創作【最後の涙を流すとき】
黒猫の友人は、少し気弱だけどとても優しい青年だった。自然に囲まれ佇む水色の屋根の小さな家で、共に住んでいる。
木枠の窓が多くてあたたかな白い日差しの昼と、埃みたいな星がひろがる夜空の下でランタンやキャンドルを灯して過ごす夜。
猫はどちらもだいすきだった。
キッチン横にある出窓の台にお気に入りのスローを置いてくれて、最近はここで日向ぼっこをする時間が多くなっている。
正午を過ぎた頃。青年が作業部屋の扉を開けて、エスプレッソを作るためにキッチンに向かってきた。髪はマロングラッセみたいな茶色で、ふわふわしている。
「キュイ、ちょっと休憩しよう」
そう言って、しつこくないくらいに3、4回優しく猫をなでてから、シンク上の戸棚を開けた。
青年の名前はクラウドで、眉尻が下がり気味でちょっと困ったような顔がチャームポイント。彼は猫のことを「キュイ」と呼ぶ。
子猫の頃に出会ってすぐだった。2度焼きした香ばしいお菓子のようなこっくりしたブラウンと少しオレンジが混ざった目を見つめて、
「ビスキュイみたいなきれいな目だから、キュイかな。……キュイ」
ぼくと一緒に暮らさない?
そう勝手に名付けて勝手にこの家に連れてこられたのだ。
ずいぶん使い込んで傷もあるマットシルバーのマキネッタ。彼がいつも、朝の眠気覚まし代わりと作業の合間のひと休みにこれでエスプレッソを淹れるのは、ずっと変わらない日常の風景だ。
それを眺めている猫の姿も。
「ああ、また溢れちゃった」
マキネッタの蓋からこぽこぽ垂れて焦げるエスプレッソの深い香り。困り眉をさらに下げるクラウド。
ほらね、またよそ見するからじゃないか。キュイは呆れたふうに前足の毛づくろいをする。
となりのコンロで温めたミルクをラテボウルに入れて、上から熱々のエスプレッソをゆっくり注ぐ。
アカシアのトレイに、有名なパッケージの焼き菓子も一緒に乗せてから、クラウドは猫に話しかけてみる。
「久しぶりに庭に出ない?」
少しだけ見つめ合った後、キュイはゆっくりまばたきをした。
木造でコテージみたいな家のリビングには背の高い窓があって、そこから木の板の広いバルコニーに出ることができる。
湿気を感じる床板だけど、湿気った木特有の少し甘いようなにおいがするのだ。空のにおいとラテのそれも混ざる中、バルコニーの隅っこにちょこんと置かれた、丸くて小さなアイアンテーブルにクラウドは持っていたトレイを乗せる。ラテボウルからは緩やかな湯気。
同じアイアンではなく、リビングの窓際に置いていた古びた椅子を持ってきて彼は座った。少しガタついてるみたいだった。
「おいで」と優しく呼んでくれるその声が、キュイはいつも好きだった。昔よりも弾まなくなった足のバネで、少し躊躇してから音なく膝に跳び乗る。作業の休憩なのだから、仕事用のエプロンを外したってわかる、彼の洋服から滲み出てくる鉱物のにおい。
……ぼくはここが好きなんだ。ほんとうは、キッチン横の出窓よりずっと。
「はは、ちょっとぐらつくねぇ」
困ったように笑いながら日向ぼっこしすぎて少し茶色くなった黒の毛並みを撫でる。猫は目を細めて、小さく「ナァ」と鳴いた。
彼の膝の上、アイアンテーブルの天板の下から見る景色。いつぶりだろうか。
バルコニーは白く塗装した木の柵で囲われ、リビングから見て正面には、露でいっぱいの草原に降りる階段がある。キュイは小さい頃から、「ここ」でバルコニーの向こうの風景を見るのが好きだった。
「キュイ」
優しい友人の声が降ってきて、顔のそばに手のひらを差し出される。これはたまに買ってきてくれる、猫のためのクッキーだった。
かり……と、彼の手のひらの上でそのひと粒の焼き菓子を食べる。見えてないけれど、嬉しそうに眉を下げるきみの顔がよくわかるよ。
遠くで鳶の鳴き声がした。最後の一欠片を食べて舌をぺろっと出しながら、猫はふいと上を向く。
森の高い木も届かない青くて白い空が、ぽっかりとふたりを見下ろしているみたいだった。
キュイはとん、とバルコニーの板の上に降りる。振り返るとクラウドはラテボウルをすすっていた。
「キュイ?」
「……ナゥ」
「わかった。気をつけてね」
言葉少なに交わして、猫はとてとて歩く。階段の感触を肉球で確かめながら降りて、みずみずしい草の上を踏む。さく、さく、と小気味の良い足音がして、そのまま真っすぐ歩いていくと、木に囲まれた砂の小道。人が何度も通って自然と作られたみたいな短い小道の先には、もうそれは見えていた。
