマホにユリから明日家行っていい?のLINE。これはいったいどういうことなのだ。え?これってもしかして…

心臓がラストスパートを仕掛けるランナーのように走り出した。ドンドンドンと、内側から拳で殴られるように胸が暴れた。夜戦で火照った体から発せられたものとは違う汗が私の体を滲ませた。

ゆっくりとケイジュに視線を向ける。震える手をもう片方の手で支えながら、スマホをそっと彼の顔にかざす。すると今までのことが全て噓だったように、スマホのロックは簡単に解除された。

な、何かの間違いだよね…

そんな希望が入る余地もない会話が、ケイジュとユリのトークルームでは行われていた。


※※※


あれから数か月が経った。ケイジュのオイタが発覚して、私たちはすぐに別れた。その後、ケイジュはユリと正式に交際をはじめたらしい。別にどうだって良かった。もちろん私とユリの関係はあの日に終わった。

私にも新しい彼氏ができた。名前はオダマキ。同じ学校に通うオダマキ君は、彼と別れて傷心していた自分を何かと気にかけ励ましてくれた。そんなある日、はじめて二人で飲みに行った帰りに一夜を共にし、そこから付き合うことになった。

オダマキ君は本当に優しい。とことん沈んだ私を笑って過ごせる日常にまで引き上げてくれたのは間違いなくオダマキ君だ。しかし、彼も人間で欠点がある。それはケイジュと同じく、すこし女にだらしないところだ。

オダマキ君とはじめて一夜を共にした朝、オダマキ君にはすでに彼女がいることを知った。キッカケはまたスマホに届いたLINEだった。差出人が完全に女性の名前だったので問いただしてみると、そういうことだった。

彼女とはもう別れるから。そう言ったオダマキ君を私は信じることにした。でも、全てを信じきるのは今の私にとって不可能だった。実際、そう言った後も、オダマキ君には怪しい行動が垣間見られた。その度にケイジュと別れたあの夜がリピートされ、人を信用することに躊躇してしまう自分がいた。

<男ってみんな浮気するの?>

ケイジュと別れてからはじめて、私は彼にLINEをした。特に理由はなかった。しいて言えば、オダマキ君に感じてしまう鬱憤を、最悪なことをしでかしたケイジュにならぶつけても問題ないだろうと思ったのかもしれない。

<だからあの日ことはごめんって。本当に悪いと思ってるから>

返事はすぐに返ってきた。ケイジュは私がまだあの日のことを根に持ってると思っているのだろう。まあ、持ってないと言えば嘘になるけれど。

<違うよ。普通に質問してるの>

素っ気なく返したLINEがすぐ既読になる。

<え?何?また浮気でもされたの?>

頭に血が高速で登った。この男は何故こんなことを私に対して軽く言えてしまうのだろうか。ハンマーか何かで頭を…いや、さすがに頭は危なすぎるから足のスネでも殴ってやりたい。誰かに何か大きな危害を加えたいと思ったのは、これがはじめてのことだった。

でもよく考えれば、私が浮気をしていた方なのかもということに気付いた。オダマキ君が別れると言った彼女にとっては、あの時のユリと私にそう大差はないだろう。

最低だな。

そう自分に悪態をついたと同時にスマホが鳴る。

<ごめん、怒った?>

返事を返さなかったケイジュから、つづけてLINEが届いていた。



※※※



<明日ヒマ?家泊りにきてよ>

オダマキ君からのLINEに、私は明日の予定を頭で調べた。予定は未定だった。でも、何となく気が乗らず、そのLINEには既読をつけず私は別のトークルームを開いた。

<男ってみんな浮気するの?>

以前、ケイジュに聞いてみたLINEをもう一度ケイジュ宛に送った。あのLINEを送ってから一か月程度がたつ。あれから私たちはまた連絡をとるようになっていた。そのことをユリが知っているのかは知らない。ていうか、多分知らない。

<多くの場合はね。でもそれは、その数と同じだけ女も浮気してることの証明でもあるわけだけどね>

悟ったような口調が鼻につく。でも、ケイジュの言うことはこの世の真理にすら思えた。だって、相手がいなければ浮気はできないのだから。

先日、隙をついてオダマキ君のスマホを調べた。そこには私の危惧していたことがそのままデータとして残されていた。でも、問いただすようなことはしなかった。だからオダマキ君は、私が全て知っていることをまだ知らない。

<確かに。そうかもしれないね>

ケイジュのLINEに返信する。

続けてオダマキ君に<いいよ。泊まりにいく>と返した。

明日はオダマキ君の家に行こう。で、何にも知らない顔をして、抱かれるならそのまま抱かれよう。心じゃなく、もう生理的な何かに身を任せよう。

幼虫に寄生する蜂が幼虫の腹を食い破って出てくるように、いつしか私の中にある大切なモノから、どろりとした黒い液体が漏れ出した。それは今になっても尚、止まる気配はない。残念ながら。そのことを考えると、私の目から一筋の涙が伝った。

「てかさ、何でLINE?一緒にいるのに」

はにかみながらケイジュは、私の隣で言った。ここ、ケイジュのベットの上で。あのときと同じように、お互い下着すらつけないで。

涙がバレないように、そっと手で拭う。

<好きだよ!>と描かれたスタンプがオダマキ君から届く。

「ねえ、もう一回しようよ。アザミ」

ケイジュが私の首筋に唇を寄せる。

<私も好きだよ>とオダマキ君に返信する。

ケイジュのスマホが光る。ユリからのLINEが表示されている。

ケイジュの唇から伸びる舌が、這うように私の胸まで降下する。

体が火照る。

私はケイジュのスマホをそっと裏返す。

部屋には6月のじっとりとした空気が満ち満ちている。

我に缶ビールを。