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・RSBC世界における日本駆逐艦の発展 「第一次大戦終結後から海軍休日時代における日本駆逐艦の発展(1919~1939)」

RSBC世界における「新時代の幕開け」

 さて、RSBC世界における日本駆逐艦考察の第三回となります、海軍休日時代の考察をはじめたいと思います。

 第一次世界大戦が終了すると、戦犯国であるドイツの処遇を巡って英国と米国は対立を深めていきますが、当然ながらこの対立に英国との同盟者である日本もまた巻き込まれる事になります。
 加えて日本は、第一次大戦中に四〇センチ砲を持つ<長門>級戦艦を竣工させていたため(講和条約締結前の1919年中に竣工)、未だ16インチ級戦艦を保有していなかった米国がこれに対抗する新型戦艦の量産を開始することになり、対立の当事者となってしまいます。
 もちろん、周辺国と強調せずに強力な戦艦を建造したからこその合衆国の反応なので、自業自得の感があるのですが、こういった流れで、大平洋を挟んで日米間での建艦競争が本格化してしまいます。

 さてこの時期の日本海軍は、第一次世界大戦中に艦隊型駆逐艦ではなく、護衛駆逐艦の量産を行ったことで、史実と比べRSBC日本海軍の保有する駆逐艦部隊の戦力がいびつなものとなっている事は、前回の考察の最後で簡単に述べました。

 一方で、この時期の合衆国は、第一次大戦中から建造をはじめた、大量の1000t級駆逐艦からなる有力な駆逐艦戦力を有していました。

・ウィックス級駆逐艦
 常備排水量 1,090トン
 速力 35.3ノット 航続距離 2,500海里 (20kt巡航時)
 兵装 4インチ砲×4、3インチ砲×1、3連装533mm魚雷発射管×4
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E7%B4%9A%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6

・クレムソン級駆逐艦
 常備排水量 1,190トン
 速力 35.5 ノット 航続距離 4,900 海里(15 kt巡航時)
 兵装 4インチ砲×4、3インチ砲×1、3連装533mm魚雷発射管×4
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%A0%E3%82%BD%E3%83%B3%E7%B4%9A%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6

 通称、フラッシュデッカー(平甲板型)と呼ばれたこの艦艇の武装は4インチ(10.2cm)砲4門と21インチ(53.3cm)魚雷を3連装発射管4基を持つ強力な戦闘力を有しており、たとえば、ようやく竣工が始まったばかりの峯風級と比べても、火力こそ12cm(4.7インチ)砲4門で勝っていますが、雷撃力は53センチ魚雷を連装3基しか有しておらず、総合的な性能ではほぼ互角であり、むしろ魚雷が多い分、対大型艦戦闘では優越しているとさえ言えました。
 そのような駆逐艦をこの時期、合衆国海軍は280隻近く保有していたのです。

 日本海軍が欲していた、ようやく起工を開始した大型駆逐艦を、すでに膨大な数竣工させている合衆国駆逐艦部隊は、日本にとって恐怖以外の何者でもありません。なにせそれ以前の日本の駆逐艦は45センチ魚雷を4門とか6門装備しているだけでしかなく、とても敵戦艦を積極的に襲撃出来るような艦艇ではありませんでした。しかし、合衆国は違います。日本の有力な戦艦群に対し、少数でも肉薄出来れば雷撃によりあっという間に戦線を離脱させることが可能な能力を持っています。そうなれば、海戦の結果は日本の敗北になるのは目に見えています。

 もちろん、巡洋艦を量産し、敵駆逐艦を味方戦艦に突入するまでに迎撃出来る環境を整えることも考えられますが、そもそもの問題として相手の隻数は文字通り桁外れであり、とても全てに手が回りません。
 なにより、第一次大戦の結果、改定された八八艦隊計画で巡洋艦の建造ペースが遅れていることもあって、その増強は一朝一夕では済みませんし、戦間期に入っても、戦艦や巡洋戦艦のような大型艦をどんどん起工している状況では当然ながらそんな余裕もどこにもなかったのです。

 ですから、早急にこの戦力差を埋めることが、駆逐艦ジャンルにおけるRSBC世界で 日本海軍の目標になります。

 そのためにはまず、フラッシュデッカーと互角に戦うことが出来る駆逐艦の整備が必要になります。
 それまでの大型駆逐艦として12センチ砲4門と砲武装はそのままに、魚雷を45センチから53センチへと拡大し、航洋能力を強化した峯風級及び神風級駆逐艦が、史実通り建造されるでしょう。
 史実では合計42隻が計画されていますから、計画は同数行われた、考えておきます。

・峯風型 建造実数15隻
 基準排水量 1,215トン
 速力 39ノット 航続距離 3,600海里 / 14ノット
 兵装 12cm単装砲4門、53cm連装水上発射管3基
 日本駆逐艦として初めて53センチ魚雷を搭載。防衛用に一号機雷を搭載。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%AF%E9%A2%A8%E5%9E%8B%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6