揺らぎながら光る水面があった。川は穏やかに水を渡していて、透明度はそこそこあるような川。雨が降ると濁るけれど、今はとてもきれい。午後の優しい光が燦々と川面に魔法の色を塗って、魔法のキラキラした粉を散りばめたような。
少し眩しくてキュイの瞳孔が細くなる。オレンジとブラウンの美しい双眸が捉える川の光が、彼の瞳をさらに輝かせていた。
隅っこには、クラウドの前の家主が残していった小舟があるけれど、気弱なクラウドは川下りをしたことがない。
少なくともぼくと出会ってからの十何年かはね。
猫は空を仰ぐ。遠くて高いところにある白い丸い太陽は、きれいな絵画よりもずっと美しくて、キュイの真ん丸な瞳に光を与える。涼しい森をあたたかく控えめに包んでくれる陽。いつも窓辺で見るそれとも少し違っていて、よりまばゆかった。
たっぷりとお天道さまの光を吸い込んだ目で、もう一度川面を見る。
きらきら、ぷくぷく、ゆらゆら。下の石や水草で動きを変える水、止まることなく流れて煌めく川は、猫が生涯何度も見てきた川のはずなのに、この日はいちばんいちばん美しかった。
身体の中にあった重たい痛みを、もう気にすることはなかった。
小さく草を踏む足音がして、木の階段を音もなくあがってキュイは友人のもとに戻る。
ラテがもうぬるくなった頃。
「おかえりキュイ。久々の散歩はどうだった?」
古びた椅子に腰掛けたまま迎えるクラウドのそばまで行って、猫はちょんと足元に座って彼を見た。
目が合うと彼は………、少しだけ息を呑んで、言葉を詰まらせる。
猫の目は、その丸い双眸はとてもとても美しかった。水面と陽の光をたっぷり吸収して逃さず、中から輝きを放つ。まるでそう、鉱石のようだった。
きらきらした瞳で真っ直ぐ見つめながら、キュイは彼にひとつ鳴く。
「………そうか、」
ああそうか、そうなんだね、キュイ。
どうしてだかはわからないけれど、どういうことなのかはわかる。泣きそうになるのを、肺いっぱいに息を吸い込んで堪えながら、大切な猫をクラウドの手が包んで抱き上げて。
トレイの上のラテボウルには少しだけ残ったぬるいラテと、となりに封が開いて中身がなくなった有名な焼き菓子のパッケージ。
深い緑の葉と木と水の香り。
ぽっかり空いた真上の空はいつの間にか白濁としていて、クラウドの気持ちがそのまま映し出されているみたいに悲しくてきれいだった。
優しく抱きしめられた黒猫は、友人の洋服から伝わる鉱物と金属のにおいを、忘れないように深く吸い込みながら。
しばらく大人しく彼の腕の中におさまっていた。
十数年共に暮らした猫が、もう醒めない眠りについたのは翌日の未明だった。
いつもは夜は寒いからと、出窓ではなくリビングのひとりがけソファで寝るキュイだけれど、この夜はキッチン横の出窓を選ぶ。いちばん好きな彼の膝な上を選ばなかったのは、猫らしいというか彼らしいというか。
クラウドは小さなスローを彼の下に昼のように敷いてあげて、寝室にはいかず、作業部屋にも行かず、ダイニングのチェアをそばまで持ってきて見守っていた。
近くのコンロでは小さく火をつけている。ポットの中のお湯が出す湯気で少しは温かく過ごせるように。
猫は窓からの真っ暗闇を隠す帆布に背を向けて、青年と向き合うように丸く寝ている。眉間を撫でると気持ちよさそうに足がだらんと垂れるのがかわいい。
空は昼間と違って曇り空で、星はふたりの邪魔をしないように雲の上に隠れていた。
猫は3日でものを忘れるなんて謂れもあるけれど、そんなのは迷信だ。
親とはぐれて森を彷徨った日も、ふわふわ頭の少年が自身を救いあげて一緒に暮らし始めた頃のことも。
彼が創る作品が初めて売れて、浮かれて猫のクッキーを大量に買ってきてくれた日も。
彼と家の周りを散歩して眺めた川も、森も、埋もれて溺れるかと思った深さに積もった雪の冷たさと眩しさも。
だいすきな水色の屋根の家で過ごした日々も、そのにおいも。
彼が少しドジで、優しくて弱虫なことも。
クラウド。
彼の名を呼びたくて「ナァ、」と鳴く。彼はやっぱりすごく悲しそうに眉を下げて、それでも優しく「ん?」と言ってくれる。声がかすれてたことは知らないふりをしてあげるよ。
ぼくはきみの友人だからね。
クラウドを最後に見つめた猫の目は、真っすぐで丸くて、昼下がりに吸い込んだ光を閉じ込めたまま艶々と煌めいていた。
