就活で人生は決まらないよって、大学生の自分に伝えたい
このnoteは、就活生だった2年前の自分への手紙のつもりで書いてみます。いま就活で悩んでいる方や、春からの就職先に不安を感じている方に届いたらうれしいです。
「正規ルート」から外れる気がした
私は社会人1年目で転職をしました。新卒で入った出版社を辞め、今年の1月から、WORDSという会社で編集者の竹村俊助さんのもと働いています。
いまは毎日とっても楽しいですが、就活をしていたころは2年後にこんなことになるなんて、まったく想像していませんでした。「どこか大手の会社に就職して、キャリアを積むのかなー」となんとなく思っていました。親も周りの友人もみんなふつうに就活して、大手企業に就職していたからです。それが「正規ルート」のような気がしていたんです。
就活では出版社を受けて、なんとか内定をもらえました。紆余曲折あって転職を決めましたが、1年目で転職する人なんて大学の同期にはほとんどいなかったので、かなりビビりました。
(転職の経緯はこちらのnoteにも書いています……!)
でも結果としては、すごく気持ちが楽になりました。
「新卒で入った会社で何年も働かないといけない」と思っていると、それ以降の人生の道すじも、なんとなく決めつけてしまいます。でも「正規ルートじゃなくても生きていけるんだ」と思えたことで、その道すじから自由になれました。「これからの人生、まだまだなんでもできるな」と思えたのです。
同時に就活のときの自分が、いかに視野が狭くなっていたのか気がつきました。
大学の勉強は、社会に出たらなんの役にも立たない?
たまに「大学で学ぶことなんて、社会に出たらなんの役にも立たない。インターンで実践の経験を積んだほうがいい」なんて言われたりします。
たしかに大学での「答えのない」学びと、ビジネスで「価値を出す」ためのスキルはまったく違います。哲学や生物学についていくら学んでいても、テレアポはできないしエクセルも使えないでしょう。
就活のときも、ESや面接で求められるのは「コミュニケーション能力」などの「ビジネスに役立ちそうな経験」なのかなーと勝手に思っていました。だから実際の経験も、そう見えるように脚色してESに書いたりしていました。違和感を感じつつも、仕方のないことだと思っていたんです。
いまでも覚えているのは、第一志望だった会社の最終面接。「出版業界に就職したかったのに、なぜ大学は社会科学部で国際政治の勉強をしたの?」と聞かれました。
実はもともとは文学部志望だったのですが、受験生のときにシリア難民問題が起こって、その映像にすごくショックをうけたんです。「とにかくなにが起こっているのか知らなきゃいけない」となかば勢いで志望を変え、国際政治の勉強ができる社会科学部を選びました。
いま思えば、それをそのまま伝えればよかった。でもそのときは完全に「就活脳」になってしまっていて、うまく答えられなかったんです。「絶対にその会社の事業に繋がるように答えないといけない」と思っていたんですよね。
関心を持って勉強したにもかかわらず、結局JICAなどの「直接貢献できる仕事」は選ばずに、出版という自分の「好き」な業界に進もうとしている。そのことに、罪悪感のようなものもありました。気持ちの折り合いがついていなかったのです。
結局その最終面接で、第一志望の会社には不採用になりました。
「履歴書に書けないこと」にも、ちゃんと価値はある
でもあのときの質問にも、いまなら答えられます。
遠い国で戦争が起こっていても、人身売買が行われていても、環境汚染が起こっていても、正直自分の生活には関係ありません。世界がどうなっていけばいいか考えたところで自分にはどうしようもないし、就職にも役立たない。
でも、だからといってなにも知らずに好きなことだけやって過ごす人生と、知ったうえで好きなことをやって過ごす人生では、行動や発言が絶対に変わってくると思うんです。
たとえば企画を立てるとき、同じ「ファッション」というテーマでも、環境問題や労働問題に関心がある人とない人では、まったく論点が変わるでしょう。
同じことは、大学の勉強以外でもいえます。
たとえば営業をするとき、いろんなところを旅してきた人とそうでない人とでは、地方の会社との話の弾み方が変わるかもしれない。
たとえば転職を考えるとき、フリーランスでも楽しく働いている大人を知っているかどうかで「まあ、なんとかなるか!」と踏ん切りがつくかどうかが変わると思います。
ちなみに私は「昭和の喫茶店巡り」という、まったく就活の役には立たない趣味があるのですが、そのおかげでWORDSのアドバイザーである柿内芳文さんと話が合い、グルメ情報交換で盛り上げれてうれしかったりします。
また、WORDSに転職できたのは、大学4年の時に事務所にお手伝いに行っていたからです。もう就活は終わっていたので履歴書には書けないし、報酬も特になく、最初は「家具の組み立て」など編集にまったく関係ないことをしていました。
そこからだんだんと、編集のお仕事を任せていただけるようになったんです。
「就職の役に立つこと」にしか価値がないなんて、そんなことはありません。むしろ「履歴書に書けない経験」をどれだけしたかどうかが、その人の人生をよりおもしろく、自由にするのだと思います。
「就活なんか、あんなもんで人生決まってたまるか」
先日、転職が決まった友人がこう言っていました。
彼女は大学時代のゼミの同期です。勉強熱心で、論文執筆やフィールドワークに積極的に参加していました。博識で努力家な尊敬できる人です。でも自己表現や自己分析はあまり上手ではなく、それゆえに就活が苦手でした。
結局、新卒ではあまり興味のない業界に就職しました。それでも1年間ずっと転職先を探しつづけて、晴れて合格。4月からは、ずっと興味のあった分野に関わる仕事をするのだそうです。
彼女から転職の報告を聞いたとき「夢を叶えるルートはひとつじゃない」と示してくれたような気がして、自分のことのようにうれしくなりました。
余計なことは、しすぎるほどいい
確かにいろいろな知識があるだけで、頭でっかちになって行動できなかったらダメです。でも知識がないと、そもそも行動するときの「選択肢」すらなくなってしまうと思います。
知らないものは、存在しないのと同じです。偏った知識しかない人の見えている世界と、ムダなことをたくさん学んだ人が見えている世界の広さには、大きな差があるでしょう。
スピッツの『運命の人』という曲があります。わたしはその一節が好きです。
余計なことはしすぎるほどいいよ
扉開けたら
走る 遥かこの星の果てまで
「余計なこと」は、社会人になるとなかなかできなかったりします。仕事に対価が発生し、お客様のいるビジネスの世界で「余計なこと」ばかりしていてはいけません。なるべく無駄をなくして、直球で価値を出すことが大事だからです。プライベートな時間も、どうしても短くなります。
でもそんな「余計なこと」こそが、人生の「選択肢」を増やすうえでは必要なのです。
大学生のうちはたくさん「余計なこと」ができます。目的のない旅も、ダメダメな恋愛も、売れないバンド活動も、世界について考えることも、生きることに悩んで哲学の本を読むことも、きっとその後の人生を広く豊かにしてくれます。
そんな「余計なこと」たちのおかげで、社会に出てからも「遥かこの星の果てまで」走っていけると思うのです。