企画展 ぼくは井戸である〜「牛をつないだ椿の木」考〜 雑感
この記事は、令和5年4月15日〜7月2日に新美南吉記念館で開催された企画展、「ぼくは井戸である~「牛をつないだ椿の木」考~ を観覧した際の備忘録になります。
新美南吉記念館についての私の感想は別記事をご参照ください。
「牛をつないだ椿の木」とは?
新美南吉が死の直前に書き残した童話群のひとつで、原稿を託された兄弟子・巽聖歌によって南吉の死後に出版された第二童話集の表題作です。
制作時期は、死の前年である昭和17年5月19日ということが解っており、同時期に猛烈な勢いで多数の作品を書き残しています。
(昭和16年4月3日の日記に、タイトルがメモされているため、作品の構想自体は執筆以前からあった?)
解説パネルによると、南吉文学にみられる特徴を多く備えた、南吉らしい作品とあり、自身の創作に対する姿勢を重ね合わせた作品として紹介されています。
短い話なので、ぜひ一読して下さい。
作品は以下のリンクから。
晩年、死を覚悟していた時期に少しでも多くの作品を残そうと執筆していた中で、以前より構想のあったこの作品が選ばれたという背景を考えると、そこに南吉の強いメッセージが込められているのは想像に難くありません。
「牛をつないだ椿の木」の主人公・海蔵のモデルとされているのは、都筑弥厚という江戸時代後期に三河国に実在した豪農で、水不足に苦しむ農民の為に用水計画をたて奔走した人物であり、南吉が「弥厚を本にして死のうと思った」と昭和17年1月の日記に書き残すほど、この人物に強い思い入れがあることが察せられます。
海蔵は、共用の井戸を掘り、その水で喉を潤す子どもの姿を見届けて、思い残すことは無いと自分の仕事を見届けることは出来ましたが、弥厚は志半ばで亡くなる……というところは違いますが、弥厚が海蔵のモデルであると言えるのは確かなようです。
作品自体は現在にも通じる普遍的なものであるため、一読しただけの読者の心にも老若男女問わず響く作品となっていると思いますが、このような背景を知ると南吉のこだわりが、より深く理解できそうです。
南吉らしい童話とは?
解説パネルや図録などには、南吉文学に共通するものとして以下の点が挙げられることが多いようです。
・母こい
・ふるさとの風景とそこに生きる人々の姿
・人間の二面性
・他者とのつながり
確かに、広く知られる「ごんぎつね」や「手袋を買いに」にも、共通する点であると言えますね。
「牛をつないだ椿の木」も、井戸の完成を願うあまり、自己中心的な考えを口にしてしまった海蔵を叱ってくれる母の姿が描かれています。
また、ふるさとの風景としても、岩滑新田から半田に繋がる丘陵「新田の棟」が「しんたのむね」として描かれ、実際にそこを行き来する人たちの様子や、人力曳や井戸掘りという仕事が、周囲の人への取材を元に描かれています。
人間の二面性に関しても、協力してくれる人もいない中で好きなお菓子を我慢しても、みんなの為に井戸を掘るため奔走する海蔵が、自分のその悲願のために地主の死を望むような発言をしてしまうという、善良な人の持つ悪という二面性を描いていることが解り易いです。
人間の二面性と別の視点から見た地主
もうひとつ注目したいのは、地主が怒った理由についてです。
椿の木は、椿油などの高価なものの原料にもなります。強欲な地主が商売道具を牛に食べ尽くされて、その損失の為に激怒し、二年経っても井戸を掘ることすら許さないくらい根に持っている、ように見えます。というか、普通に童話の悪役として読むとそう読めます。
ですか、解説パネルでは、もし地主があの可憐な花を楽しみにしていたとしたら……? という地主の視点が問われていました。
そこで私も、地主がなぜ怒り、死を目前に覚悟してもなお、井戸を掘ることを許さないのかを自分なりに考えてみました。
