メイクとさよならできない
キッチンカウンターのオレンジのスポットライトと、リビングのライトをひとつ。
カジュアルな明かりの下で、わたしはソファに腰かけてメイクポーチを漁っている。
からからかちゃかちゃという軽い音に、ハンモックから顔をぬっと出しながら猫がむにゃむにゃ言ってきた。
「母ちゃん、こんな時間からおめかしするん〜?」
「ちゃうよ、今日はずっと雨やったからね、お出かけはせんよ」
猫に笑みをこぼして、わたしはまた視線を手元に戻す。わたしの希望でリビングのカーテンは厚みの異なるレースを2枚重ねている。だからいつもは昼間でも柔らかい採光があるのだけれど、今日は雨で外は妙に白くどんよりしていて暗く、時間も夕方だった。
雨の日は朝から動けないことが多い。個人的に偏頭痛がひどくなるのは空が白く暗いときだった。
最近はうつとの闘いもあって、雨や曇りの気圧が低いときは、体の上に大きな鉛が置かれる。今朝も起きれずに、なおさんを見送りできなかったことを思い出して、わたしは手を止めて息をついた。
「おめかしせんのにいっぱい出して何すんの?」
猫が近くまで来てすんすんと鼻を動かしながら、ローテーブルに広げられるメイク道具を見やる。
「明日はなおさんがお休みやねん。お出かけする予定やからな」
「ふーん?」
早くも興味を無くす息子を横目に、わたしはアイテムを眺めて顔を緩めている。
日焼け止めクリームに、2種類のトーンアップクリーム。コンシーラーにプレストパウダー。ファンデーションはもう2年くらい使っていない。
もう何個目かわからないほど愛用している物も多かった。ああそういえば、
「そもそも明日出かけるときのお洋服決めてなかったわ」
思い出したように呟くと、猫は呆れた風にあくびをする。
もともとメイクや髪型や服装は、わたしにとって「武装」だった。
今もその気持ちはある。特に仕事をするにあたって、わたしにはコーディネートという名の「武装」が必要だった。
人間として何かしら足りない部分を隠す意味もあったし、見た目の気に入らない部分をごまかすためでもあった。
けれどわたしはメイクを楽しんでいた。
わたしはそれを「顔面工事」といつも呼んでいる。個人的には気に入っているのだけれど。
メイクは自分に自信を与えてくれるとよく言うけれど、わたしは本当にそれだった。
化ける級に変わるメイクはしないけれど、無いものを描き足して要らないものを見えなくするのは、わたしにとってとてもやりやすい「武装」だ。
気付けばひとり暮らしのアパートのベッド下収納は、メイクツールやアイテムで溢れていた。
……何を、隠したかったんだろうなあ。と、今は思う。
先天性のそばかすは、ファンデーションとコンシーラーを重ねて隠した。でも、本当は生まれつきのそばかすは、わたしは嫌いじゃなかった。
昔、二十歳になったばかりくらいの頃に幼馴染3人で旅行に行った記憶がある。たくさん写真を収めたけれど、その旅行でわたしが思い出すのはいつも、誰より時間をかけてメイクをしている自分だった。
幼馴染という気心知れる親友しかわたしを見ないのに、自分を「武装」することに必死だった。
若気の至りといえばそうだけれど、今となっては結構後悔している。
メイクしないと不安だったし、メイクをすると人格が変われる気がした。強めなアイメイクとリップにすると、強い自分になれるみたいな。
わたしはきっと空っぽだったのだ。自分が無かったから、上辺をがんばって塗りたくり、何も無いと思われたくなくて服やジュエリーや香水で着飾り、自分はここに居ると自身に言い聞かせたかった。
がんばってもがんばってもがんばっても、やっぱり何か足りない自分、それでも存在意義を示したかった。……
「母ちゃん、晩ごはんのしたくせんでええの?」
猫の言葉に時が戻った感じがした。ぼーっと見つめていたのはくり出しタイプのアイライナー。手のひらを広げると、その上でからからと小さく鳴りながら色んな色のライナーが転がる。
「今日は唐揚げ作るから、今下味つけとるとこやねん」
「ぱちぱちするやつ?あんまおっきな音たてんとってね」