・神風型 建造実数9隻
 基準排水量 1,270トン
 速力 37.25ノット 航続距離 3,600カイリ / 14ノット
 兵装 12cm単装砲4門、53cm連装水上発射管3基
 峯風型の改良型。防衛用に一号機雷を搭載。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%A2%A8%E5%9E%8B%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6_(2%E4%BB%A3)

 しかし、仮に計画通り42隻が建造されたとしても合衆国の280隻と比べれば7倍もの差が付いています。

 史実ではこれら大型駆逐艦の建造と平行して樅型や若竹型といった800tクラスの二等駆逐艦を平行生産することで、戦力差を埋めることが計画されました。
 しかし、こういった手段はRSBC世界では行われないと思われます。なぜならば、この世界の日本海軍はすでに<樺>級駆逐艦を60隻以上も保有しており、ハイローミックスをする必要が薄いためです。むしろ、船体はあるわけですから雷装を45cm魚雷から53cm魚雷へと交換したり、一号機雷を搭載するような改造を図る方が安くすむでしょう。もちろん、魚雷や機雷の生産量により装備出来ない可能性もあるでしょうから、そこは新造駆逐艦への配備を優先されることにはなるでしょうが。

 とはいえ結局の所、これらは対処療法でしかありません。米駆逐艦の迎撃を行うには巡洋艦のような駆逐艦が必要とされることになるわけですが、そういった駆逐艦は細かな仕様の策定から始まって、新規に設計を行う必要があり、何年も準備が必要となります。

 その間を埋める手っ取り早い手段は、すでに峯風級、神風級といった駆逐艦で実行されている、すでに設計の終わっている大型駆逐艦の生産、およびその小改造型の量産となります。

 この流れで立ち上げられるのが睦月級駆逐艦です。
 同クラスは神風型を元に、その武装を53センチ魚雷から61センチ魚雷へと拡大させ、対艦打撃力の強化を狙いました。いろいろあって起工自体は遅れますが、計画としてはこの時期から考えられていたのです。

 なおこの時期、二等駆逐艦の建造を取りやめることになれば大型駆逐艦に建造が集中出来ますから、この時点では史実と比べ4隻程度は大型駆逐艦が追加されることになるでしょう(神風級あたりで)。もっともこれ以上の建造数の増加は難しいと思います。なぜなら、史実より速く長門級戦艦が2隻とも竣工している上、ワシントン条約開催時の時点で加賀級戦艦は竣工直前まで進捗しているであろう事、および天城級4隻と思われる巡洋戦艦(注1)の建造は13号艦の船殻がほぼ完成していることを考えるならば全艦進水までは終わっているであろうことが想像出来ますから、いかに第一次大戦で日本が儲けることに成功したとはいえ、これほどまでの量の海軍予算を獲得することはしごく難しいと思えるからです。単純に考えて進水した戦艦の数で見ても5~6隻分は海軍予算を史実以上に使っていることになるためです(注2)。

注1:4隻とも進水している場合、巡洋戦艦としての艤装工事の十分進んでいる艦が空母改装されることは難しいと思われるので、RSBC世界の天城級は3、4番艦を改装した可能性が考えられることから、巡洋戦艦時代のクラス名は天城級で無い可能性が考えられるためあえてここでは確定していない。

注2:八八艦隊時代に計画された紀伊級に関しては13号艦級と建造が入れ替わったと考えるのが自然と思われる。つまりこの時点では未起工としておく。

 ところがここで事態は急変します。世界大戦も終わったことで各国で軍縮の機運が巻き起こったことにより、1921年にワシントン海軍軍縮会議が行われる運びとなったからです。

ワシントン条約体制下での新造駆逐艦

この時点での日本は、戦艦の数こそ史実より多いものの、補助艦艇については史実と比べ絶望的な状況です。
第一次世界大戦で護衛駆逐艦を大量建造した歴史改編の影響により、巡洋艦は<天龍>級が建造されていませんし、駆逐艦では樅型、若竹型といった二等駆逐艦を作れていないためです。

・日米駆逐艦戦力比較(53センチ魚雷搭載艦)1922年時
史実
 米国 284隻
 日本 39隻
RSBC
 米国 284隻
 日本 20隻

 この様な状況では日本としてはワシントン条約を調印し、戦艦、空母の保有制限もやむ無しとならざるをえなくなります。これらの艦種について対米比率は8割に制限されることになりましたが、もちろんこれは悪い話ではありません。むしろ、それまでおざなりにされていた小型艦の整備に時間を掛けることが出来るようになるからです。

 こうして日本海軍は時間を掛けて駆逐艦整備計画を見直すことをはじめました。建造中であった神風級駆逐艦は史実と同様、途中で打ち切り、代わりに搭載魚雷を直径61センチへと拡大した睦月級の建造へとシフトさせます。次いで、睦月級の武装を5割増しとしたもはや小型巡洋艦とも言うべき大型駆逐艦──特型として知られる吹雪級駆逐艦の建造を開始することになります。

