見出し画像

アニメーションとは馬鹿馬鹿しく不自然で非現実的な芸術であると信じぬ者に、アニメーションを見る資格はあるだろうかーー『ルックバック』

 画面に映っているのはただの絵。奥行きもない単なる平面。無数の一枚絵の連なりが表示されていき、それを目にした者は運動が発生していると錯覚する。アニメーションとは、単に誤った判断を下している知覚に律儀に従い、およそ現実とかそれに伴う真理だとか、あるいはアウラだとかそういった概念とは無縁の子供騙しの代物である。あるいは言葉を喋る動物だとか、戯画化されたキャラクターだとか、非現実的なロボットだとか誇張された顔をもつ美少女キャラだとか、扱ってきた題材故にアニメーションが如何に馬鹿馬鹿しく胡散臭い代物であるかは誰もが知っている※1。そのアニメーションと距離の近い、だけれども議論によっては度々対立項として存在する映画もまた一コマ一コマの連なりで成立するメディアだが、論者によっては否定の対象として存在する。同じ矩形の画面に仮現運動を表示していくのだから本質的に違わないように見える映画とアニメーションだが、ある種の映画好きにとっては後者は興味の対象になり得ないようだ。

 悪いことに、私にとってアニメは映画とは異なるものになってしまう。さらに悪いことに、アニメは映画の敵のようなものになってしまうだろう。記録されたものを前にしたときの感情-畏敬の念と震え-の存在しない「美しい映像」ーましてやそれが描かれたものになるとなおのことーに、私は耐えられなくなるはずだ。

セルジュ・ダネー『不屈の精神』

・・・(略)わたくしは、アニメを原則として映画の範疇に加えていません。あれは映画に似た何ものかであると思いますが、よく似ているという点で、映画とは本質的に異なる何ものかなのです。(略)それは、いま、生きた被写体を撮っていることの緊張感というものが、アニメの画面には欠けているからです。

蓮實重彥『ショットとは何か』

 (西欧の美学の伝統から反しているが故に)映画のいかがわしさを常に意識している蓮實重彥だが、彼にとってそのいかがわしさは知的な意味を持っている。彼にとってアニメーションの持つ馬鹿馬鹿しさとは、知的な意味を持ついかがわしさとは違う。品的な意味で知的対象になりえないのだ。所詮漫画。ロボットだとか美少女キャラだとか、旧華族の出身者にとっては程度の低い芸術にしか写らないとしても、それでも我々はその胡散臭さを自覚しつつも動く絵に感動を覚えてしまうのもまた確かである。どこまでいっても子供騙しでしかないが、その上で価値を見出してしまうこのどうしようもない感性はややもすれば厄介だが、それ自体価値があると信じなければアニメーションを見続けることはできないし作ることもできない。アニメーションを馬鹿馬鹿しく不自然で非現実的な代物だと受け入れた上でなお信じること。
 ある種信仰にも近いその願いに満ちている『ルックバック』を、アニメーションの持つ先の要素を自覚していない者がその画面に接したとき、それは果たして”見た”と言えるのだろうか。例えば、四コマ漫画が描かれた紙片が扉の下の隙間にスッと入り込むようにして落ちていく場面を見て、そこに重力という力が作用したとごく真っ当にそして自然に思うことほど凡庸極まりない感性とは思いはしないか(重力をモチーフとしてメロドラマを描いた退屈極まりない某映画のパロディとして描いたとしてもだ)。冒頭BGで描かれた町の俯瞰をただT.Uするカットから、町がセル描きの背動へと切り替わり、そのまま主人公の住む部屋を目指してカメラが近づいていく様が重力とはまた違う引力の作用が働いているとしか見えないように、先の紙片が落ちていく場面もまた異様な引力に導かれて扉の隙間に入っていくようにしか見えない。そこに理屈などない。そもそもアニメーションの画面というものは自然法則という窮屈極まりない制限、制約(あるいは弾圧)から解放された自由空間である。自然科学とやらとは無縁の不自然にも程がある奔放さで描かれる線と色(あるいは3DCG)とが演じる享楽である。そうした姿勢が画面の隅々まで伝わってくる『ルックバック』はだから理屈から解放された馬鹿馬鹿しく不自然で非現実的な作品に他なるまい。拙い四コマ漫画を拙いままに律儀にアニメーション化するあたりが特にその馬鹿馬鹿しさに拍車をかけていよう。
 この作品は線の喧騒に満ちている。原画のラフな線を動画であえて清書せずにそのまま残した結果、画面は線の喧騒に満ちることになる。キャラクターなど線と線で繋いだ”形“に過ぎないとも受け取られかねないほどにそれは徹底している。線を清書せずにはみ出し線やピクセルゴミのように見える線の消し忘れを意識的に取り入れ見る者にとってはノイズにしか見えないものの、しかしこの不自然さは問題にならない。不自然なほどの線の喧騒。それが顕著に画面に表れるのはセルの背動のカット以外にない。うまく中が割っているように見えてもどうしても(特に)キャラクター以外の背景部分のガタガタが印象に残ってしまう。しかしだからこそ素晴らしいのだ。不自然故に素晴らしいのである。自然に見えるとこのカットの持つ強度が格段に落ちてしまう。道理に反するこの矛盾にこそこの作品の持つアニメーションの輝きがある。
 主人公が描いた四コマ漫画のオチで擬人化された隕石が地球に落下するのは重力が働いているからとどうして言えよう。転生したかつての恋人とキスするためという馬鹿馬鹿しく、はしたなく、だけれでも滑稽なあのオチを、理屈な力が働いているからと解釈することほどアニメーション的感性から程遠いものはない。
 不可思議な引力のアニメーション運動を馬鹿馬鹿しく不自然で非現実的なものとして描くこと。そうした姿勢を象徴するのが先の挿話なのであり、不可思議な引力が時空を超えて漫画の紙片を主人公たちに送り届ける場面によってその非現実性は頂点に達する。個人的に亡き友が描いた四コマ漫画を読む際に台詞や擬音を馬鹿馬鹿しく音響化したことに深く感動を覚えた。どんなに陰鬱な場面でもこちらの都合など一切考えずに常に馬鹿馬鹿しさを届けてくれるのがアニメーションなのである。
 映画のいかがわしさとはまた違いアニメーションの馬鹿馬鹿しく不自然で非現実的な性質はそれ自体価値がある。『ルックバック』はこの性質を擁護し称賛した作品であると言える。











※1このアニメーションの持つ複雑ないかがわしさを自覚していない人が多いと感じる。視聴者も作り手もアニメーションを真面目に考えすぎている。うまく言語化できないが、視聴者は真面目に感動を覚え、作り手も真面目に感動を与えようとしている。アニメーションなど所詮馬鹿馬鹿しく不自然で非現実的なものだと一旦考慮した上で見る/作ることの重要性を改めて人は認識すべきである。

いいなと思ったら応援しよう!