見出し画像

自由に想像力を働かせながら楽しむ読書の一例: シェイクスピア『夏の夜の夢』における動物の表象

昔書いたレポートをアーカイブ化したものです。読書は堅苦しいものと思わずに、想像を豊かに働かせて楽しむものということを少しでも体感してもらうために、敢えて昔の若々しい文体も残しています。読書への苦手意識が少しでも減らせたらと思います。

1、はじめに
 シェイクスピアの『夏の夜の夢』にはRene Girardが指摘するように、動物のイメージが多く登場し、それらが形而上の欲求や暴力と関連し、物語の基盤に一定の影響を与えている。しかしながら、動物のイメージが多く、また舞台の大部分が森の中にあるにも関わらず、実物としての動物は登場しない。厳密に言えば、ボトムがロバの頭になり、ミノタウロスのような姿になってしまった存在としてロバと人のキメラが登場し、また「シスビーとピラマス」の劇の中で月の住民の飼い犬が登場するが、この2つを除いては動物が登場しないのである。物語の大筋に影響を与えないから描かれていないと指摘することもできるかもしれないが、同じくらい物語の大筋には影響を与えないと思える植物については、舞台説明において詳述されていることが多い。例えば、第二幕第一場の冒頭に「木の切りはらわれた大地は凹凸であり、苔が生えている。その周辺に繁み」(pp.28-29)とあったり、第二幕第二場の冒頭に「芝生。そのうしろが高い堤になっており、蔦が垂れさがっている。その一端はさんざしの繁み。むせかえるような花の香。/タイターニアが堤の裾の花床に横たわっている。その他、妖精たち大勢」(p.42)とあったりするという形で、具体的に述べられている。この具体的な言及は森の場面であるという場面性を高めているためではあるだろうが、動物を登場させない理由には不十分と言える。なぜなら、植物は「浮気草」という物語の中核を担う小道具であり、また第四幕第一場で「女は蔦、こうして楡の木のがっしりした枝にまつわりつくの」(p.93)とタイターニアが述べているように植物のイメージが使われているように、舞台装置以外の役割を多分に与えられている。この点を考慮すると、動物は舞台装置以外の役割は軽重あるが存在し、イメージとして物語に厚みを持たせているが、実際には登場しないという背反するような構造が存在するのである。
 そこで、このレポートにおいては動物のイメージがどのように使われているかを具体的に見るとともに、実際に登場する2つの動物の役割を考察し、シェイクスピアが動物にどのような役割をもたせていたのかを明らかにする。その中で、動物のイメージのみが多く出てくる要因を解明することを目標とする。

2、動物のイメージの考察
 動物のイメージがそれぞれの文脈においてどのように利用されているかを見ていく。初めて動物のイメージが登場するのは第一幕第一場のハーミアのセリフである。「うれしい、ライサンダー、あたし、誓います、キューピッドの一番強い弓にかけて、金の鏃のついた一番いい矢にかけて、ヴィーナスのおとなしいお使い鳩にかけて…」(pp.18-19)とあり、ここでは「お使い鳩」という神話の中から取ったような内容になっているが、重要なことは愛を誓う対象として存在するということである。真実の愛を誓う対象であるというイメージをここでは使っている。鳥のイメージを使うのは案外多く、同じ第一幕第一場には「あなたの舌はそよ風、麦は青く、さんざしが蕾を開くころ、羊飼いの耳をなぶる雲雀の歌より、もっときれい」(p.19)とヘレナがハーミアの美しさについて触れる際に、その舌の調べ、すなわち声の美しさを褒めている部分であり、それを雲雀の声のイメージを利用している。これはある意味一般的なイメージで日常でも使う隠喩と言えるものである。
 次に出てくる動物のイメージは第一幕第二場の「シスビーとピラマス」の配役決めの場面で出てくるライオンである。しかしながら、このライオンのイメージが具体的に描かれるのはシーシアスとヒポリタの婚礼の場面なのでそちらで具体的に述べるが、現実の配役としてのライオンの鳴き方が恐ろしすぎるといけないということで、ボトムが大きい声だが恐ろしくないようにナイチンゲイルのように吠えると発言することに注目したい。ここでは声の例えとして大きな声だが恐ろしくない囁きであるというイメージを利用しているということである。音声的なイメージの利用は先の雲雀のイメージの利用に似ている。