猫の願いはたったふたつ。
このひとがこの先も幸せに過ごしてくれること。その生をいつか全うしたら虹の橋の途中で待っているぼくをみつけて、もう一度抱きしめてほしいということ。
それが約束されているなら、目を閉じてしまってもぼくは怖くないよ。
ビスキュイみたいなきれいなオレンジブラウンの瞳がゆっくり、ゆっくり閉じる。
瞼の裏にはまだ、部屋のランタンやキャンドルのぼんやりしたぬくもりと、マロングラッセのふんわり頭で困り眉の彼の顔が貼り付いていた。
ぽろり。片方の目から涙の粒が落ちて、クラウドの手に留まる。それは雫ではなく涙の形をした石のようなものだった。
クラウドはキュイが目を閉じてもう開かなくなってから、やっと涙をぽたぽたとこぼしながら、それを拭うこともなくただ片手で涙の形をした石を握りしめて、もう片方の手で猫を優しくなで続けた。
おやすみ、ぼくのいちばんの友人。
長い夜が明けて、背の高い樹木からやっと陽が控えめに差し込んでくる。暗いうちに静かに降った雨は今は止んでいて、帆布からのぞく家の窓には雨粒が貼り付き、硝子越しに見る草原は雨と朝露で虹色に光っていて。まるで川の中の泡みたいだと思った。
あのあと念の為にキュイの瞳を指で開いたけれど、瞳孔が開ききっていていつものこっくりとしたあの色はなかった。
なでていくうちに体が硬くなって、それでもなで続けていたけれど、朝の光がリビングの窓を透過したのをみて、クラウドは下に敷いていたスローでキュイの身体を包んであげる。
そうしていつも寝ているリビングのソファに猫をそっと移してあげた頃、ドアの外に気配を感じた。
「……ずいぶん早いなぁ、」
かすれた声でつぶやく。ドアベルの音でハッとして、涙の筋でぐしゃぐしゃになっていた顔を急いでキッチンで軽く洗うと、彼はエントランスの扉を開けた。
「こんにちは、クラウド」
そこには自分と同じくらいか少し歳上くらいかの風貌の、凛とした顔立ちの女性が立っていた。
切れ長の瞳は憂いを帯びていて、ブラックネイビーのローブワンピースに黒のボトムがちらりと見える。靴は………キュイの目の色のようなオレンジがかったブラウンで、彼女なりの心遣いだとクラウドは認識した。
「こんにちは、リラ。来てくれると思ってたけど、思ったよりも早かったね」
そう返すと彼女は少しだけ目元を緩ませて微笑んだような気がした。
「キュイが呼んでくれたのよ。あなたがきっと泣いているだろうからって」
彼女の手元には、1輪の白い花がある。
ソファに静かに眠る猫の前に膝をついて、リラと呼ばれた女性はそっと猫のそばに花を手向ける。
彼女は遠くの街で花屋を営んでいて、何匹かの猫と共に暮らしている。
クラウドが創った宝飾を初めて買ってくれたのが彼女だ。栄えているその街に売りに行ったときにたまたま出会ったのがリラだった。
それから遠い遠い街だったけれど、彼女がこちらに訪問してくれて宝飾を買い付けてくれたり、彼女の店に自身の作品を商品として置かせてもらったりして、何年も交流は続いている。
なにかと不思議なことを言ったり猫の言葉がわかると言ったり、だからリラは「魔女」と呼ばれているけれど、昔のそれとは違って街の人には好かれているようだった。
「ねえ、リラ」
クラウドは、ボトムのポケットに手を突っ込んでから、取り出したものを手のひらに乗せて彼女に見せる。見やすいようにソファの横でかがんで。
「キュイが涙を流したんだ」
そうしたら、硬い石になった。
すこしだけ言葉を詰まらせながら告げる。手の中の涙型の石は、猫の瞳そのもののビスキュイのようなオレンジブラウンで、これまで見たどの鉱石よりも光を取り込んで美しく輝いてみえた。
「こんなに小さな粒なのに、本当にきれいなんだ」
石を見つめる彼の瞳もゆらりと光を帯びる。
リラは直接触れずに、そっと覗き込む。小さいけれどそれはまるで、ひときわ美しいトパーズのようだった。
「……インペリアトパーズ。キュイからあなたへの、最後の贈り物ね」
彼女の穏やかな声音が心臓の中で不思議に響く。
「猫だけじゃないけれど、一緒に過ごした大切なひとに、お別れの前に授ける涙の石」
「涙の石、」
「うん。キュイの目の色で、この涙の石はトパーズになったのね」
彼女は言いながら、手向けた花の向こうで目を瞑る猫の眉間をそっとなでた。
別に誰にでも贈るわけじゃなくて、ほんとうに大切だと思うひとを遺して旅立つことを惜しんで、そのひとが悲しまないように……という想いが強いときに動物は泣くのだという。
