秋が終わる 子持ち鮎が並び始めたとき そしてそれを、口にしたとき 秋が終わる 私にとっての秋の終わりは、この子持ち鮎ー黒く、大きくーを調理し、口にすることである どうしてそんなに美しい形をしているのだろう 鮎は年魚ともキュウリウオとも言う 本当にキュウリの香りがする。水で洗うときの、まるで手の中で泳ぎだしそうな どうして 初夏、小さな鮎を目にしたとき、夏が来る 今年も夏が来る 今年はヤナで塩焼きを食べたと思う 長良川で、鮎菓子の新作の味を試したと思う
ご自由にお書きください。 好きだ。この台詞、白紙の感動、無限の原稿用紙、電子データの羅列。 言語の意味論という学問領域があった。言の葉をあつめてはほうきで掃除するように、記号化された文字に意味を見出しては、一日いくつもの文章をつくっただろう。そして発話しただろう。 正直、時間がない。書いている場合ではない。 人生とは時間である。そして記憶の束の集合であるか。 カマキリがまだいた。秋だというのに。悲しいかな。カマキリは秋虫を食べては消化し、いずれはモズに食べられるか落
Urban Settlement 都会とは何か、都市とは何か。ある人は言う。それは建物と街路の構成であると。たしかにそうかもしれない、建物が、まず隙間もなく敷き詰められていては入口もなく機能しないから、機能させるためには街路が存在するのである。だから都市とは建物の集中そして街路のひろがりかもしれない。そう感じさせるのに東京は十分である。都心の高層ビルのアイデンティティ、そしてそれに連なる住宅街の海、コンクリートの羅列、数式の支配。 [丸の内] 来る去るの差異はともあれ
千曲川は千に曲がって、信濃に雪はあるか。というところである。最近はどうも心が落ち着かない。というのは全く一週間後に迫った渡米行のせいであって、どうにかこの気を紛らわす必要が出てきたのである。それで結局のところ私は切符をとって、始発で庵を発ったのであった。 目指すは信濃、雪の積もる信濃。薄暗い夜明けの関東平野がだんだんと紫だってきて、日がのぼる頃に上州を過ぎた。その関東平野はいつ眺めても広大であった。その大いなる大地の外延部の一角を占めている上州の山脈は、普段都内からは霞
雪見がしたい。東海人はしばしばそう思うことがある。それゆえすべきことが終わったらば速やかに、国境を越えて越後へ行こうと計画していた。しかしながらその計画は、吹きすさび積もりに積もる大雪で列車の運行が止まってしまったとのことから、雪の下に埋もれることになった。だがこの空白日を家に籠っているのはなんとも憤慨することで、全くこの塞ぎ込んだ心持を吹きとばしたくてしかたないから、また甲斐路を行くことになった。 甲斐路といえども、この度は甲府を過ぎて、小淵沢から信州小諸、上田に連な
地名というものはその名を聞くだけで心躍らせるものである。たとえば富良野、この言葉の浮遊感と幻想的な語感は実によくこの土地を印象付けていると思う。水上、これはその字のごとく川上を表していて、上州から越へと向かうその懐に清水がながれているあの景観を思い出させる。とても清らかな名前である。 赤城という名もまたそういった名前である。この地名の由来は定かではないが、山肌が赤いから赤城山なのだという話がある。つまり赤き山ということ。実際、確かに赤いような気がしなくもない。ただどちら
かねてからNoteという存在は認知していたし、”気になっていた”が、ついに書き始めてしまうのであった。今まで具体的な対人によく文章体を書いてきたものであるから、不特定多数に向けて書くというのは久しい。だから、珍妙な心持ちのするものである。 さて結局のところ、このように文章体を書いてしまう癖は趣味としての文芸が好きだからであろう。しかし新聞の社説のように書き溜めた何かを不特定多数に公開することに意味はないだろう。ただし、書き溜めた何かをまとめておくことには、ある種の自己満