 少し異なるイメージの利用として、オーベロンとタイターニアの喧嘩によって生じた世界への悪影響を示している場面(第二幕第一場)で、「緑の麦穂もまだ芒の出ぬうちに立ちぐされ、泥海さながらの田畑には、羊の檻が空のまま横たわり、その家畜の屍を餌に、烏ばかりが肥えふとる」(p.34)とあり、ここではその当時の農村の社会状況を描いているようにも見えるが、屍を貪り食う卑しい存在として烏を利用していると見え、そのような卑しい存在が跋扈するほど2人の妖精の喧嘩は世界に多大に影響している部分とも見える。何にせよ、鳥のイメージを1つのイメージで固着して使っていないという点にも注目しておきたい。
 同じ第二幕第一場では、オーベロンが動物を利用して様々なものを喩えている。美しい声の例として伝説の生き物である人魚とその人魚を乗せるイルカを利用しており、時間の長さ(短い時間)をクジラの泳ぐ距離で喩え、タイターニアが「浮気草」で恋に落ちる醜い相手として獅子、熊、狼、野牛、エテ公(猿)を用いている。ここで大事なのはタイターニアが恋に落ちると挙げている動物たちであるが、これらの動物は森にいるからこそ目が覚めてすぐに遭遇してしまう可能性があるため挙げていると考えられる。しかし、これらの動物はこのような会話上には表われるが、実物としては出てこず、イメージ上の醜い動物たちという存在なのである。
 また第二幕第一場では、「スパニエル犬」を喩えとして自身のデメトリアスへの愛情を示したヘレナのセリフが次のように、「デメトリアス、あたしはあなたのスパニエル犬、ぶたれればぶたれるほど、尾をふってまつわりつくの。ええ、あなたのスパニエルにしていただくわ。…飼犬なみに扱ってくれと言っているのだから」(p.39)とある。ここでは異常性を表すために愛玩犬であるスパニエル犬を使っているが、犬の従順さという一般的なイメージが異常なレベルまでに達し、服従を描いているように見える。そのような服従の愛を示したヘレナに対し、デメトリアスは「森の獣たちに頼むとしよう」(p.40)と言うように、先にもタイターニアの相手として出てきたような獣たちが相手として打ってつけと言ったことを伝えている。浮気草のような外的要因か、形而上的な欲望のような内的要因かは別として異常さを帯びた人間や妖精の相手に対置すべきものとして森の動物たちがいるのである。だが、そのような一見冷静さを帯びているようなデメトリアスに対して「どんな猛獣だって、あなたほど残酷ではない」(p.40)とヘレナは返答しており、これはGirardの議論を参考にすればデメトリアスも異常性を帯びる要因を持つということ、すなわちデメトリアスもまた形而上的な欲望の持ち主であることを明確に指摘しており、お互いの異常性を高める効果をもたらしている。その後に続く、追うものと追われるものの転倒もまたこの後、デメトリアスがヘレナを求めるようになる展開の予告として機能しており、その異常性と物語の展開の予告と構成上の重要な要素と言えるものである。
 第二幕第一場の最後にもオーベロンが動物のイメージを使っている。「すると、蛇がエナメルの皮を脱ぎ、妖精の身を包むのにちょうどよい着物を残してゆく」(p.41)とあるがここでは森の中で良く起きる光景を語っているだけのものであり、一方で夜の時間のなかでも特定の時間を指しているようなものとしても機能しているが、それ以上のものはないように思える。しかし、このような一般的な光景についての語りを挟むことで、観客や読者は設定や具体的な存在として登場しない動物を、イメージの中ではあるが、森という舞台に置くことができるのである。また同じオーベロンのセリフの中に「それがすんだら、一番鶏が鳴くまえに、かならず戻って来るようにな」(p.42)とあり、これは先の鯨と同じように時間を表すものだが、鶏というこれもまたイメージの舞台上に動物を置くことができる。
 そのようなイメージの舞台上に動物を置くようなセリフは次の第二幕第二場でも見ることができ、タイターニアのセリフで「麝香いばらの蕾の毛虫を殺しておいで、蝙蝠と戦って翼の皮を剝ぎとり、小さな妖精たちの着物を造っておやり、それから、夜毎にほうほう鳴いて、かわいい妖精たちをこわがらせるうるさい梟を追い払って来ておくれ…」(p.43)と言うところや、その後に続く妖精の歌ではタイターニアの眠りを妨げるような動物を歌っているところはまさに類例である。そのようなイメージの舞台への畳み掛けと、卑しい動物のイメージの多重化を図るかのごとく、オーベロンが「山猫けっこう、猫でも遠慮は要らぬ、豹もいいぞ、針毛の猪でも、眠りから醒めて、その目が最初に見とめたもの、そいつがお前のいい男」(p.45)と発言し、第二幕第一場とは異なる動物のイメージを利用している。