まず、そもそも椿の木をダメにしたのは、海蔵ではありません。
海蔵と一緒にいた牛曳の利助(の牛)です。なので、海蔵がいつまでも怨まれる理由は本来ないハズです。
次に、地主が怒った場面をよく読んでみると、自転車のサドルをパンパン叩いて怒り散らかしているのが印象的ですが、海蔵が利助も悪気があってしたわけではないのだと説明すると、
そこでようやく地主は、はらのむしがおさまりました。
と、あります。
海蔵の言葉で、一度は怒りを収めているのです。
そして、
けれど、あまりどなりちらしたので、体がふるえるとみえて、二、三べん自転車に乗りそこね、それからうまくのって、行ってしまいました。
と、あります。
体がふるえ、自転車に乗り損ねるくらいのショックを受けていることが解ります。
根に持っているという設定なら、この震えやふらつきは、たとえば「地主はまだ怒りの収まらぬ様子で去っていきました」のように描写されるのではないかと思います。
このことから、海蔵が井戸を掘るのを許されないのは、根に持っているからではない可能性も推測できます。
では、なぜ許されないのか。
牛が椿を食い尽くしてしまったのは、街道から脇道に逸れたところの清水を飲みに行くために、利助が椿の木に牛をつないだせいです。
そして、もっと街道に近いところに井戸があれば……と海蔵たちは考える訳です。水を飲みに行く前も同じ台詞を言っていますが、地主に怒られた後の利助を気遣う形でも再度言っているので、清水が近かったら牛から目を離さずに済み、怒られなかったのに、というのが二人の理屈です。
井戸を掘る話を利助に持ちかける場面でも、
「あの道ばたに井戸を一つ掘ったら、みんながたすかると思うがのオ。」
「牛が椿の葉をくっちまうまで知らんどったのは、清水が道から遠すぎるからだのオ。」
と、海蔵は言っています。
そう、海蔵が井戸を掘ろうとするのは、牛をつないだ椿の木のある道ばたなのです。
普通に考えて、椿が植わっている場所に井戸を作ったら、同じ悲劇が繰り返されると想像しませんか……。地主からしたら「牛は見張っているから大丈夫!」とかいう問題ではないです。喉を潤したあと、ちょっと休憩のつもりで道ばたで居眠りしているうちに……とかもありうるわけですよね……。
当然、あの場に人が集まりやすくなり、そこに立ち止まられる時間が増えれば増えるほどリスクも増える、と考えるのが普通では……?
確かに、みんなの為に共用の井戸を作ろうとするのは立派なのですが、あまりに地主の側の事情を考えていないようにも個人的には思います……。
私だったら、自分が壊されたくないものの横に人が集まるのはちょっと……って思いますもん……。それが破壊されない対策とかを提案されて、そこで初めて「まあ、みんなの為なら仕方ないか」ってなると思います。
結局のところ、地主が椿を大事にしていた理由までは、テクストからは明確には解りません。
地主が井戸を許可した際に、自分の欲の為に生きてきたという台詞もあるので、単純に地主は強欲で、椿から生まれるはずだった利益損失のために粘着していた可能性もあるかも知れません。
ですが、解説パネルでも問われたように、もし、地主がこの花が咲くのを老後の楽しみにしていたのだとしたら……? とか、許可されないのは意地悪ではなく、何か他に事情があるのでは? というような視点を持つことは、作品理解だけでなく、人が生きる上での他者理解としても、とても大切なことだと思います。そうすることで、より深く、南吉の描く<人間の二面性>が見えてくるのではないでしょうか。
人とのつながりと、いかに生きるか
南吉は死の前年に、大人の男性を主人公にした話を多く書き残しています。(最晩年は「狐」などの初期作品に近い作風に戻っていますが)