まるが目を丸くして耳をしゅっと縮こませる。可愛くて上からひと撫ですると、猫はテーブルのメイク道具を一瞥してからハンモックへ戻っていった。
「したくがまだならぼくもう少し寝るね」
そう言って尻尾をひとふりしてサークルに入った。
わたしは今でもメイクが好きだ。
結婚後、間もなくしてうつになった。その頃は「顔面工事」もろくにできず、起きない体をどうにか無理やり起こして仕事に向かうけれど、気を抜くとどこでも涙が止まらなかった。メッキのように簡単にボロボロに崩れる「欠陥工事」みたいだった。
何をするのも怖くなって家に閉じ籠もっていた日々、メイクボックスを開けるのも見るのも怖かった。
「武装」できてたときはまだわたしは強かった。強がることができた。でもそれもできなくなった今のわたしは完全なる無だと。
自分ががんばってきたこれまでのすべてを、受け入れられない自分がいた。だからメイクも、嫌いになりそうだった。
新居に引っ越す際、わたしは自分が持っているもののほとんどを削ぎ落としてきた。
洋服も香水も、売れるものは売って人にあげれるものはあげた。
ベッド下に溢れるメイク道具も、わたしは断捨離を試みる。
メイクを嫌いになってしまうかもしれない。今後メイクをしないかもしれない。それでも、
「それでも思い入れのある限られた物たちだけ連れて行こうって思ったんよ」
取り出したペンタイプのメイク道具を、今度は丁寧にしまいながら呟く。猫が聞いているかは知らない。
もう十何年も浮気せずにリピートしているアイブロウペンシル、綺麗すぎるまつげは虫の足みたいで嫌だからと、仕上がりにこだわったマスカラ。面長を目立たなくするためにほくろを強調させる、それだけのために買った極細のペンシル。
大丈夫、わたしはまだ嫌いになってない。
大小の黒のナイロンポーチを眺めながら確信づく。
メイクアイテム用は大きなポーチで、かなり絞った私のお気に入りたちをこの中にパンパンに入れている。
ちなみに小さいポーチはメイクツールだ。
パーソナルカラーが秋と夏のニュートラルなわたしが、どちらのアイメイクでも楽しめるように色んな色のアイライナーを持っていること。
チークは質感や色味の異なる6種類を厳選したこと。
ハイライトは5個もある。
本来はもっと手放せたはずだった。メイクなんて、ワンパターンであればカラーバリエーションなんて要らないし、それでも最低限の武装はできるのだから。
……それでも絞りきれなかったのは、「メイクを嫌いになりたくない」という気持ちに過ぎないのだと思う。
少し昔のわたしが「そばかすは嫌いじゃないからファンデはしない」と勇気を出して決断したように、またきっと、「好きの形」が変わるだけなのだと。
ポーチのジップをしめる。パンパンだから、ジップが少し波をうった。
「うーん、明日の服が決まらないから結局わかんないや!」
あくびをしながら言うと、猫がつられてあくびをした。猫もつられるんだなぁと思った。
「母ちゃん、明日も雨だよきっと」
「そうなん?それは困った」
でも明日はなおさんがお休みだから、お昼前くらいに起こしてくれるだろう。ゆっくり準備をして、お昼すぎに出かけるんだ。
なおさんがいたら、多少のことは大丈夫。車出してくれるし。
なおさんとのお出かけの日にメイクを少し楽しめるようになってきたのは、本当に本当に最近のこと。
よかった。まだわたしには「顔面工事」する理由がある。
目的はもしかしたら違うかもしれないけれど、わたしはきっとこれから、メイクをまた少しずつ楽しめる。
「全部を捨てないでよかった」
これまでの「武装」してきたわたしのすべてを否定しないでよかった。
ここに残ったものが、次のわたしを描いていく。
ポーチを元の位置に戻して時計を見ると、そろそろ唐揚げ以外のおかずを作ってもいい頃だなと思った。
「メイクは明日の楽しみにして、お味噌汁をまずは作るかなぁ」
「母ちゃん、お米炊いたっけ?」
「………」
猫の何気ないひとことに、わたしは焦りモードになった。
それからわたしのキッチンでのパタパタと、猫の毛づくろいがはじまる。
『メイクとサヨナラできない』
空っぽなわたしをこれまで護ってくれてありがとう。
これからも好きでい続けられるように。