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過去の自分と再会する

昨日は、大学時代のバイト先のお友達と会ってきた。久しぶりとは思えないほど落ち着くし、自然に会話ができる、本当にありがたい存在だ。

これは彼女に限らず、あらゆる時代の友人と会うと感じるんだけど、「みなって〇〇だったよね〜」と言われてやっと思い出す自分の断片は、とっても多い。

どうしても記憶のキャパシティには限界があるから、毎日新しい経験をして成長していく分、過去の記憶は、少しずつ薄まっていくのだ。少なくとも私は。

ただ、友人の頭の中の私にまつわる記憶や認識はその時代で止まっているから、会話を通して、その時の私を思い出させてくれる。そう、友人たちは、客観的な視点で、その時代の自分を思い出させてくれる存在でもあるのだ。

昨日会った友人は、私がランチのお会計をするために財布を出した際に「みなはいつも電車乗る前に切符を買ってたよな、「ちょっと待って、切符買ってくる〜」って言ってたのめっちゃ覚えてる」と言ってくれた。

あ〜〜〜確かに! 完全に忘れてたけど、そうだ、そういえば私は現役大学生の頃からがっちがちのアナログ人間だったw と思い出させてくれた。

記憶との付き合い方


極端な話、そんなことを思い出させてくれる友人がいなくなった場合、同時にその時代の自分もいなくなるような気がする。

なぜならその時代の自分を覚えてくれていたり、記憶を共有できる人がいなくなるから。

このカラクリは自分の都合のいいように使えるとよさそう。(そういえば平野啓一郎さんの『分人主義』という本でそんなことが書かれていた気がする)

忘れたい過去や忘れたい時代は、その時の人間関係を絶てば、ある程度忘れられるし、覚えておきたい・大事にしたい過去はちゃんと保持する努力をする、という具合で。

個人的には、そこまで忘れたい過去はない。でも、

高校や大学の卒業後や、コミニティーでの関わりがなくなった途端、急に誰とも連絡を取らなくなる人に対しては、

その場にいたときの自分や記憶があまり好きじゃなかったんだろうなと思うし、
そっとしておきたいと思う。

https://note.com/mina_0615/n/necb48eef0972

こちらで書いた内容と少し矛盾しているようにも感じるんだけど
(ちょうど記憶について色々考えてた)

どちらも正解なんじゃないかなと思っていて。

もちろん美しくない・楽しくない記憶も大事だけど、あしたのいのちをつなぐためには意図的に忘れちゃってもいいこともたくさんある、っていうイメージ。


自分都合で、過去の記憶とお付き合いできるとよさそう。




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