解説パネルによると、それらの作品の主人公たちを通して、<人間はいかに生きるか>を問いかけている、とあります。
「牛をつないだ椿の木」の主人公・海蔵の生き方にも、考えさせられるものが多く、時代を超えた普遍的なメッセージを強く感じます。
みんなの為に井戸を完成させた海蔵は、誰に誇ることも無く、静かに井戸を利用する子どもを見守りながら、人知れず自分の仕事を誇らしく思う……。教訓的で童話らしいお話です。
ですが、この話はそこで終わってはいません。
海蔵は、その後勇ましく日露戦争の花と散るのです。
井戸で喉を潤す子どもたちを見ながら、思い残すことは無い、と思った海蔵の心境を考えると切なく、文面通り素直に受け取れない部分があります。
ただ、悲しい結末に終わらないのは、最後の章段に以下の文があるからです。
しかし、海蔵さんのしのこした仕事は、いまでも生きています。
井戸を掘るために、貧しいながらもお金を溜め、地主を納得させ、多くの人に協力してもらい、井戸は人々に喜ばれる……という意味での、周囲の人とのつながりはもちろん、海蔵の遺した井戸により、海蔵亡き後も、井戸はずっと人々の喉を潤し続けるという、未来の人々とのつながりの話でもあるのだと思います。
南吉の作品が後世に残り、人々に読まれ続けているということにも重なりますね。
改変疑惑について
「牛をつないだ椿の木」は直筆原稿が残されていないことから、最後の第七章(日露戦争の花と散る云々)は、原稿を託された兄弟子・巽聖歌の筆ではないかという説もあり、4行と短い上に、急にご時世事情感が濃くなるので、付け足しと見えなくもなく、そういう疑惑が生まれるのも無理はないなぁと思います。
このことについて、解説パネルでは、戦時中は軍国色を強めることで作品が発表しやすくなる事情があったことに触れていました。
一番最初に出た『新美南吉全集』に収録された他の作品にも、聖歌の筆が多く入っていたことが後に問題とされ、聖歌の没後に比較検討できる形の全集が組まれたという経緯もあるので、この改変疑惑の部分については、未だに賛否別れる問題ではあります。
テクストや直筆原稿を資料にして作品を読む者としては、文章の改変や原稿の紛失・隠蔽があると、正直めちゃくちゃ困るのですが、この件に関して、単純に全ての改変は悪としてしまうのはちょっと違うなとも思います。(いや、ほんと困る、困るけども……)
解説パネルにもあるように、その時代ごとの<事情>があるからです。
現代のように作品を発表するということが気軽にできる時代ではなかったため、改変にもちゃんとした理由が存在することが多いのです。
戦争などの理由だけでなく、印刷・出版・流通などの面でも、選ばれた人のみが、作品を発表できる時代でもありました。
無責任にネットに個人の文章を無料で垂れ流している私のような者とは訳が違うわけです。
原稿を託される側には、それを発表する責任があります。
たとえば、鈴木三重吉が「ごんぎつね」に筆を入れたことは有名で、草稿「権狐」と発表形「ごん狐」の比較をすると、削除や直した文字数の多さから文章は大きく変わってはいますが、そこには修正者による「作品が広く愛されるために」という努力の跡が見えます。
そして、南吉が最期に自分の童話集に収録する形として選んだのは、三重吉のなおした「ごん狐」だとされています。
「牛をつないだ椿の木」は、聖歌がどこをどれだけ加筆修正したのか(発表形しか見たことがないので)分からないのですが、聖歌が南吉の作品を後世に残すために加えた筆なら仕方ないのではないかと私は思います。
病床で死期の迫った南吉がまともに校正をしている余裕がなかったことや、死後に終戦などで時代が変わったこと、時代の流れや地域差で伝わりにくくなることが出てくるなど、色んな事情があったのでしょう。