「リラは、涙の石を何度も見てきたんだね、きっと」
彼女はそれには応えなかったけれど、長い黒髪を後ろで結う革紐のそばに添えられたヘアピンには、パステルブルーが美しい涙型の石が、銀の細やかな飾りに囲まれながらついている。
いつか彼女がこの石を持って来て、「この小さな鉱石を、削らずに髪飾りに加工してほしいの」と頼んできたときの。
……そうか。
当時のクラウドは知らなかったけれど、依頼された石は、彼女に愛された誰かが最後に泣いて遺した贈り物だったのだとようやくわかる。その黒髪によく映える、シーブルーカルセドニーだった。
「キュイは幸せになれたんだね」
彼女は言うけれど、そうかもしれないけれど少し違う。
幸せだったのは、ぼくのほうだ。
クラウドは優しい目に涙をためながら、手の中のキュイからの贈り物を見つめた。きっとこの子は、自身が独りになってしまっても悲しむことがないように、これを遺してくれたのだと。
「インペリアトパーズ」
呟くと、あのきれいなビスキュイ色の双眸で脳と心がいっぱいに満たされる。こういう職業だから、石言葉は知っていた。
……友情。ぼくたちにぴったりだね、クラウドは涙の石をそっと握りしめた。
リラが帰ると言って、猫のおでこをもうひとなでしてから立ち上がる。エントランスに向かう彼女の背に、クラウドは思わず訪ねた。
「キュイは、なにかぼくに言っていた?」
彼女は振り返ると、「それは魔女と彼との秘密だから」と言う。猫の最後の願いを彼女は知っているんだろうか、そうでなくてもそう思わせる不思議さが彼女にはある。
「そうだよね」
少し寂しいけれど。それを埋めるほどの彼との記憶があるから。クラウドは少しだけ笑うことができた。
「……でもそうだね、わたしが手向けたあの白い花は、ネリネっていう名前なの」
ということだけは伝えておくね、と言い置いて、彼女はエントランスの扉を閉めて帰って行った。
ああ、コーヒーを淹れてあげればよかったな。そんな事をぼんやり思いながら見送って、再びソファのそばに戻る。彼女が猫のために持ってきた一輪の花はカーブした細い白の花びらが華やかで、涼やかで綺麗だった。
そういえば、と作業部屋に入って本棚を漁る。鉱物以外にも創作の参考にするために、動物や異文化や歴史の参考書が置かれている中で、ハードカバーの花の本を見つけ出した。
少しついていた埃を雑に袖で拭い取って、ぱらぱらとめくる。縁が日焼けか何かで黄色くなっている、ちょっと古びた本だ。
ネリネ、という花はヒガンバナ科のページの中に佇んでいた。夏に咲く白い美しい花。
そこに添えられた花言葉を指でなぞりながら、クラウドはまた泣いた。
やっぱりぼくは弱虫で泣き虫だね、キュイ。
しばらく部屋で鼻をすすっていた。泣き虫なところをキュイに見せないように。
それからなんとか深呼吸をして、リビングのソファで眠るように横になっている愛しい猫の頭を優しくなでて声をかける。
「エスプレッソを淹れようか」
キュイの気配がまだ家中に残っている。
スローはキッチン横の出窓に変わらず置かれていて、キッチンの戸棚の中には猫用のクッキーがあって。
外は少し背を伸ばした草原と、背の高い木に囲まれていて。バルコニーの向こうではわずかに見える川面が、ちらちらと光を揺らしている。
変わらない日常の中で、クラウドは今日も宝飾を手掛けている。
大きく削るときはとなりの村の工場に機器を使わせてもらいに行って、家の作業部屋では水で濡らしたやすりで磨いたり、いろんなジュエリーに加工する。他にも火を使ったり工具もたくさん駆使したり、原石を見に行ったりと様々な工程があるけれど、どれもいつも通り真剣に携わる。
ほんの少しだけ変わったことがある。
正午を過ぎた頃。作業部屋から出てきたクラウドはひとつ背伸びをして、今日もキッチンへ向かう。使い込んだマキネッタに挽いたコーヒー豆と水をセットして火にかけて。
となりのコンロにミルクパンを置いてミルクを注ぐ彼の、シャツの襟。華奢だけれどきれいなブローチが付いている。
ビスキュイのように香ばしいオレンジブラウンのインペリアトパーズは涙の形をしていて、囲う装飾は相性の良い金。彼が動くたびにつやりきらりと光を取り込む、美しいブローチだ。
それは、彼が初めて自身のために手掛けた宝物だった。
『最後の涙を流すとき』
また合う日を楽しみに。