 第二幕第二場では前出のイメージを強化するものが多く、ヘレナは「いいえ、違うわ、あたしは熊のように醜いのだ、獣たちもあたしに会うと、こわそうに逃げてしまう」(p.49)と述べており、デメトリアスに獣たちなら相手してくれると言った、その語りは誤りで実際は獣すら相手をしてくれないと落ち込んでいる。この部分では熊が卑しい動物のなかでも最下位に近いものであることが読み取れるが、それが相手になっても良いと言ったオーベロンのセリフはタイターニアへの最大の侮辱と見ることもできるものの、欲望に生きることがどれほど卑しく、それが外的要因であっても欲望に従順なことは許されないという考えが登場人物たちの基底にあるのかもしれない。完全には同じような過った行為ではないが、過ちをすることは許されないということが、「浮気草」を盛られたライサンダーが「烏を鳩ととりかえずにいられよう?」(p.50)と語るように、物語の中でも語られているのである。そのようなセリフの少し後にはハーミアが夢に出て来た蛇に苦しめられるというシーンになるが、正しい考えだと信じ込み、それを実行してしまうライサンダーの様子を、蛇にそそのかされて良いことだと信じて禁断果実を食べてしまったアダムとイブを思い出させる。
 次に出てくるイメージは第三幕第一場の職人たちのライオンである。ボトムは「そうだろう、生きたライオンほど恐ろしい野鳥はないものな、用心するに越したことはないね」(p.54)と発言するが、これはナイチンゲイルのイメージを継承しているものと言えるが、職人たちにとってライオンはライオンではないのかもしれない。その後のボトムのセリフで、ライオンの喉から顔を出し、その上でライオンと思わないでほしいというセリフを言えば良いと考えており、ライオンはすでにライオンとしてのイメージを失っていき、ここでは吠える声が怖いだけの鳥に過ぎないのである。順番で言えば次は驢馬の頭になるボトムの場面が動物に関する箇所だが、現実の存在であるので、後で考察する。その次に出てくるのは、タイターニアのセリフで昆虫の話(花蜂・蛍・蝶の羽)が良く出てくる。これもまた、イメージの舞台としての森を高める効果がある。次に出てくるイメージは「例の臆病者、牛肉めが…」(p.63)というセリフがあるがこれは何を表しているかは分からない。そのため、この部分についてはこれ以上考察しない。
 次の第三幕第二場ではデメトリアスとハーミアの掛け合いの部分で出てくる。

デメトリアス それくらいなら、あの男の死骸を家の犬にくれてやる。
ハーミア ええい、畜生! のら犬! あなたが悪いのです、つい娘らしい慎みも忘れてしまいました。やっぱり、あなたが殺したのね? それなら、もう人間の仲間は入りせぬがいい……(中略)おお、御立派だこと! 蛇だって、蝮だって、出来る、それくらいのこと。そう、あれは蝮の仕業。あの二つに分れた舌も、あなたの舌にくらべれば、まだしも、刺されたところで大したこともないでしょう。(p.68)

この掛け合いにおいて前半では犬のイメージを用いている。ここも読み方は色々あり得るだろうが、少なくとも「のら犬」は否定的なイメージを持つものであり、ライサンダーを殺したと思って言っている点から獰猛さなどと関連が深いイメージである。そして、「もう人間の仲間は入りせぬがいい」と述べており、暴力的な特徴を持つものも批判されるべき特徴であることがここで分かる。後半に出てくる蛇などは「のら犬」と喩えたデメトリアスをさらに批判するために利用されているものであり、蛇などに比べてデメトリアスがもっと酷いという内容であることを考えると、蛇や蝮には寝こみを襲うような卑怯者のイメージを持つもので、デメトリアスはそれ以上に卑怯だと批判を受けている場面と見ることができる。このように、掛け合いの中で使われる動物のイメージは概して悪いものが多いようである。そのような例はライサンダーのセリフにも見られる。「放せ、猫め、この牝鼬! 畜生、放せというのに。放さなければ、蛇よろしく、ふりとばしてやる」(p.79)とあるように、ここでは猫・(牝)鼬・蛇が使われている。蛇は先ほどから悪評の対象であるが、さらに猫や(牝)鼬も同様な意識があるようである。確かに、猫には「この、泥棒猫が!」