背中合わせのわたしと姉
お盆休み最終日。
ただ今実家に帰省中の我が姉は、現在私の目の前で昼寝ならぬ朝寝をしている。
(朝寝:一回起きて朝ごはんを食べた後、そのまま座椅子を枕にして眠りこけること。休日によく起こる現象。)
台風の影響でだんだんと強くなっている風の音も、彼女の夢世界には届かないらしい。
姉は大学を卒業後すぐに関東へと引っ越し、そのままひとり暮らしをスタートさせた。
今年春に仕事を辞め、現在はワーホリ(ワーキングホリデー)でとある国での生活を満喫している。
銀行の手続きとおよそ3ヶ月ぶりの日本を味わうため、今回一時的に帰国してきたのだ。
私と姉の関係は、服をお揃いに着せられていたあの頃と比べると、だいぶ変わった。
小中学校は言わずもがな同じであったため、どこへ行くにも大抵一緒だった。
心が弱くて泣いてばかりいた私を励まし、自分に向けられた複数の刃にも負けることなく学校へ通っていた彼女を、私は少しばかり尊敬していた。
わたしたちは、2人で1つ。そう思っていた。
そんな関係が少しずつ変わり始めたのは、16歳になる年だった。
高校受験の結果、別々の高校への進学が決まったのである。
最初は、姉がいない高校生活に焦りと不安しかなかった。
だがいざ入学してみると、新しい友だちや新鮮な環境のおかげで、私の3年間は輝き続けた。
そして、それは姉も同じだった。
設定されていた門限を破って母親から叱咤されている姿は、私がいなくとも高校生活が充実していることを物語っていた。
高校卒業後は同じ大学へ進んだが、単位制という大学ならではのクラス選択制度もあって、そこまで姉にべったりくっつくことはなかった。
きっと、あの高校進学が、私と姉の大きな分かれ道となったのだろう。
それは自然なことだが、少しの寂しさは否めなかった。
だが、大学を卒業して彼女が家を出てからは、不思議とその寂しさは薄れていった。
寂しがってもしょうがない、という現実主義的思考からの強がりもある。
しかしそれ以上にあるのは、「2人で1つ」という考えの変化なのだろう。
2人でずっと一緒にいなくても、お互い生きていける。
わたしたちは、それぞれが1人のアイデンティティ・自我・違う考えを持つ人間であり、それはお互いが居ようが居まいが関係ない。
実家を出ていき、ひとり暮らしや就職を経たことで、姉の考え方・嗜好・物事への向き合い方は昔と大きく変わった。
そして、私自身も色々あって、大きく変わった。
これにより、必然的にニコイチの考えは薄れていったのだ。
ひとり暮らし歴が少し長くなってきた彼女は、自由に味をしめて少し傲りが出てきてしまったのか、最近「ひとり暮らしマウント」を私にとるようになってきた。
「ひとり暮らしやったら、ほんまに自分のこと自分でしなあかんしな〜。」
「ずっとひとり暮らししてたら、感覚わからへんくなる〜。」
こんな調子のことを、少しニヤついたような、ドヤ顔で言ってくるから、若干イラっとすることは、正直、ある。
理由があって実家に住み続ける大人な私は、子供だなぁと流してあげることにしよう。
さて、ちょっぴり悪口が出たような気はするが。
ともかく私と姉はそれぞれ異なる人生値を得て、お互いの存在を区別化できたのだと思う。
向かい合わせで生きてきた頃から、別の目標や着地点を見出し、背中合わせで進んでいる。
決してバラバラなのではなく、背中合わせである理由。
それは、理解できなくて衝突することがあっても、彼女は私が幸せになってほしい人の1人だから。
背中合わせなら、彼女の心が弱ってしまったとき、振り向いてすぐに助けてあげられるから。
結局、姉という一般的な存在ではなく、大切な存在として私が彼女を大好きなのは、変わらないらしい。
このnoteを書き始めて、およそ1時間。姉はまだまだよく寝ている。
どんどん寝相が悪くなっていくところも、寝顔も、メガネをかけたまま寝てしまうところも、同じく昔から変わらない。
そう観察しながら、なんだか懐かしい気持ちになる妹であった。