聖歌が全くの赤の他人ではなく、南吉が死の直前に原稿を託すことを選んだ信頼する兄弟子であると言う事や、南吉の死後も聖歌が南吉の作品の為に自分の創作時間を削って奔走し、自分の関わった教科書に南吉作品を多く掲載したという史実を考慮したうえで、改変の是非を考えたいと思うのです。
もちろん、親しい関係にあるからといって、改変は個人的主観によるものなので、本人が意図しない形に変えられてしまう危険性も孕んでいます。
意図しない形の掲載に、ブチ切れて雑誌に抗議の手紙送っている作家(K井先生とか……)もいますし、単に苦情がもみ消されている可能性だって無いとは言えないですが、疑いだすとキリが無いし、そんな裏読みに生産性があるとも思えません。
改変がよい事だとは、言いません。困ります。大変だし。
ですが、昭和40年『新美南吉全集』(全8巻・牧野書店)が出版された際の新聞の切り抜きを、聖歌はスクラップ帳に丁寧に残していました。
その記事のとなりには、
南吉よ
おそい春だったなぁ
けれどおれは
これで
せいいっぱいだったんだよ
四十年 秋 聖歌
花咲ける日の 南吉へ
と、ありました。
これら南吉没後の記録は常設展の方に展示されているので、足を運ばれた際にはそのあたりの事情を一度考えてみていただきたいなと思います。
井戸と泉
「ぼくは井戸である」この企画展のタイトルにもなっているように、作品を考える上で重要な役割を果たすのが井戸です。
生誕110周年のキャッチコピーにも選ばれた詩、泉<B>の一節にも、水が出てきます。
ここに書かれた水に共通するのは、清浄な水です。
パネルでは、なぜ井戸なのか? というところに着目して解説されていました。
人の役に立つ生き方を描くのに、どうして井戸なのか、ということです。
もちろん、先に解説されたように、都築弥厚をモデルに書きたいから、というのもあるでしょう。「牛をつないだ椿の木」は、用水計画を身近な個人単位の仕事に置き換えた、とも言えます。
しかし、人の役に立つものは他に沢山ある中で、井戸を掘るという設定にしたのは、南吉が自らの創作を清浄な水のような存在でありたいと願ったということ、その根拠としての日記の展示がされていました。
病で苦しんでいた頃にドストエフスキーを読んで、その苦悩に共感した南吉は「咽喉の非常に渇いた人々が夢見る清水の如きもの」(昭和12年2月22日)と日記に書き残しており、晩年の昭和17年4月9日の日記には「ぼくは井戸である。ぼくをとおして水は浄化され、ふきだす」とあります。
ドストエフスキーも人間の持つ傲慢さや自己中心的な攻撃性と赦しや救いといった二面性を作品に描いた作家ですから、共感も頷けます。
人間の業や罪を清浄な水によって清めるという日本的な価値観として禊を例に、どんな善人にも悪い面はあるが、水による浄化も人の力によって成される井戸である、という解釈が面白いと思いました。
展示の最後のパネルに、「今だけ、金だけ、自分だけ」と言われる「3だけ主義」について触れられていました。
「牛をつないだ椿の木」は、まさに、この真逆をいく話ですよね。
貧しい中で懸命にみんなの為にと頑張った海蔵の仕事は、未来にまで続くのです。
現代社会の抱える問題に照らし合わせて、自身の損得だけではない、みんなの為の行動が未来に繋がること、自分にできる小さなことで、誰かの喜びに繋がる、という普遍的なメッセージも、新美南吉作品が長く愛される理由だと改めて思いました。
生誕110周年、没後80年という節目に、「牛をつないだ椿の木」が企画展として取り上げられたことで、この作品と出会い、深く考える機会を頂けたことに、深く感謝したいと思います。
というか、ホント、この企画展、基本情報から押さえられていて南吉ビギナーにも優しい設計なのに、見終えると一本の秀逸な論文を読み終えた時の快感と同じなんで、今後もここの企画展に期待しかないです……まんぷくです!