という決まり文句があるように、ときには悪いイメージを纏うことがある動物ではある。その他にも掛け合いにおける悪いイメージとしてはハーミアのセリフに「(ヘレナに)ああ、何ということでしょう、魔術師よ、あなたは、花を蝕む毒虫、恋盗人!」(p.80)とあり、ここでは「毒虫」が使われており、基本的な流れは同じだが、毒虫だから花を蝕むという組み合わせにしており、同じような批判を加える表現でも単純な使い方をされていないことがわかる。その後もヘレナがハーミアに対して、直情的で背丈が低く気が強いことを批判するために「牝狐」(p.83)と使い、同様にハーミアの背の低さをライサンダーが「南京虫」(p.83)と使っており、ここでも異なる動物を使い、多重的なイメージを利用している。
 そのような動物に喩え喩えられ、酷評し酷評された続けた4人の登場人物たちは、第四幕第一場においてシーシアスに「小鳥どもがたがいに相手を求めあう…それなのにこの森の小鳥たちは、やっと今ごろ恋を囁きはじめようというのか?」と喩えられているが、彼らははじめて鳥に喩えられており、ここでは異世界からの脱出や平穏状態の再来を予期させるものであり、多重的なイメージからの解放と見ることもできる。さらに、この場面では眠りから醒めており、2つの事象、すなわち使われていなかったイメージによって喩えられ、眠りから醒めるという2つの事象が登場人物たちを救出しているのである。つまり、森に入り、植物のイメージと眠りによって彼らは森の中で欲望のままに過し、多重な悪いイメージを課されてしまい、それが増すにつれて暴力性も増しているが、動物のイメージと眠りによって彼らは解放されるのである。
 そのため、この後では4人の登場人物たちに対して動物のイメージは使われないし、出てくる動物は職人たちの劇に関するものと最後のパックのセリフにおいてのみであるので、動物のイメージはほとんどなくなると言って良い。最後のパックのセリフでは「蛇の舌」というのが出てくるがここでは正直者であることを強調し、蛇の舌も抜かれたからなおさら正直だという内容になっているので、「蛇」はうそつきのイメージがあり、物語全体での「蛇」のイメージとそれほど大きく変わっていないように感じる。
 最後に、職人たちの劇に関するものを確認しておく。第四幕第二場の最後のボトムのセリフの中に、「ライオンの爪というものは、長く伸びていなくてはならないからな」(p.105)とあり、すでに確認したライオンはライオンではないライオンという認識ができていると述べたがここではライオンらしさが強調されている。これは「シスビーとピラマス」の物語上、ライオンは爪がなければ成立しないからであろう。
 いよいよ、劇が始まる段になり、クインスが前口上をするがそれに対し、ライサンダーは「暴れ馬よろしく突っぱらせます。とめ方を知りません」(p.112)と評価し、その制御ができていない様子を喩えている。その後はライオンに関するものが多いが、前口上が終わった後デメトリアスが「口をきくライオンも一匹くらいおりましょう、当節は、驢馬でさえ、口のきけるのが、いくらもあるのですから」(p.114)と述べているが、唯一「浮気草」によって心変わりさせられ、そのままその呪いが解かれることなく、悪いイメージの多重性のみから解放されている登場人物であるため、実際にであってもいないボトムのことを語り、形而上的に依然として森とのつながりを残しているようなセリフに見える。ここでは動物のイメージで喩えるよりも自身の状況を結果的に無意識に述べているようである。
 ライオンの登場後のセリフにおいては当初の予定通り観客を怖がらせない工夫がなされ、やさしい牝獅子ではなく牡獅子だが、ただその役割を演じているだけで、変身はしたくないといったことを述べる。これを受けてシーシアス、デメトリアス、ライサンダーはその勇気を狐に喩え、分別のある様子を鵞鳥と喩えているがここの最大の特徴は追う者と追われる者の逆転である。通常、鵞鳥と狐なら狐が捕える側であろう。だが、この逆転を最初に語るのはデメトリアスであるので、先のセリフ同様、デメトリアスの森の見えないつながりが示唆される。称賛の対象としてライオンがあるようであり、その後も吠え方や銜え方が称えられる。様々な工夫を加えられたライオンはライオンではなくなってしまったことは職人たちのセリフや観客であるシーシアスやデメトリアスなどのセリフからもわかる。しかし、そのようなライオンとしての特徴を失う代わりに称賛の対象となり、好意的に捉えられており、他者のための変化、自分が変わりたいといった願望から生じていない変化というものへの称賛も感じ取れなくはないが、重要なのは動物自体が悪いイメージのみではないということである。