 特型が世界に与えた影響についてはここでは深く触れません。
 日本海軍としては、特型の完成によって、合衆国の有力な平甲板型駆逐艦を撃破出来る特型24隻と、互角以上の性能である睦月級12隻で3個水雷戦隊を確保し、予備戦力としてフラッシュデッカーと互角の峯風級、神風級からなる2個水雷戦隊24隻を用意できたことが重要だからです。

・日米駆逐艦戦力比較(61、53センチ魚雷搭載艦)1932年時
史実
 米国 259隻
 日本 90隻(内36隻は61センチ魚雷搭載艦)
RSBC
 米国 259隻
 日本 65隻(内36隻は61センチ魚雷搭載艦)

 史実の状況で考えた場合、米海軍は対日戦で駆逐艦の半数を投入したとしても7割の隻数を日本海軍は確保出来ている事が分かります。
一方RSBC世界の場合は同条件だと対米5割となってしまいますが、日英同盟の影響もあって米国に対する負担は大きいことが予想出来ますから、極端に不利とは言えない状況となっていることがうかがえます(注3)。

注3:RSBC世界では1928年以降に軍拡を合衆国が開始したものの、その計画は大恐慌で失敗しているが、時期的に起工が早かった駆逐艦などがいた場合、少量ながら竣工させた可能性は十分考えられます。その場合は駆逐艦隻数比は五割を切ることが予想されます。

 これにより、日本海軍にとって大きな課題であった、十分な護衛艦も無い主力艦の数ばかり突出していた艦隊は、大小の艦艇からなるバランスの取れた艦隊へと成長することになりました。
 日本にとって、24隻もの建造が行われた特型の本当の価値は、そういった点にあったと言えるでしょう。

 さて、特型の完成により、明治時代の六六艦隊以来、再びバランスの取れた艦隊を保有する事が出来ました。日本にとって次の課題は、この状態を維持、発展させていくことになります。

制限体制下における日本駆逐艦の発展

 かくして特型整備により一息付けた日本は海軍休日時代を、外伝である九九九艦隊計画概論の中で記述されていた、「技術研究は行う一方で、建造に関しては既存の旧式艦の代換えで対応していく」方針で過ごす事になります。

 この時期に建造されることになるのが、作中にも登場した、初春級から陽炎級までの44隻です。隻数は史実と同数にしていますが、これは旧式駆逐艦の代艦建造を行うという名目で進める場合、前回想定した樺級の日本保有数の68隻と比べ随分少ないのですが、ワシントン条約体制下という時期的に軍縮がなされ、艦長職のポスト削減もやられたということだとすると問題ないのではと考えております。

 さて、このうち初春級と白露級は、無駄に合衆国の軍拡を引き起こさないよう特型を小型化することに努力したものと考えて良いのではないでしょうか。なにせ無くなったとはいえ1928年の合衆国の軍拡計画があった直後ですから、徴発するようなことは控えるべきなのです。
ちなみに作中では白露級はクラス名が出ており、また若葉も登場していることから初春級も存在すると仮定出来るでしょう。

■初春級駆逐艦
 基準排水量:1400 トン 速力:36.5 ノット
 武装:12.7cm 連装砲2 、同単装砲1 、61cm 三連装魚雷発射管2

■白露級駆逐艦
 基準排水量:1685 トン 速力:34 ノット
 武装:12.7cm 連装砲2、同単装砲1、61cm 四連装魚雷発射管2

一方、続く朝潮級と陽炎級は、1933年以降の合衆国のローズヴェルト大統領が進める海軍増強に対応するため、大型駆逐艦として建造されたと考えることが出来るでしょう。

■朝潮級駆逐艦
 基準排水量:2000 トン 速力:35 ノット
 武装:12.7cm 連装砲3、61cm 四連装魚雷発射管2

■陽炎級駆逐艦
 基準排水量:2000 トン 速力:35 ノット
 武装:12.7cm 連装砲3 、61cm 四連装魚雷発射管2

 以上を踏まえまして、第三期の総轄に入ります。

 海軍休日時代のRSBC日本駆逐艦は、それまで問題であった保有兵力上のいびつな状況を、特型駆逐艦という存在でバランスの良い戦力とすることが出来ました。
 その後は、合衆国の動向を見ながら、旧式艦を新型艦と入れ替えることでこの状態を維持するべく、努力が行われ、それに成功します。

 技術に奢った結果、第四艦隊事件といった不幸な事故はあったものの、おおむね日本駆逐艦にとって充実した時代であったと言えるでしょう。

 こうして、日本は、自国防衛を行うにたるだけの駆逐艦部隊を所持した状況で1939年を迎えることになります。

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