 このように、登場人物は様々使われるが、物語の構造的な部分で植物のイメージと目覚めの対としての動物のイメージと目覚めを使ったり、『夏の夜の夢』の観客や読者のイメージの中の森の雰囲気を高めるために使われていたり、それぞれの固有性を利用して登場人物同士が喩え、喩えられているが悪いイメージを多重的に重ねあわされており、このようなイメージが物語の原動力となっていたりする。一方で、鳥の多くが良いイメージで使われているなど、その種類によってもイメージが異なるようである。それではいよいよ、ボトムの驢馬と月の住民の犬について考察を始める。
 ボトムの驢馬について書かれている部分は、書割で「頭が驢馬になっている」(p.58)と変化したことが示される。その後は全員が驚いて逃げてしまうが、その直後にボトムは様々なものになってやると自慢げに語るが、その中に驢馬は出て来ていない。さらに、仲間たちが誰も驢馬という言葉を言っていないのにボトムは驢馬扱いされたことに腹を立てる。ここから、驢馬にはなりたくないという拒絶したい願望が見られる。しかしながらそのセリフの直後の書割には「ときどき驢馬そっくりに鼻をならす」(p.60)とあり、拒絶した驢馬へと近づいて行く。そして次に登場する第四幕第一場の書割にも驢馬の頭が飾られていることが明示されており、その上で、タイターニアにその頬と毛艶と耳を称賛する。その後要望を聞かれたボトムは驢馬に一層近づき、飼葉を要求している。しかし、オーベロンとパックの働きにより、その呪いから解放される。ここではボトムの視点で見ると、拒絶していた物も一度それになってしまえばそれに少しずつ慣れていってしまうことを示唆している。だが、彼の最大の役割はパックの変身の経験を重ねると別のものが見えてくるようである。第二幕第一場で「牝の仔馬に化けて、ひひんと啼いて、太っちょの、豆をたらふく食った牡馬をだまして見せようものなら、オーベロン様はにっこりなさる」(p.31)とパックが語るが、この内容は北欧神話の中にある駿馬スレイプニルが誕生した逸話に似ている。簡単に触れれば主神オーディンの命を受けて、巨人の持つ馬を、悪神であるロキが牝馬に化けてたぶらかしてしまうのだが、そのときロキの体内に授かったのがスレイプニルである。変身したものは騙すというプロットがあると仮定すると、この物語ではボトムが驢馬に化け、タイターニアを騙し、心を奪う。しかし、ボトムの変身は中途半端であるため、パックの「浮気草」の助けが必要になる。その結果、頭が好まれ求愛されるのである。また、このイメージはミノタウロスの誕生も思い出される。ポセイドンの怒りを買ってしまい牛と関係を持ってしまうことで生まれたのがミノタウロスであり、このプロットは騙された女性が求愛するという展開であり、なお一層この場面との共通性を感じさせる。驢馬頭の化け物と化したボトムはこのような多重的なイメージを抱えることで現実界から脱し、森の世界へと没入し、登場人物たちでは唯一妖精と直接的な交流を持つのである。
 最後に付きの住民の犬だが、ここでは月の住民などが月よりも大きいという大きさの転倒の補助的な役割をしており、植物が森の雰囲気を視覚的に高めたのと同様の効果をもつものである。

3、まとめ
このように、動物のイメージは物語の多くの部分で重要な位置を占めている。動物自体が出てこないという最大の理由として考えられるのは、視覚的に舞台上の森を高める植物の対として、思考的に想像上の森を高める動物が存在しているということであろう。そのようなイメージとしての動物は多重的に重なり物語の構造を多層的にしている。イメージを上手に利用し、物語の雰囲気を高めると言えそうである。

4、参考文献
<本文>
・シェイクスピア、ウィリアム『夏の夜の夢・あらし』福田恆存訳、新潮社、2003年。
・Girard, Rene, Critical Essays: Modern Essays. Ed. Bruster, Douglas & Tobin,J.J.M, A Midsummer Night’s Dream Boston: Wadsworth Cengage Learning, 2011.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?